第143回土曜講座 2002年10月19日
「立花隆問題とは何か」--質疑と討論の記録(まとめ:後藤高暁)
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第143回土曜講座では谷田和一郎さんに「立花隆問題とは何か」を語っていただきました。当日は20数人の熱心な参加者に恵まれ、以下の記録にみるように討議もかなり盛り上がりました。この討議に先立って、谷田さんの講演があったわけですが、そちらの方は『どよう便り』第58号と第59号の谷田和一郎さんの論考をご参照いただければ幸いです。皆さんからのご意見をお待ちしています。■
司会(上田)●では皆さんからご意見やご質問をお願いします。
A●立花隆が科学ジャーナリストとしての役割を果たしていないと言われたが、科学ジャーナリストとしての立場を明らかにした本は10冊ほどある。『サイアス』でやっていた加速器や素粒子についての記事なんかは現場で起こっていることを生で伝える、最前線でやっていることを広く一般に啓蒙する科学ジャーナリストとしての面が立花氏にあったのではないかと思います。
谷田●私は、単純に紹介するだけでなく何らかの意義付けをして社会においてどういう役割を果たしてどういう意義があるかについて、自身の考え方を入れていくような仕事が、科学ジャーナリズムであると個人的には思っているので、いまおっしゃった意味での立花隆の仕事は自分の考えを表していないので純粋な啓蒙家であったり紹介者だと個人的には思っています。
A●それは科学ジャーナリストと言わないのですか。立花隆が権威だからというのではなく、科学ジャーナリストとしの一面も持っているのであれば、熱力学の第二法則の例に代表される間違いを、間違っていますよと伝えて、討論できる場を作っていくべきではないのですか。具体的に立花氏との対話を考えているのですか。
谷田●いや、別に考えていません。僕の本はタイミング的に「東大生は馬鹿になったか」というのが出る二三日前に出たお陰で、書店では二つ並べて販売してもらうという僥倖に恵まれた。それがあって初めて話題になっている部分もあり、ここまで権威のある方と私が討論を企画するのはすごく難しいことです。実際にシンポジウムに呼んで討論するという手もあるが……。
司会●伝えるべきかどうか、伝えて効果があるのかどうか、本当に伝える場が作れるのかどうかはみんなが考えていくべきことですね。
B●多分立花隆の話はほとんど信仰のレベルの話なので、ここが違うと言うような個々の問題点といったところではないところに本質的なことがあると思います。谷田さんもそれを伝えるために批判して、個々の間違いから見えてくる、立花隆の背景にある不合理なものを突いていると思うのです。だから批判するためには討論をやった方が良いかも知れないけれど、あまり意味はないと思います。私の思ったことを言わせてもらうと、立花さんに一番近いのは誰かというと、経歴は全然ちがうが多分船井幸雄だと思うのです。彼が何故支持を得ているかというと、もともと経営者層が多かった訳で、彼も著書の中で何度も繰り返し言っているが、信仰を持っている人によって支えられてセブンイレブンなんかが成功している。船井幸雄の周りにも同じ様な人が多く、彼等に共通していることは科学的な知見を色々なタイミングで持ってきたり摘み食いをしたりして、それで自分の考えに合う美しい未来像を描くが、科学とは何かということを問うた人が全然いないことです。立花隆も多分そうで、科学が全ての問題を解決していくという信仰があった時代の考えを引きずったまま最先端のものに飛びついている。だから科学ができることとできないことの違いを問わないまま自分のビジョンに照らし合わせて美しい姿を描いているのではないかと思う。それは船井さんだけではなくソニーの土井さんという人も典型的にそうだと思う。私もそういう域にかなり突っ込んでいたので、何が間違っていたのかと自分なりに振り返ることができたのです。一度暴走してしまうとなかなか振りかえるタイミングが無いので早めに失敗した方が得なんだろうと思います(笑い)。谷田さんのレジュメに、「他人をけなすのは悲しい」と言う意見が寄せられたというのがあったが、これは典型的なイメージ系の人の反応だなと思いました。立花隆が批判を受けにくい体質と同時に批判を受けても意に介せずという態度をとっているのも典型的で、信仰だから意に介さないのも当たり前です。私自身は立花さんに全く影響を受けて来なかったので彼がどんな間違をしているかを気にしていなかったが、立花隆だけでなく多くの科学者・技術者が同じ様な性質を持っているのではないかと思います。オカルト対科学の議論では、テレビでUFOはあるのか幽霊はあるのかというのがあったが、あれに出てきた人は科学者としては非常に質が低いと思いました。科学とは何かを判らないまま科学ではこうだと言っている。オカルトに対してはアンチテーゼがこの程度にしか言えないから、それが立花隆とかオカルトと科学を組み合わせて美しい姿を描く人を暴走させる要因になっているのです。また日本の中にいたいろんな神様を近代の中で捨てしまいその権威な無くしてしまったが、行き詰まってしまって次の神様が欲しい時に、船井さんとか立花隆が閉塞した人類の状況を明るい方に見せてくれる役割を担っていて支持を集めたという気がします。
谷田●船井幸雄もイメージ系の方ですが、立花隆が持っている権威とは若干違い、その分野で権威を持っている方です。立花隆みたいな権威は船井幸雄よりもうちょっと責任を負はなければいけないのではないかと個人的には思います。
C●谷田さんの本を読んでみて立花批判という面では皆まっとうだが、立花隆が言っていることに対しネガテイブな形で細かいことでここが違うあそこが違うと批判することが、あり得たかもしれない可能性を閉じてしまっているかもしれないという印象をちょっと感じました。逆に立花批判を通して谷田さんがどういう方に向かって行こうとするのかがちょっと見え難かったと思います。まっとうな権威はまっとうなビジョンを示すべきだという主張はそうだとは思うが、もし権威にまっとうなことをされたら、権威以外の人は何をすればいいか、どういう形でビジョンを作っていけばいいかがちょっと見えにくくなると思います。逆に立花隆にこれだけ穴があることで批判がし易く、いろいろな権威以外の人が彼の提示するビジョンに口を挟んでいくことが容易になったという意味ではこの穴の大きさはかえっていいのかなと気が付きました。
谷田●私自身は自分の本でなんらのビジョンも示していません。それは僕の中でも反省していますが、実際に今の私にはビジョンを作る能力はないし、それは私が40年50年かけてやっていきたいなと言う仕事です。それは多分皆さんも同じと思います。ビジョンとはそれぞれの人が作るべきではないかと思います。それぞれの人がビジョンを作る手助けし、一つの選択肢を示すのが権威だと思うのです。だから誰かが完璧なビジョンを作ったとしても別な方向性もあって良いわけです。その中で選択していけばいいことだと思います。
C●小林さんがいわれたように、立花隆が科学信仰をかなり無責任に煽ってしまう傾向はあると思うが、一方科学者自身が実際に研究を進めていこうとしたときに対外的にお金を得るために無責任なビジョンを言うことは良くあることです。例えば人工知能研究にはこれだけの可能性がありそのレベルアップが必要なのだという形で科学者は言う。こういう可能性・夢があるからということでお金が入ってきて、夢が実現されるということは十分あり得ることです。立花隆の発言のインフレ気味のところはかなり先行投資的な意味を持つものとして捉えられるのかなと思います。実際に言っている常温核融合なども客観的に見た時にいつ出来るのかなと思うのに、いつまでも予算が付いている状況であるのですが、そういう点から見ると立花隆が実現性が低そうだということに対してもいろいろ言っていること自体は多少無根拠であっても、それはそれで科学者と同じ様な行動パターンで科学者の代弁者してやっていると思えば理解できないことはありません。一方どこを批判すべきかというと、どこかにお金を投入しようとした時に納税者として国民への説明責任が完全に欠落しているという点にあります。科学に対する批判精神がないというのは、どんどん科学的な研究が進められていったときにどういう社会的・経済的政治的な問題が起こされてくるかについて、ある程度客観的な予測が可能と思うのですが、こういうところが完全に欠落しています。村上陽一郎さんがいうブレーキ、車をどんどん進めるがブレーキを欠いたところで立花隆が無責任に加速しているところに問題があると思います。そのような意味で科学信仰というのは立花隆自身のものとしてだけでなくもっと大きい問題があるのでははないかと思います。
谷田●常温核融合とか人工知能を進めるべきだと立花隆が煽るというのは認められるのですが、常温核融合だと一生懸命に金をつぎ込めばなる可能性はあると思うからそのコストと利益を見て納税者に説明責任を果たしていると考えれば良いと思うのです。宇宙進出等になってくると、それを人類や日本人が望んでいるか望んでいないかということが問題なので、常温核融合だと人間が豊かになることはあるかもしれないが、宇宙進出しても多分人間は豊かにならないという意味で、宇宙進出はビジョン自体が間違っていると個人的には思います。
司会●そのへんはいろいろ意見が分かれるところかもしれませんが、立花が語る宇宙進出やお金がたくさんかかる対象として言っている常温核融合みたいなものについて、それぞれがどこが共通でどこが違っているというような議論はあると思います。
D●立花隆は先に結論があってそれを導き出すために情報を出していると指摘があったが、非常に面白いと思いました。立花隆が『知のソフトウエア』とかいう講談社新書の中で、京都大学のKJ法の川喜田二郎が「事実をして語らしめて、事実を積み上げていって心を空しくしてそこから出てくるものが結論なのだ」と言っていることに対して、立花隆はKJ法なんかで馬鹿な奴が百人集まってもろくな結論は出ない、頭の良い人間は一回本を読めばその中で必要なことは全部見えるからそれで本が書けると言っている。それを見て私は凄く頭が良い人だと思ったが(笑)今日の話を聞いてそういう思考方法の危険性を感じました。先に自分の書きたい結論があって本を読んでいった場合、ここにもあったあそこにもあったという摘み食いになってしまう。それはある意味では科学的とはとても言えない一種の宗教ですね。周りにあったものでいうと、事故にあっても本来死ぬところだったのが脚が一本もげただけで済んだのは神様のお陰だと、全部そういうふうに信仰することができるというふうに感じて面白いなと思いました。次に例えば21世紀の科学をイメージとして喚起した例で言うと、鉄腕アトムなんかは歩く原発だしウランちゃんとか危険なものばかりです。ウルトラセブンとかウルトラマンなんかも好きで見たが、必ず怪獣が出てくると全てを知る万能の科学者みたいな顧問オブザーバーが必ずいて、いきなり1200年前みたいな怪獣の弱点を言うのです。そこで「両棲類は得意だがあの怪獣は爬虫類だから判らない」などと番組の中で言ってくれれば、科学とはいい加減なものだ限界があるのだということを信じた筈なのですが、僕らの時代では科学は万能なのだという社会状況の中でそういう番組が作られたのです。それと共通するのは、高度経済成長していって焼け跡から日本が発展していく中では、坂本龍馬など『坂の上の雲』(司馬遼太郎)のような人々の生き方に経営者が心を打たれるものがあったのです。ところが社会主義圏が崩壊して共産主義も駄目になり、資本主義のITバブルがはじけて駄目になり、スピリチャリテイーもオウムで駄目になってしまった。そういう決定的な誰もが信じられる明るいビジョンが無くなってきている厳しい中で、昔は科学とは何かと議論がされていたのに、きちんとした議論がされず『日経サイエンス』など真面目な本が売れなくなっている。一方で船井幸雄みたいのが「この薬品を飲んだら全て健康になりますよ」みたいなことを言うとそれにすがりたくなってしまう。さっきビジョンとは一人ひとりが作るものと言われていたが、普通の庶民には一人でビジョンを作っていくのはなかなか厳しいと思うのです。そういう意味ではやはりビジョンがない中で技術だけが暴走しているという社会状況が、立花隆の背景にあるような気がしてならないのです。
谷田●ビジョンはそれぞれが作れと言ったのですが、別に自分でクリエートしていけとは言っていないのです。特に立花さんのような権威が出すビジョンというのは受け入れ側も受け入れ易いと思います。ビジョンとは自分自身のなかでこうしたいと望むものがあってそれを引き出し具現化したものだと思いますが、それを権威はうまいこと引き出して具現化してあげる役割を果たすべきなのではないかと思います。立花さんもそういうことをすべきです。実際にしてきているのかもしれませんが。
E●さっきCさんが、ネガテイブな批判をして間違いを訂正していくことだけで自分のビジョンを示さないと指摘されたのですが、私もビジョンを示さない姿勢そのことが立花隆の権威を認めているあるいは権威があると想像させてしまっているのではないかと思います。私にはビジョンを言えないといっている段階でもう立花隆に負けているように思います。私はなぜ立花隆の権威を借りるのか何故売れるのかなということに興味をもって研究しています。またレジメ5番の最後の所で「研究者科学ジャーナリストがこのような誤りを犯したのは致命的」とのコメントがあるが、これは一見当たり前のことのようで、科学を扱うときには誤りがあってはいけないという前提があるからこそ立花隆論が起こったのだと思いますが、立花隆以外の研究者とか科学者が本当に誤りを犯していないのかと言うと実際にそうでは無いし、立花隆を擁護するわけではないが、研究者や科学ジャーナリストが誤りを冒すのが致命的というのは社会的に否定された概念じゃないかと思います。言い換えれば科学の権威的なところ・傲慢さと言えるのではないかと思います。
谷田●それはその通りだと思うが、ただ科学ジャーナリストとか研究者の役割を社会が決めてそうしなさいと言っている以上はそれを守らなければいけないのではないかと思います。例えば警察が法を守らなければまずいように研究者は科学を守らなければ少なくとも建前上いけないと思う。また私はこの本でビジョンを示すことを意図的に避けた部分があります。それは20才そこそこの若い私がビジョンを示しても誰も納得しないと思います。立花隆だからやれる、やらなければいけないことだと思います。私は立花隆のビジョンの導き出し方が間違っているということと、立花隆自身のビジョンが現代社会にとって妥当ではないと思っているので、そういうことをこの本で伝えたかったのです。
F●私は立花隆をあまり読んだことはなく関心もないが、立花隆の評価で一番聞いたのは彼が大変インタビューがうまい人だということです。『サイエンスミレニアム』にも主としてインタビューです。立花隆よりもインタービューされる側の科学者や権威の方の問題はどうなのでしょうか。インタービューされる科学者のほうが言っていることの方が量も多いと思います。科学者が立花隆を広報的に利用していて、両者ギブアンドテイクでしているようであるが、科学者達の側の責任はどうなのか。実際に読んでみて科学者と立花隆の一種の癒着は、多分表には出ないとしても。
谷田●私の本の中では科学者へのインタビューものは基本的に取り上げていません。基本的には立花隆のオリジナルな発言を批判しているのであってここでは科学者を巡る批判はしていません。立花隆のインタビューの本は読んでいるが、科学者はやはり科学的誤ったことをいうのは凄く恐がっているなという気がしますね。
F●立花隆はジャーナリストとして多少誤りはあったとしても、インタビュアーとしては面白く名手であると評価しても誤りではないと思いますか。
谷田●ええ。
G●戦前派からの感想でいうと彼は『田中角栄の研究』でスターになったのだと思うのです。著作の歴史を見ているとすごく時流にあったものを出しています。しかし、先端科学になると発言が浅くなってきています。知識自体が難しくなってきているからです。テレビ等でのインタビューなどを見ても、大したことがないことに変に感動していたりする。MRIの研究室にいて、本当はそんなでかい磁場をかけるから良くないし手術にも使えないのに単に数字がでかいことに単純に感動している。再生医療なんか見ても感動している。それがそのままテレビで流されている。ある意味でマスコミも、スターや理化学研究所などをインタビューして、権威ある人が彼を利用しているということである種の大衆性をつくろうとしている。科学者はその名前だけで売れないから彼にインタビューさせて業績を紹介させるということがかなり多いのです。そうしていかないと彼の知識だけでは絶対書けないレベルに科学が来ていると思うのです。一方マスコミとかメデイアが彼に利用されていて、彼が追いついていけないがために逆説的にいうと彼が自分で書いたものを安易に鵜呑みにしている部分がすごくあります。例えばツインタワービルが崩壊した後の炭疽菌事件に関しても、白い粉は何かの粉に炭疽菌を混ぜて浮遊し易くしているだけで恐くないと言ったのですが、全然恐くなく心配する必要ないと彼が言うと、本当にそう信じてしまう人がいるのです。またツインタワービルは、ニューヨークは埋め立地で深い基礎工事をやっていないから崩れたと、おかしなことを平然と言ってしまう。あれは単純に重力で上から壊れた潰れ方をしているのにそういうことを言ってしまう。本来はそんなに知識が無いのに有名人だとして皆から認知されているところがある。知らないのに何かしゃべらなければいけないと浅智恵みたいなものがぽろっと出てしまう。そういう意味で権威であるかどうかは別として知識のある人と認知し、誤解してしまっている人が結構います。本の部数もそんなに多くないし専門家がみればおかしいと考える人がいると思うのに、ロッキードで業績をあげた凄い人とのイメージを人々が持っているだろうから番組に出ることによって視聴率もあがるだろうと、メデイアが彼の単純な暗示に感動するシーンを出してしまうものだから、それが間違っていても一般の人は科学は素晴らしいと誤解するのが恐いのです。
B●本の中に谷田さんのビジョンがないとの話があったが、私はそれで構わないと思います。自分のビジョンを入れてしまうと全体としての整合性が無くなり、自分の言いたいことを言うために立花隆を利用している内容になってしまってよくないと思います。こういう問題があるという部分だけでいいと思います。Gさんが指摘した、先端のことについていけなくなっているのはその通りと思いますが、谷田さんが指摘しているほとんどのことは高校生か大学の理系なら大体把握できるようなことを中心にしていると思う。基本的なことを間違っていて平然としていられるというのは、信仰であることを証明しているのだと思います。読んでいて面白かったのは進化論の観点から立花隆を批判しているところで、生物的進化論もそうだが社会進化論の観点からも批判しているのではないかと思います。私自身の考え方の変遷で言うと、進化論は大きなターニングポイントでした。自分が技術で変えていかなければいけない、解決して行かねばならない事に全力でチャレンジしても技術では解決できないという壁にぶち当たった時、社会的に解決しようと思ったら非常に楽に合意形成し解決できることを、さらに技術で解決しようとするためにさらなる問題点にぶち当たってしまうのです。しかし権威を持っている人達には、なお技術で解決しなければいけないと明言している人達が大勢います。立花隆を表に押し出してしまっている背景がそこにあって、本質は立花隆ではなくて権威のある人が間違っていることなのです。いずれ土曜講座の研究発表でもそこを抉りたいと思っています。ソニーの盛田昭夫さんや豊田章一郎さん等の人が、どんな問題にぶち当たってもそれを技術で解決しなければいけない、それはそういうものなのだと言い切っています。日本の産業を引っぱってきたトップ・財界にいる、日本を豊かにしたのだと自負と権威をもっている人達が技術進化論を非常に強く持っていて、宇宙に出て行かなくてはいけないとか、開発して人間が得るとこができる知見は全て人間の生活に還元していくことが人類の幸せに貢献すると本気で信じている人達が一杯いるのです。私は立花隆の問題を通して日本の社会が抱えている科学技術信仰の根深さにもっとアプローチできるようになったと印象を受けています。
司会●今いろいろな意見を出して頂いた内のどれかに若干絞って、先にあるものとか、私達はどうしたらよいか、本当に必要な科学ジャーナリズムが立花隆的なのものでないとすれば何なのか、そういう役割を担う人はどういう人か、といった先に繋がる議論をしたいと思います。立花隆は科学ジャーナリストの役割として現場の状況をよく伝える等のことをよくやっていてそれが受けたりもする。けれども彼のビジョンの持ち方には問題があることは共通の認識としてあると思うのです。それを受け入れる科学信仰みたいなものが実は私達のなかにもある。その背景はなんだろうか。科学者がその権威を利用して立花隆に託し、彼を利用している面もあるだろうということも見えてきました。一方では科学者が研究開発のためにお金が必要だと、お金とビジョンを語ることが一緒になっていて、彼に科学がいいものだ必要だと、うまく語らせてそれに科学者が乗っかかっているということもある。
H●立花隆がものすごく正確に研究の現状について語っていたとしたら果たして面白いものができるのだろうか? 果たしてここまで売れるのでしょうか? 立花隆の魅力はいい加減さにもあるのではないでしょうか。科学者が凄く正確に書こうとすると、得てして第三者からから見ると何が面白いのか判らないことになる。そういう意味で科学ジャーナリストとして立花隆は他にどのように書くことができたのでしょうか。間違いのレベルを減らすことが出来たとしても、どんどんを間違いを減らしていけばいいのかというと、どうもそうではないと思うのですが、このことをどう思いますか。
司会●大変興味深い問題ですね。
I●私自身はSTS(科学技術社会論)の立場から科学ジャーナリズムを見ているのですが、西洋の科学ジャーナリズムの在り方を論じたエッセイの指摘に、科学者集団の中では科学者同士がお互いに認め合うということがあります。例えば大衆に向けて発信することはきちんと自分の研究をしていないことの証であるとか、お金で個人的な利益のために動いているのだろうという見方もあるので、自分が本当の研究者と思っている場合は大衆に向けて発信することはまずないという暗黙の認知があるとの指摘です。それが日本の社会にきたときに、立花隆がいい加減でありつつも社会の中で科学者を代弁しているようでありながら、大衆が犯すような誤りをしているという立場でいることで、科学者の中から排除されるような科学者としてではなく、両方からの批判を受け入れるようなよりハイブリッド的な役割を社会のなかで果たしているという見方もあるのかなと思います。例えば日本の科学ジャーナリズムが悪いよと言う代わりにそういうような代表というかキーパーソンがいるからこそ、批判がしやすくなってお互いの双方向に見え易くなる状況があるのではないかと思います。そういうことを実際に一つ一つの文献を読みながらここはおかしい、ここはよくできていると批判されてきた人の意見をきいてみたいと思います。
谷田●キーパーソンがいてそれを私が批判しても、たまたま売れただけで、話題になったかというとせいぜい今みるような程度です。立花隆みたいにあれだけ有名になってしまうと、批判を受けるからといってそれでいろいろなことが起きることは現実的にはそんなにないと思います。
I●それは専門家集団と社会の側ではお互いの科学・技術という物を見る見方が違うということですか。例えば社会の側では鉄腕アトムは夢があるけれど科学的事故があったり漠然とした不安を抱えている、専門側ではその不安はきちんとした認識の上に立っていないのではないかというような疑念を持ったりして、ある種の認識のすれ違いがあるからこそ科学ジャーナリズムがきちんと媒介しなければならないという話になってきます。その時に立花隆のような人の存在があるから、これは科学的におかしいとか違うとの批判がおこり、社会の側からも読み易いとのでチャンネルになり易いのではないかと思います。実際に文章を読んでいくうえでその人の役割がよく見えてきているのではないかと思います。公衆から見た科学者と科学者から見た公衆のずれが見えてくるということが、多分Cさんがいい加減といった表現に繋がると思います。
司会●Iさんが言われるように立花隆をだしにして教材にして学べるという図式は成り立つと思うが、谷田さんが言うように立花隆が権威として大きくなり過ぎて批判が市民にも浸透しないし、もちろん本人も耳を傾けないで無視する状況の中で、今言ったような図式をどうしたら成り立たせることができるのかという問題は残りますね。
G●田中角栄研究をやっている頃の立花隆は有名で一つの権威を覆したりした。つまり立花隆の田中角栄研究を学びながら立花隆を学ぶことが可能なのではないのではないのでしょうか(笑)。谷田さんは権威を落とすことが目的ではなく、むしろ権威者は権威者としてのちゃんとした発言をしろということが目的なのかも知れないが、やはり立花隆という虚像が剥がれるきっかけを作られたのだからそういう方向に進んでいって欲しいと思います。
谷田●Cさんの意見にあるいい加減だから面白いという点はあるとしても、例えば熱力学の第二法則を間違える必要はないし、論理的に積み立てないでいきなり断定するのが面白いというのはまずいことと思います。そんなに理論的でなくとも、ある程度理論展開していって説得力がある形で提示しても面白い物は書けます。それは柳田邦男とかの例もあります。いい加減だから面白いというのは認めたくないです。
E●立花隆の本が売れる理由に今知識教養ブームのようなものがあるのではないかと思います。立花隆を読むと判った気分になる。判らないことを言っているのにレトリックでごまかされている部分もあるし、説明を読者がきちんと読んでいるかも疑問だと思います。説明部分は飛ばし読みをしても結論のところを読んでしまえば、ああそうかとなんとなくイメージで判ったつもりになると思うのです。多分読者層はサラリーマンが多いと思う。なんで読むかと言ったら今時の先端技術を判りたいが難しい物は読みたくないし時間もないからとりあえず結論だけをちょとかじっておこうかなというので立花隆が売れていると思います。だから読者は立花隆を批判的に見ることができないのではないでしょうか。
F●今のは立花隆よりは立花物を買う日本人の小父さんサラリーマンのようなメンタリテーが批判の対象になるのでしょうね。同様な技術者も多いのだろうと思います。島津製作所の人がノーベル賞をとるとサラリーマンもノーベル賞をとれると思ってしまうメンタルリテーのように、立花隆の本を読む人も自分は馬鹿の側ではのではなくて、自分は立花の側であり科学者の側に立っているのだという気持ちで読んでいる構図が見えます。それはアメリカでも多分似ているようなところがあると思うが、やはり違うところもあるような気もします。
司会●なぜ科学本を必要とするか、科学ライターが書くものをどうして皆が欲しがるかという問題と繋がってきます。
G●ずっと昔に学歴コンプレックスからおばあさんを刺し殺した話があったが、あの中で非常に印象に残っているのは渡辺昇一の書いた『知的生活のすすめ』とかいう本があって、彼がこういう本が出たことによって私も知的大衆になれると感動するからこれが売れているのだという指摘があった。これはコンプレックスの裏返しなのですが、小父さんからすれば最先端で何をやっているか読みたい気はあるのです。売れる本というのはそれなりに社会通念上のものがあるので実は間違っていても面白い訳です。最近出た「アポロはやらせで月に着陸」という内容のものがあった。あれは嘘なのだろうと思いながらもどうしてこういう論理になるのだろうか等と推理小説として読んでも面白いのです。ただ問題は凄い社会不安があったり、先が見えないとすると本気でそれを信じたりする人がいることです。日本全体がどこに行ったらよいかわからないので、少し前にはITがあればなんとかなるのではないかということがあった。その時立花隆が利用されているのかどうかは判らないが、野次馬だから世間が欲するものをやっていく、それはそれで素晴らしい事とは思うけれど、それをうまく権威づけてしまっていく社会不安が問題です。
J●社会構造について言うと、日本人は先端物が好きなんだけれど、本当に先進的なことを気にしてはいないのです。例えばゲノムの話でも、人ゲノムが全部解明され読まれた時にアメリカの大統領は発表したが、日本では何するって感じでした。バイオはまだ追いつけという感じですが、ITなんかはもう落ちている感じです。どうしてこんな社会構造なのか、科学をもてはやしているのか、もてはやしていないのか、皆さんに話して頂くと面白いと思います。
司会●そうですね。この先にどうしたらいいかということについて発言はありませんか。
F●1971年の立花隆の本で『エコロジー的思考のすすめ』では倫理のエコロジーと言って、弱者の倫理は弱者は無理せず弱者らしく生きることだと言っているのです。弱者は人の足を引っ張るのもよし、騙すのもよし、強者の甘い汁を吸うのもよいが、強者は弱者に目くじらをたてるが如き心の狭さがあってはならない、強弱共生的生き方をするべき、と動物の生態からかなり強引ですが説いています。いいことを言っていると思ったのですが、強者になってきてもこの精神で、寄生してくる弱者に目くじらをたてることなく本当にいくのだろうかと思いました。
K●オカルトというのが否定的に捉えられているが臨死体験はどうでしょうか。
谷田●超能力の話をするのに上下巻ある内の7割くらいも話をしているが、最後的にまとめる時になると”私はどうだか判らない”というのです。脳内物質説なんかを並べているが、これは科学とは関係なく本の作り方としてあまり好きではないという印象が私にはあります。
K●臨死体験の問題では完全に科学で解明されたわけではないから、イエスかノーかを着けてしまうとそれこそ非科学的な態度になりますね。
B●合意したいのは科学は絶対的なものではないことです。昔の科学者なら別だが、70年代以降ある程度学んだ科学者だったら科学に出来ないことがあるというのは合意されてきたとことだと思います。一般の人に科学に期待し過ぎてはいけなんだと、科学者と大衆を媒介する人達は言う役割があると思います。科学で出来ないことが判れば、今我々が持っている獲得してきたものを捨てて昔に帰れということではなくて、それを使って過去の社会の中で持続されてきたところをきちんと抽出して現代流に活かしていくことが必要で、民族学とかインデイアンを含むネイテイブな社会が持っていたノウハウを現代流に読み解いていく必要があると思います。 7
司会●そのビジョンはここでは議論しきれない内容かもしれませんが。
L●谷田さんは立花隆が理論的であって欲しいと思うでしょうが、多分無理ではないですか。先に結論がでてしまうという人がいるもので、300年くらい前の占い師とか予言者だったなら何の問題もなかったと思うのですが、今はこういう人は科学という語り口を使って言わないと売れないのです。「僕は直感的にそう思ったのだ」と言えば別にどうということもないのだけれど、それを理論的に裏付けしようとすれば無理が出てきてしまう。科学が純粋にいい意味の科学として存在するためには、一般の人も科学信仰をストップして、科学という語り口を利用しなくてもちゃんと表現できるような状況を作らなくてはいけない。それでないと科学をつまみ食いして売り物にしようとするような表現を取らざるを得ない。立花隆もそうだと思います。
F●70年代の公害の時には公害で非常に悲惨な人、弱者が日本の中にいたわけです、それに触れないで立花隆はさきほど言った弱者の倫理みたいなことを書いている。かれは弱者を貶めることは書いてないけれどもどうも許せないところがあります。私は科学が弱者の側に立たず強者の側に立つようなところがあることを言いたいのです。
G●ある本のなかで、人間には二つのタイプがあり、平穏無事にあることを楽しむ人と常に野次馬根性で事あれかしのタイプがあるが、自分は野次馬としてこれからひっくり返る真只中の大文明の崩壊を見物していくのだと書かれています。それはそれで面白い情報を提供してくれる人だからいいと思うのです。ですが権威ある人が助けてくれるのではないかとか、役所が何かしてくれるのではないかとか、今は環境問題に何百万も投資しなければいけないが市場競争原理が働けばその内安くなるからちょっと待っていようかなという風に皆がなるとまずいのかなと思います。
司会●私も思うことを言うと、今の時代に科学がもたらす夢みたいなものを語る時に立花隆のように語るのはかなり間違っているのと直感します。要するにいろいろな社会的な問題が増えてきてどうやって解決しようかと意識を持つことが必要な段階で、従来通りの科学の夢をしかも論理的にかなり怪しいようなことに基づきながら語るというのは非常に危なっかしいのです。立花隆は科学者の側と大衆の側の中間にいて科学者の側からはある種の宣伝マンとして仮託されている。大衆の側からすれば日常のいろいろなことを忘れ教養的なことで満足感を得るための情報を提供してくれている。そんな存在として両方から支持されているという基盤があって成り立っていると思うのですが、残念ながら今の時代にいろいろなものを解決していくときにそういうぼんやりとした思考停止状態にいてはいけない側面があると思います。科学は面白いけれどこんな風に使っていけるとか、こんな風に捉え返していくべきだとジャーナリスト等が中心になってもっと本当は駆り立てて欲しいと私は思うところがありますが、それは立花隆的な語りではないだろうなと気がしています。谷田さんが指摘するように彼の語り方とか夢の提示のし方は非常に問題が大きいし、それを批判できないとか批判しても通用しないという状況がずっと続いているのが困ったものだと感じます。だから立花隆を呼んできてシンポジウムをするというような方法もなくはないが、もっと立花隆のいろいろな言動を捕まえていろいろな場でこれはおかしいよと言って、それが広まるというのが前提と思います。三冊くらい批判本が出ていろいろな人が読み始めたので、ひょっとしたらマスコミが彼をテレビに頻繁に出すのを控えめにしてきているような気もします。けれどまだ全然足りません。立花隆を個人批判するのではなくてその先のものを見据えながら私達が科学ジャーナリズムはこうあって欲しいとビジョンを作っていかなければいけないと思います。
M●立花隆が出てきている社会背景的を皆が議論して、それを探っていくのは意味があると思います。それはこれからの科学ジャーナリズムの役割がどうあるべきか、ビジョンをどう持つべきなのかに繋がっていくと思います。ただ立花隆自身を批判するということには共感しないのです。彼は自分が社会的責任を意識するかではなく、知りたいことを知りやりたいことをやるというのが基本にあると思っています。『脳を鍛える』という本にか書いてあったが、人間とは一体何なのだろうかを大き視点で見ていくその中の一つの知として科学は捉えられていると思います。別に科学のことを伝えたいとか、科学のことだけを知りたいとかではなく、人間とは何なのかを問う一つのキーワードとして科学を捉えていると思う。哲学者は知を愛す者という意味があり、科学にとらわれず、人文学や人類学やいろいろな学問に興味を持って知っていく、まさに立花隆はそういうような存在と思います。ですから立花隆を批判の対象にはしたくないのです。
司会●谷田さん、最後に一言お願いします。
谷田●非常に勉強になり有り難うございます。個人的には旗色が悪いなと思って聞いていたのですが、正直言って言い足りなかったところもあるし、うまく伝えることができなかったところもあると思います。
司会●時間になりましたので終わりたいと思います。皆さん、ありがとうございました。■