【書評】 『チェルノブイリの森 事故後20年の自然誌』

投稿者: | 2007年10月30日

メアリー・マイシオ 著
中尾ゆかり 訳
『チェルノブイリの森 事故後20年の自然誌』
(NHK出版 2007年)

 本書はウクライナ系の米国人ジャーナリストが、10年以上にわたってチェルノブイリを何度も訪れてまとめあげた異色のルポだ。チェルノブイリ原発4号基の事故は人類史上最大級の汚染を引き起こし、事故後21年目を迎えようとしている今でさえ、原発周辺に「ゾーン」と呼ばれる広大な立ち入り制限区域が設けられたままだ。そのゾーンに通いつめて著者は何を見たか。それは不毛な荒野どころか、高濃度汚染の影響が複雑な形で見え隠れしつつも、事故以前よりも木々や植物が繁茂し野生生物も増え、ヨーロッパ最大の自然の聖域として息を吹き返している現実だった。”人のいない大地”という条件と放射性物質の決して一筋縄ではいかない複雑な挙動が生み出した、新しい生態系の姿が、著者の細やかで忍耐強い観察をとおして浮き彫りにされる。放射線生態学の観点からすると些細な検討に値するだろう興味深い事実が随所に記されている。

 たとえば、第2章に記されている「赤い森」(強い被曝で葉緑体が死滅)に生える「巨大な箒を逆さに立てたような格好で」芽を出していたり、「飴細工のようにねじれてい」たりする松。松に取り込まれた放射能を調べると、季節で変動することがわかる。野菜やベリー類では、カリウムになりすます放射線セシウムは春に一番取り込まれるが、カルシウムになりすます放射性ストロンチウムは夏に蓄積が始まり成長期にそれが引き続く。こうした植物の生理に加えて、水、土壌、苔、バクテリアなどが放射性核種ごとの挙動に複雑に絡む。

 野鳥や湿原(3章)、絶滅危惧種(4章)、野生化した馬(5章)といった動植物に話はとどまらない。この本のもう一つの特徴は、「自然誌」を語りながら――その理解に必要な放射線に関する初歩的な知識は丁寧に解説されている――チェルノブイリ事故の経過や住民避難、事故処理や汚染除去、被災住民への対応など、未曾有の汚染に翻弄され続けてきた社会の姿を点綴させていることだろう。

 水源を汚染から守ることと汚染を水で洗い流してしまうこととの間で、広大で複雑な水系を相手に苦闘を強いられてきたわけだが、ゾーンの汚染点源の下では21世紀に入って地下水の放射能レベルの上昇が観察されるという(6章)。故郷を捨てられずゾーン内に定住する人々には、食べ物をゾーン内で自給せざるを得ない人が少なくない。貧困が内部被曝を増大させている現実は、ゾーン外であっても汚染の度合いのきわめて高い地域に住み続けている数十万人にとっても同様だ(7章)。ウクライナ政府は2000年以降、汚染された農産物の摂取を減らすことにかける対策費を事実上ゼロにしているという。そして、近くに10分もいれば命を落としかねない急性障害にみまわれるだろう「石棺」。その核の残骸は「地球の深い深い傷跡」であり、そこに核燃料がどれくらい含まれているのかさえ確定することは不可能だ(8章)。

 チェルノブイリ21年目を迎えた今、事故を扱った一般書の刊行はごくわずかになっている。そのような状況で、いわばチェルノブイリの森を主人公にして、人と社会の動きを含めた事故とその影響の全体像を振り返ることができる、本書の出現を喜びたい。ただ、記述されているたくさんの事実や現象を整理し、生態系の広がりの中でそれらをつないでみる工夫が、読者の側に求められるように思う。そのことで本書の面白みは倍加するだろう。■

(上田昌文、『週刊読書人』所収)

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