日本と米国におけるナノリスク規制とその背景

投稿者: | 2009年4月4日

写図表あり
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日本と米国におけるナノリスク規制とその背景
小林 剛
(医学博士環境医学情報センター・代表/元カリフォルニア大学教授)
『環境管理』Vol. 45, No. 3(2009)より著者の了解を得て転載
ナノテクノロジーに対する規制は,これまで各国とも政府のガイドラインや企業の自主管理による取り組みに委ねられてきたが,米国環境保護庁(US EPA)は,2008 年1 月より実施していたナノ企業による自主報告制度の「ナノスケール物質スチュワードシッププログラム」(NMSP:Nanoscale Materials StewardshipProgram)では実効が挙がらないとの判断に加えて,ナノ物質の有害性研究の成果の蓄積により,同年10 月,ナノ物質の代表的製品のカーボンナノチューブ(CNT)を,ついに有害物質規制法(TSCA:Toxic Substances Control Act)の「新規」化学物質と指定し,メーカーに対して正式届出の規制を課した。さらに11 月には,ナノ粒子類に「重要新規使用規則」(SNUR)を適用,商業目的で製造・輸入・加工する場合には,少なくともその90 日前にEPA への届出を義務づけ,2009 年4月の施行を決定した。これを契機に,今後,米国が先鞭べんをつけたナノ規制の動向は世界的に波及すると推測される。
はじめに
ナノリスクの規制が,いつ,どこで,どのように開始されるかは,数年前から世界中の関係者の注目の的であったが,EPA は2008 年秋より,諸外国に先がけて段階的に規制を実施し,2009 年4 月には全面的に施行の運びとなった。
この背景には,ナノマテリアルの環境・健康・安全(EHS)研究が2008 年には飛躍的に進捗し,カーボンナノチューブによるマウスにおける中皮腫の誘発などのアスベストとの類似性が浮上し,企業の自主的管理に対して行政側が失望したことが大きな要因となっている。
ここでは,ナノテクノロジーのべネフィットとリスク,日米のナノリスク研究の現状と問題点,規制発動の背景,EPA の自主的報告制度の失敗と規制内容,日本の厚生労働省の対応,今後のナノリスク規制の動向などについて分析を試みた。
1 ナノテクノロジーのべネフィット
ナノテクノロジーとは,明確な特性を有する新物質を創造するため,ナノレベル(1 m の10 億分の1,毛髪の直径の10 万分の1,DNAの直径の約2 分の1)において,化学的・物理的プロセスを駆使して,特定の効果により物質を操作する最も革新的な技術である。今や,ナノ科学者らは,原子や分子を意のままに構成し配置する画期的能力を発揮している。
現在,既に商品化されている第一世代のナノテクノロジーによる消費者用製品は,一般市民が知らないうちに,ナノ化粧品からコンピューター部品に至るまで約80 種類にも達している(これは,ナノ物質類に対する「表示」が義務化されていないためで,消費者の安全確認の障害となっている)。
また,ナノ製造業で使用中のナノテク関連の原材料・中間産物・工業機器等は600 種類を超え,その生産量は10 年後には現在の25 倍の58,000 t 以上に急増すると予測されている(英国王立協会,2004)。
ナノテクノロジーの将来の進展と開発については図1 に示したとおり,食品包装(腐敗防止や最近の検出など),高性能の電池や濾ろ過装置,高感度センサー,ロボット類などの領域が期待されており,専門家は,世界市場におけるこれらのイノベーションによる製品と付帯サービスは1 兆ドルに達し,「新しい産業革命」の到来を予測している。
2 ナノマテリアルのリスク
ナノテクノロジーの利用により製造されるナノマテリアルの特徴は極めて複雑で,それらに固有の物理・化学的特性のほか,その超微小のサイズ・構造・質量・形状・表面積・表面化学成分・表面電荷・表面官能化・表面コーティングなど,粒子の有する多様な特性により,リスクの可能性は著しく増大され,従来の物質とはまったく別物と考えねばならない。
特に「そのサイズが小さいほど高い毒性を発揮する」という特異性は「諸刃の剣」で,生体における高い移動性による送達能力は,生物学的な長所と短所を併有している。ナノマテリアルはその超微小サイズを活かして,薬品・食品分野で,従来は到達できなかった身体部位への薬物や栄養素の効果の発現に利用される。例えば,脳-血液関門により困難であった脳への薬物の適用が可能となった。
これらのべネフィットが期待される反面,ナノサイズ粒子は吸入されやすく,肺に沈着して慢性閉塞性呼吸器疾患(COPD)による呼吸困難や,肺組織の線維症を起こすほか,上皮細胞を通過して,血流に入って移動し,動脈プラークを形成し,心臓血管系疾患による死亡率の増加が見出され(ハーバート大学Prof. Dockeryによる1993 年の有名な研究),その後,ディーゼル排出超微小粒子類の発ガン性も実証されている。
これらの研究結果から,ナノ粒子類の毒性として第一に憂慮されるのは,発ガン性を含む呼吸器への毒性影響である。この点については,後述の通りアスベストとの類似性を含む研究結果が続々と発表されている。また,アスペクト比(タテヨコの比)は腫しゅ瘍よう発生能力の指標となる可能性が高い。細長いナノマテリアルのカーボンナノチューブは,マクロファージの食作用では全部を包囲できず,複数のマクロファージが合体して,巨大な異物細胞を形成し,肉芽腫や中皮腫に発展する。さらに,ある種のナノ粒子が細胞を貫通してダメージを与えることが,ナノ化粧品への批判の根拠となっている。
一方,ナノマテリアルは廃棄後ナノ粒子として長期間残留し,生態系を破壊する懸念がある。特に抗菌仕様の製品へのナノシルバーの利用は,有用微生物(下水処理場で生物分解による浄化に利用)への有害影響の可能性が心配されている。ナノ殺菌剤が,家庭から放出されて,生態系の生物中に侵入し,食物連鎖の底辺に入った場合には,最終的には連鎖の上位の人間にも何らかの影響が及ぶであろう。この種の過度の利便性の追求は,我々のクビを絞めることになるかも知れない。
3 日米のナノリスク研究―現状と問題点
3.1 研究体制
日本におけるナノテクノロジーの環境・健康・安全(EHS)研究には,国としての大方針が明確に示されていない。米国大統領府の「国家ナノテクノロジー戦略:加工ナノマテリアル類の環境・健康・安全(EHS)研究ニーズ」(NNI ― EHS, 2006)や英国政府の「加工ナノ粒子類により形成されるリスクの特性解明―英国政府第1 報」(2005)に匹敵するような基本的な「ナノリスク哲学」が不在のため,適切な研究体制が取られていない。
本来,この領域の研究は環境科学(医学生物学を中心とする)を主管する政府機関や研究所が担当するのが常識であるが,わが国においては,産業育成担当官庁が主導権をとるという極めて不自然かつ不適切な事態に陥っている。しかも,2010 年までの5 年間に20 億円という世界最大級の資金規模で行われているが,このような不自然な事例は諸外国では皆無である。
この研究が来年度で終了したあとには,産業主管官庁から研究体制を移行し,公正な立場の学術団体および各学会が主体となった医学生物学的研究を主務とする官庁(厚生労働省・文部科学省・環境省など)による新体制に刷新すべきである。また,一般からの科学研究費の助成申請においても,リスク評価研究は不当に排除されている事態も改善されるべきである。
EHS の安全性評価のような利害の対立する「微妙な」研究については,高い専門性と研究能力が求められるほか,大前提として,中立普遍の立場が不可欠である。中正であるべき科学研究が,研究機関の立場により大きく歪められた先例は多い。例えば,ディーゼル排気の発ガン性についての自動車メーカーと中立的研究機関との研究結果の分裂や,米国におけるナノマテリアルの代表的製品のカーボンナノチューブの腫瘍誘発の毒性評価についての,化学工業会毒性研究所や民間化学会社と政府系研究所との間のシロクロの対立などは有名な事例である。
研究投資額に関しては,米国における ナノテクノロジー全般への投資額数十億ドルのうち,EHS 研究への割り当てはわずか1%に過ぎない(ウイルソン国際センター,2006)との批判や,EHS 研究予算が諸官庁の介入でバラマキ状態になっており,専門研究能力の高いEPA や国立労働安全衛生研究所(NIOSH)に集中すべしとの主張が強い。
3.2 日本のナノテク企業とEHS 研究
わが国のナノテクの最前線を担う大学の研究所などはEHS 研究の重大性を認識しているが,ナノ企業においては,我々毒性科学専門家の研究協力や促進の提案に対してまったく反応がない。例えば,ナノテク化粧品の安全性についての研究データの開示をメーカーや化粧品工業会に要請しても,回答はなく無視されている。製造業者として,消費者に対する商品の安全性の説明責任が果たされていない。
日本のナノ産業は,EHS リスク研究を「風評被害」と敵視する姿勢を反省し,有害無益なアレルギー症状を脱却して,隠蔽ぺい体質を克服して,市民との対話を促進すべきである。また,積極的にEHS リスク専門家と協力して,リスクの最小化に努力し,ナノ技術のべネフィットの最大化を目指すべきである。EHS 問題の解決なくしては,ナノテクノロジーの将来は危ういと知るべきである。我々リスクアセッサーは喜んで協力する用意がある。
4 米国のナノリスク規制発動の背景
ナノテクノロジーに対する規制は,ナノ作業場管理とナノマテリアル(物質と加工製品)に大別される。作業場管理については,従来の粒子状物質による職業性疾患予防の教訓に基づいて,常識的な措置が取られてきた。しかし,ナノマテリアルへの物質としての規制は,世界の大勢として,これまで行政機関がガイドラインを示すに留まり,あとは企業の自主的努力に任されてきた。
このような行政側の消極的姿勢が規制方向に転換するに至ったのは,ナノマテリアルのEHS 研究の急激な進展と,企業の自主管理に対する期待感の喪失との相乗効果であろう。
4.1 ナノマテリアルとアスベストとの類似性の浮上
2004 年,英国の王立協会とスイスRe(世界第2 位の再保険代理店)は,カーボンナノチューブ(CNT:炭素原子からなる薄い中空の円筒で,アスベストに似た形状を有する)は,肺においてアスベストのような挙動を示す可能性があると警告した(図2,図3,図4)。
その後,2006 年,米国航空宇宙局(NASA)のDr. Lam らにより,多層カーボンナノチューブ(MWCNT)の気管内注入によるマウスの肺の線維症・間質性炎症・持続性上皮肉芽腫(肉芽組織の炎症性病変)などの用量・時間依存性の誘発により,肺の損傷形成と毒性が実証された。しかし,各国の行政当局は「ナノリスクの特性解明は不十分」と慎重な態度に終始し(あるいは,都合の良いエクスキューズとして),事態の静観にとどまり,具体的な規制措置には踏みこまなかった。
2008 年に入り,それまでに世界中で実施されていたナノマテリアルの健康影響の研究成果が一挙に開花した。特に,わが国の国立医薬品食品衛生研究所毒性部による「多層カーボンナノチューブのマウスの腹腔こう内注射による中皮腫(アスベストにより発生する胸膜や腹膜のガン)の誘発」の成果は国際的に高い評価を受けた。これを契機として,各国は一斉に規制へ大きく舵かじを大きくきるに至った。
このように,カーボンナノチューブは新しいアスベストではないか,との研究結果が続々と発表され,新たな「グラウンドゼロ(爆心地)」を憂慮する科学者が増えている。また,消費者や環境保護団体による「予防原則」の適用やモラトリアムの主張が日増しに強まっている。
4.2 ナノ粒子による次世代への有害影響の新知見
ナノ粒子の有害物質は,古典的な呼吸器沈着から,血液循環への移行による心臓血管系疾患による死亡増加や,脳内神経系への移動まで広範囲の影響が報じられている。しかし,これらは被暴露者そのものの健康害であり,次世代への影響についての研究はまったく知られていなかった。
ところが,2 月1 日,東京理科大学薬学部教授ナノ粒子健康科学研究センター長の武田健博士らのグループにより,酸化チタンのナノ粒子が次世代の脳神経系や生殖系に有害影響を与えるという世界初の重大な研究結果が「Journalof Health Science」(日本薬学会発行の英文誌)で発表され,内外の関係分野の研究者らにより大きな衝撃を与えている。
実験では,妊娠マウスに酸化チタン(粒径40 nm,0.1 mg,食塩水混合)を4 回皮下投与した結果,チタンは産仔(生後6 週齢)の脳内に移行し,末梢欠陥に沈着し,特定部位に集中的なアポトーシス(細胞死滅)を誘発した。他の臓器への影響としては,精巣に対する影響が特に著しく,精子生成能力に20%以上の低下が認められた。
なお,これらの影響は,ディーゼル排出のナノ粒子状物質の場合にも,影響部位や程度に差はあるものの,基本的には同様な所見が見出され,粒子の化学的組成よりもその超微小サイズによるものと強く示唆されている。
酸化チタンは,光により汚れを分解する光触媒として,汚染防止仕様の衛生陶器や建築資材,美白化粧品や日焼け止めクリーム,ホワイトチョコレートにまで多用され,ブームを起こしているが,今回の成果による次世代を担う子供たちへの重大な影響は,将来のナノテクノロジーの利用を左右する重要な課題となることは確実である(図5)。
4.3 米国環境保護庁の自主的報告制度の失敗
US EPA のナノテクノロジーに対する具体的な対応は,2008 年1 月「スチュワードシッププログラム」(Nanoscale Materials StewardshipProgram:NMSP)による自主的報告制度により開始され,本年1 月,中間報告が発表された。その概要は次の通りである。
1) 商業生産で確認された1,000 種類以上のナノマテリアル類のうち,自主的報告を受領した件数は10%以下であった。しかし,情報の大部分は「企業秘密」として秘匿された。
2)使用あるいは開発中のナノマテリアルについての自主的報告はわずか1/7 に過ぎなかった。
3)毒性や環境中の最終結末のデータが示されたのは,ナノマテリアル総数の数%であった。テストに合意したのはわずか4 社のみで,EPA は「大多数の会社は自主的テストを行う意志はない」との結論に達した。
このような惨憺たる結果にもかかわらず,EPA は「ナノマテリアル類のスチュワードシッププログラムは成功であった」と強弁しているが,EPA としては企業の出方をあらかじめ察知し,失敗を予想した上で,規制前のショック軽減の布石として強行したフシがある。結局,「企業秘密」の鉄壁の存在を確認し,それなりの収穫があったのであろう。
EPA は,この自主的制度の途中経過を観察して,その実効性に見切りをつけ,今後の方向として「有害物質規制法(TSCA)*1 の下で,テストの実施と情報収集の最大限の利用方法を検討する」との声明を出し,規制への方向転換をにじませた。
5 米国のナノマテリアル規制の内容
以上の伏線により,EPA は昨年9 月,ナノマテリアルをTSCA による「新規(new)」の化学物質に指定し,多層CNT の開発を申請する企業に対して,それらの製造と使用について,TSCA 第5 条の制限賦課同意命令(ConsentOrder Imposing Restriction)*2 を発令した。これは米国政府がナノマテリアルに対して発動した最初の(first-ever)規制措置である。
同10 月,EPA はCNT メーカーに対して,CNT は従来のカーボン製品とは化学的に異なるため,TSCA による新規(new)物質と見なし,正式の届出の規制を課した。さらに翌11 月には,TSCA 第5 条(a)項により,ナノ粒子類に対して「重要新規使用規則」(Significant New Use Rule:SNUR)を適用し,ナノマテリアルに対する規制を強化した。
*1 有害物質規正法(Toxic Substances Control Act:TSCA)は米国の連邦法で,化学物質の人の健康や環境に対するリスクを防止するため,製造・取扱い・使用を規制する法律であり,新規物質の届出・既存物質の試験・有害性に関する報告などが含まれる。
*2 同意命令(consent order)とは,TSCA の新規物質の届出を行った際に製造・輸入を認めるが,EPA が届出者と協定を結び,一定の条件を課して,製造・輸入の範囲を決定する。その条件には製造量の制限,保護具の使用,表示などがあるが,これは届出者のみを拘束するので,最近は同一内容が後述のSNUR として公示される。
このSNUR(米国では「スナー」と発音)が適用された化学物質を,商業目的で製造・輸入・加工する者は,一定条件に従うことが求められ,そうでなければ少なくとも90 日前までにEPA に重要新規使用届出を提出しなければならない。
EPA は従来より,「CNT はグラファイトなどの同素体とは必ずしも同一ではない」との見解を持っていたが,これをさらに明確化するため,2008 年10 月31 日の米国政府官報公告(Federal Register Notice)において,「カーボンナノチューブ類は,他のカーボン形態とは異なる分子同一性を有しており,『既存』化学物質として商業利用が許可されている化学物質のTSCA リストに収載されているグラファイトやその他のカーボン同素体とはまったく異なる化学物質と見なす」との公式見解を表明した。この結果,カーボンナノチューブ・メーカーは,自己の製品をTSCA インベントリーリストと照合して,収載されていない場合には,2009年4 月に施行される規制措置に対応しなければならない。
かくしてこの公告により,世界のトップを行く米国のナノテク産業は,ナノマテリアルの主要製品であるカーボンナノチューブについては,TSCA の「新規」物質として厳格な規制下に置かれるという未曾有の事態を迎えるに至った。
6 日本におけるナノマテリアルの規制
日本の厚生労働省は,前述の国立医薬品食品衛生研究所のカーボンナノチューブによる中皮腫誘発の研究成果に触発されて,2008 年2 月「ナノマテリアル製造・取扱い作業場における当面のばく露防止のための予防対応について」という通達を出した。この通達は,ナノマテリアルの製造・修理・点検などの従事者を対象とし,製造については密閉構造または局所排気装置の設置,その他の作業工程には密閉・無人化・自動化・局所排気装置を求めている。作業管理や保護具については簡単に述べている。対象物質は「固体状物質で,3 次元のうち少なくとも1 次元が100 nm 以下のナノ粒子および構造体(内部にナノスケールの構造を有する物体あるいはナノ粒子の凝集体を含む)と規定しただけで,その量・種類・組成・形状・純度などの詳細にはまったく触れていない。
この内容のほとんどは,陳腐な粉塵じん作業場管理の常識を援用したもので,化学物質としてのナノマテリアルに対応する明確な指針は打ち出されていない。そのため,かえって作業者らには困惑と不安を与えかねない。厚労省は,すでにNIOSH において実施が検討されているように,作業者らへの教育訓練を速やかに実施し,定期的な特殊健康診断(胸部X 線検査を含む)の対象とし,ナノ作業従事者の登録制度を制定し,将来発生する可能性のある「ナノ肺症」(筆者命名)に備えて分析・疫学調査を導入すべきである。このような微温的な対応の実効性は限定的であるといわざるを得ない。この提言に対して,所管官庁の適切な対応を望みたい。そのためには,厚労省が省内の検討会の委員のみでなく,一般市民や消費者団体などとの対話を積極的に推進することが必要である。わが国では,一般市民を対象としたシンポジウムは2005 年2 月にただ一回行われたに過ぎず,国民にナノリスク問題を理解してもらうために,今こそ努力しなければならないのに,その対話戦略さえ発表されていない。情報不足はいたずらに不安をあおるだけである。
ヘルスリスクに関しては,わが国には,世界保健機関(WHO)の勧告を無視し続け,アスベスト規制が海外諸国に比べて大幅に遅れて国民に多大の惨禍をもたらした悲しむべき過去がある。このような「行政の不作為」の過ちを,ナノリスクに関しては繰り返してはならない。
7 ナノリスク規制の今後の展望
今回の米国のナノリスクに対する規制は,自業自得ともいうべき企業による自主管理の崩壊に端を発した,やむをえない措置であろう。企業のほとんどが自主的報告制度に十分な協力を拒否し,自浄意識に乏しいため,政府による規制発動の介入を招いた「自損要因」が大きいといえよう。今回のEPA の官権による規制は,正当な手続きを踏襲し,段階的に進められたタイムリーで適切な英断であろう。
今後の規制強化の局面における当面の問題は,規制当局と企業秘密との「せめぎあい」であろう。ナノ企業は企業秘密を武器として,規制に対して訴訟を含めた徹底抗戦を試みるかも知れない。すると,人間の健康へのリスクと企業秘密との法律的帰結はどうなるのか,倫理観の歴史的転換点になる公算が大である。
ナノ企業は,今回の規制がナノテクノロジーを進展させるチャンスであるととらえ,EPAと協力して製品の安全性を保証することに努力すべきである。さらに近い将来には,自社で安全性テストを実施できる体制を確立すべきであろう。また,アスベストが長い潜伏期間だったゆえに被害が拡大したことを教訓として,ナノリスク問題の未解決状態での停滞が「壮大な毒性実験」と非難されぬよう,スピード感を持った対応が求められる。
また,健康や環境に対する世論は高まりこそすれ低下することは考えられず,リスク重視の流れに対して,政府としては,これに逆行する緩和政策は選択することはできない。ナノリスクが完全に払拭されない限り,規制への強い流れは止めるべくもないであろう。
一方,ナノ企業は強力な政治的経済的な影響力を持つため,ナノリスクを純粋な科学問題として対処するかどうかは予断を許さない。ともあれナノテクノロジーを,不安定な現状から,賢明なリスクマネージメントによりセーフ・エコ・グリーンのハイレベルまでに向上する基盤を築くには,ナノテク関係者,特に企業の社会的責任と倫理に期待するところが大きい。
いずれにしても,米国環境保護庁による今回のナノリスク規制対策は諸国の行政機関に強烈なショックを与えた。今後は,各国により多少の差はあるものの,世界的には自主的管理から規制強化への移行となる可能性が高いであろう。
謝辞
米国の国内事情については,長年の友人であるアメリカ航空宇宙局(NASA)ジョンソン宇宙センターの毒性学者で,チーフサイエンティストのDr. Lam からの貴重な情報と,Dr.Mason がNanotechnology Now 誌に寄稿された「US EPA ナノマテリアルに初の規制措置を発動」(主要参考資料2)に負うところが大であった。ここに,両氏に対して深甚なる謝意を表明します。
本報告について,筆者へのコメントを歓迎します。アドレスは下記の通りです。
医学博士 小林 剛
環境医学情報センター・代表
〒238-0035 横須賀市池上4 ― 12 ― 11
TEL/FAX:+81 ― 046 ― 852 ― 6074
E-mail:tak-kob.md@tbc.t-com.ne.jp
参考文献
1) Dockery et al.:An association between air pollutionand mortality in six U.S. cities,N. Eng, J. Med.(1993), 329(24):1753
2) 小林 剛訳:米国環境保護庁(US EPA)ナノマテリアルに初の規制措置を発動(Mason Elizabeth F:EPA Takes First-Ever Regulatory Actions Aimedat Potential Nanomaterial Risks, NanotechnologyNow(2008. 12. 18))(近刊収載予定)
3) 小林 剛訳:米国ウッドロー・ウイルソン国際学識者センター「ナノテクノロジー対応究戦略」(MaynardAndrew D:Nanotechnology:A Research Strategyfor Addressing Risk(2006. 7), Woodrow WilsonInternational Center for Scholars)(近刊収載予定)
4) 吉沢 剛,ほか訳:カーボンナノチューブが新しいアスベストかも知れないという証拠が続々と,『市民科学』(2008. 9),(19)(原著:NGO 地球の友・オーストラリア)
5) Kulinowski Kristen M:多層カーボンナノチューブと中皮腫(国際ナノテクノロジー協議会(ICON)背景解説記事)(2008. 5. 21)
6) Kulinowski Kristen M:環境中のナノシルバー(殺菌剤)についての最近の研究のサマリー(国際ナノテクノロジー協議会(ICON)背景解説記事)(2008.11. 18)
7) 小林 剛:ナノ物質のリスクアセスメント―健康影響研究の集大成―(2006), NTS
8) 小林 剛:ナノ毒性学―ナノ製品の安全性評価―(2007), NTS
9) 小林 剛: ナノ素材の毒性・健康・環境問題(2007), NTS(原著:ワイリー社)54(254) 環境管理 Vol. 45, No. 3(2009)
10) 小林 剛:ナノリスク問題の現状と展望,環境管理(2007), 43(6)
11) 小林 剛:ナノテクノロジーとヘルスリスク,未来材料(2007), 7(7)
12) 小林 剛:ナノリスク研究の問題点,ナノ学会会報(2008. 3), 6(2)
13) 小林 剛:米国におけるナノテク化粧品とわが国の現状,『市民科学』(2009. 1),(21)14) 小林 剛:殺菌剤ナノシルバーの環境影響(投稿中)(2008. 12)
15) Takagi et al.: p53+/-マウスにおける多層カーボンナノチューブの腹腔内投与による中皮腫の発生,Journal of Toxicological Sciences(2008), 33, 105 ~116
16) 武田 健ほか:ナノマテリアルの胎仔期暴露による脳神経系への影響,Journal of Health Science(2008. 2)
17) 厚生労働省通達:ナノマテリアル製造・取扱い作業現場における当面のばく露防止のための予防的対応について(2008. 2. 7)
18) 米国大統領府化学技術評議会:米国国家 ナノテクノロジー戦略(NNI)加工ナノスケール物質の環境・健康・安全(EHS)研究ニーズ(2006. 9)(近刊収載予定)
19) 米国環境保護庁:ナノテクノロジー白書(2007. 2)(近刊収載予定)
20) 米国環境保護庁:ナノマテリアル・スチュワードシップ・プログラム中間報告(2009. 1)
21) 米国国立労働安全衛生研究所:セーフ・ナノテクノロジーへのアプローチ:国立労働安全衛生研究所との情報交換(2006. 7)(近刊予定)
22) 米国国立労働安全衛生研究所:作業場におけるナノテクノロジー安全への前進(2007. 7)(近刊収載予定)
23) 米国国立労働安全衛生研究所:ナノテクノロジー研究の戦略プランおよびガイダンス:知識ギャップの充足(2008. 2)(近刊収載予定)
24) 英国王立協会・王立技術アカデミー:ナノサイエンスとナノテクノロジーの機会と不確実性に関する調査報告者(2004. 7)
25) 英国環境食料地域省:加工ナノ粒子により形成されるリスクの特性解明―英国政府第1 報(2005. 11)
備考:「近刊」とは,本年4 月発刊予定の「米国におけるナノ物質のリスク管理」(技術情報協会TEL:03(5436)7744(代))

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