シリーズ「私が出会ったおもしろ人物紹介」(1) 樋口美智子さん
「研究成果を実践の場で生かしたい」
大学助教授から宮城県庁への転身
薮 玲子
昨年の12月の講座では、「私が出会ったおもしろ人物紹介」と題して、未来を切り開く可能性を秘めた人物のプロフィールと仕事・生き方を、皆で紹介し合いました。ここでは発表者が持ちまわりで、その時の発表内容をエッセイにまとめていきます。12月に参加しなかった方でも、このエッセイをリレーで書き次いで下さる方を募集しています。ご感想もお寄せください。(上田)
★樋口さんとの出会い
一枚の名刺が私の手許にある。「東洋大学法学部法律学科、専任講師、樋口美智子」。1992年の秋、樋口さんと出会った時に戴いた。当時ウガンダの僻地で孤児達の支援活動に弧軍奮闘していた私の知人が、募金活動の為に一時帰国していた。いくつかのマスコミの取材を受けた中に、NHKのラジオ出演があり、エイズの蔓延するウガンダでの活動の様子が放送された。それを聞いて「私の大学の国際関係論の授業で、ウガンダでの活動について話をして頂けませんか?」と連絡をしてこられたのが、樋口美智子さんだった。知人は喜んで申し出を受け、私もその授業を聞きたくて、一緒に東洋大学の樋口さんのクラスに出かけて行った。
初対面の樋口さんは、ロングヘアーに黄色と黒のチェックのジャケットと黒のタイトスカートがビシッと決まっていた。なんとなく眼鏡の中年女史風を想像していた知人は、若くて美しい女性が現れてどぎまぎしていた。階段教室に学生が150名ほどのクラスだった。驚いたことに、樋口さんはご自分で小さな「カンパ箱」を手作りして、学生達にカンパを呼びかけられた。しらけムードの学生も多いだろうに、中には千円札をぽんと入れてくれた学生もいて、募金は思いのほか集まった。授業の後で樋口さん自身のカンパが加えられて、ウガンダの子供達の為にと知人へ手渡された。温かい善意に励まされて、彼は一週間後に再びウガンダに戻って行った。
それからまもなく、私は樋口さんのクラスのクリスマスパーティーに誘われて、出かけて行った。前日、口の悪い友人に「おばさんが学生のパーティーに出かけて何をするの? バカにされるだけよ」とさんざん笑い飛ばされた。内心ひるみながら出かけてみると、バカにされるどころか、学生達は私の周りを取り囲んで、熱心に話しかけてくるではないか。私のほかにも元青年海外協力隊の方が数名招かれていて、その方たちの周りにも学生達の輪が出来た。先のカンパ箱といい、このパーティーといい、樋口さんのクラスの雰囲気の良さは心に残った。ムードメーカーとしての樋口さんの力量を見る思いがした。
★転身
後で知ったことだが、私が樋口さんに出会った1992年は、樋口さんにとって一つのターニングポイントだった。米国の大学院で国際政治学を勉強した後、そのまま向こうのシンクタンク
に残った樋口さんが、帰国して東洋大学の講師の職についたのが1992年の春だった。私が出会った頃は、そんなふうには見えなかったが、大学講師としてスタートを切ってまだ間がなかった。その後1995年に助教授となり、活躍の幅は着実に広がっていった。大学の仕事の合間に、NPOとの交流や、海外への視察旅行、テレビ番組への出演など多忙を極めていた。1997年の秋には土曜講座で、その夏にスウェーデンを視察された報告をして頂いた(第84回「私のみたスウェーデン」)。どよう便り第11号にも樋口さんの文章が掲載されている。
1998年の春、樋口さんから一通の手紙が届いた。
「4月1日より宮城県庁にお世話になることになりました。かなりのチャレンジですが、行政職に一度身を置くことは、貴重な経験となると思いお引き受けしました」
年の始めには、4月になればまた大学で新入生を迎えることを思い描いていたという。それが突然の宮城県職員である。肩書は環境生活部次長で、ベテランの課長3名の上に立つ重要な幹部のポストだ。宮城県の浅野史郎知事からの直々の依頼だった。浅野知事は2期目の選挙で外部からの女性の幹部登用を公約として掲げていた。それにしても、大学で政治学を教えていたとはいえ、それまで自治体との関わりもなく、浅野知事とは面識もなかった。そんな樋口さんに白羽の矢を立てた浅野知事もたいしたものだが、東京を離れ、大学を退職して、はるばる宮城までやってきた樋口さんの決断も見上げたものだ。
★行動力の原点
樋口さんのこの行動力の原点は何なのだろう。彼女が政治に関心を持ち始めたのは中学生の頃だという。中学2年生の夏休みの研究には、ベトナム戦争について調べ、90枚ほどの論文にまとめている。アメリカは民主主義や自由、平等、博愛を掲げているのに、なぜアジアの小さな国に爆弾を落とし、村を焼き払ったりするのだろう。この憤りが出発点だった。
大学ではマーケティングを専攻し、卒業後は広告代理店に勤務するいっぽう、環境系の財団設立に関わって奔走した。その中で、何人かの政治家とも出会っている。タイの熱帯林の伐採が問題になった時には、JICAの協力でタイの農林大臣に会いに行った。「木を切らないように」と訴えても、そこには、木を切らなければ生活してゆけない現地の人の貧しさがあった。もっと発展途上国の実情や歴史的背景、政治情勢を知りたいという思いは募り、ついにアメリカのジョージタウン大学に留学することを決意する。社会矛盾を許さない正義感の強さ、思い立ったら行動に移すチャレンジ精神、それが樋口さんの原点なのだと思う。
★米国留学で学んだこと
ジョージタウン大学は外交分野ではアメリカで最も古く、授業内容には定評があった。現役の政治家や外交官の話を聞く機会がたくさんあり、ナマの政治動向がダイレクトに伝わってきた。カーター元大統領やキッシンジャーさんの講義も受けた。この授業のやり方は、後に東洋大学でも積極的に取り入れ、政治家や各国の外交官、さまざまな分野で活躍している人を招いている。私の知人の場合もそうだったし、土曜講座の上田昌文さんも、樋口さんの依頼で地球温暖化の講義をされた。
また、アメリカの素晴らしい点は、例えばオルブライト国務長官などは、ジョージタウン大学で教授を務めたり、ホワイトハウスに勤めたりと、大学と行政を頻繁に行き来できることだ。研究成果は実際の行政の場で生かしてこそ価値がある。今回の樋口さんの大学から行政への転身も、こういう理想的なモデルを垣間見たことが影響しているのかもしれない。
★政治を動かす力
樋口さんはいま環境生活部で、主にNPOの担当をしている。例えば一人暮らしのお年寄りの介護や給食サービスを行う福祉NPO、ごみ問題やリサイクル活動を行う環境NPO、その他、町づくり、文化、教育、スポーツなど、ここのところ様々な分野でNPOが力をつけてきている。21世紀は行政とNPOが協働しながら社会貢献活動を担ってゆく時代になると樋口さんは確信している。そのために、今は実際にNPOの人達と接触し、現場に足を運んで、市民参加型のNPO施策作りに力を注いでいる。とはいえ、まだまだNPOについて知らない人も多く、「NPOとは何か?」のフォーラムや講演会に飛び回っている。そして、これが一番やっかいなのだが、行政マンの中に根付いているNPOアレルギーもなくしてゆかなくてはならない。
県庁に入って感じたのは、新しいことに消極的で「前例がないから」「わが課にはなじまないから」と否定する姿勢が強いことだ。また、ちょっとしたことを通すのにも、書類がたくさん必要なのにも驚いたと言う。「研究成果を実際の行政の場で生かしたい」と飛び込んだ職場だが、庁内の意識改革やシステム改革はとうてい一筋縄ではいかない。ベテラン県庁マンと価値観でぶつかることもある。しかし、あえて民間人を幹部に登用した浅野知事のねらいは、行政の中に「小さな文化革命」を起こすことだ。その言葉を支えに、県政に新風を吹き込もうと、果敢にぶつかってゆく樋口さんの姿が目に浮かぶ。
いくつもの転機の度に、自分をレベルアップさせ、さらに新しいステージへの足がかりを作ってきた。これからも、樋口さんはそうしてゆくだろう。前途はますますおもしろくなりそうだ。心からの応援を送りたい。