2006年4月26日の第9回市民科学講座「日本型サイエンスショップを構想する〜欧州の事例から考える」において、上田は「日本型サイエンスショップの可能性」と題して20分ほどの発表を行った。それは、2006年日本物理学会年次大会のセッション「物理と社会」(3 月29 日、於・愛媛大学)において行われたシンポジウム「国策としての科学の現在と将来」で、自身が行った発表「市民からの信頼と支援を得る研究のあり方とは」の内容の一部を、サイエンスショップという話題にあわせて敷衍したものだった。その後、物理学会での発表を原稿化する機会があり、同じ表題で『物理学者の社会的責任サーキュラー 科学・社会・人間』97 号(2006年7月20日)に掲載された(29〜37ページ)。ここでは、『科学・社会・人間』の掲載原稿を一部手直しして掲載し、市民科学講座での発表の報告かえたい。
生活者と科学技術のかかわり
市民科学研究室は、科学技術にかかわる様々な社会問題の解決のために、市民の問題認識力を高め、必要ならばまだ誰も行っていないような調査や研究を市民自身が発案し実施していく、という活動を続けています。そうした活動に10年ほど携ってきた経験をふまえて、「市民(生活者)のための科学技術」とみなしえる活動はいかに成立するのかを、サイエンスショップのような活動がなぜ必要でいかに創り出すことができるのかという点を見据えながら、私見を述べてみます。とりわけ、科学技術の様々なリスクにからんで専門家の役割が問い直されている現状をふまえ、一般市民(生活者)から信頼と支援を得るには研究開発がどんな条件を満たしていなければならないかを考えてみます。
「生活者のための科学技術」というとき、ではいったいその両者はどんなかかわりを持っているのかを、大まかにでもつかむ必要があります。第一は「生活の必要としての科学技術」。意識するにしろしないにしろ、もうそれなくしては生活が成り立たない必須要素となっている技術です(エネルギー関連、食品加工、交通、医療など)。第二は「生活をよりよくする手段としての科学技術」。これがあれば、今より生活が楽で便利になる、今まで満たせなかった欲望を満たせる(あるいは技術そのものがそうした欲望を喚起する)技術です(ユビキタス社会、生殖医療、ナノテクノロジーなど)。もちろん、第一と第二は明確に線引きでないものであり、たとえば携帯電話などは両方の属性を持つでしょう。第三は「生活への脅威としての科学技術」。健康や環境に対する種々のリスク、過度の技術化・人工化がもたらす自然の喪失といった側面です。これには、有害化学物質や放射性物質による汚染、遺伝子組み換え食品など多種多様なリスク(有害性の確定しないグレイゾーンのものも含めて)があります。そして第四が「生活の中の楽しみとしての科学技術」。ノーベル賞を受けた研究がなぜそれに値するのかを一般の人がある程度理解できれば、それに越したことはないでしょうし、そうできればその人の知的世界が広がることでしょう。あるいはパソコンや最新の家電機器を上手に使いこなせれば、それも自身の能力が広がる楽しさを感じることができるはずです。
こうした様々なかかわりをもつ生活者ですが、しかしこれまで科学技術を語る文脈では受動的な位置に留め置かれてきたと言うべきでしょう。すなわち、理科教育の「教えを受ける者」であり、技術の「受容者」「消費者」「ユーザー」であり、科学メディアにおける情報の「読者」「視聴者」です。私がここで注目したいのは、生活者の能動的な位置づけです。現実には市民・生活者が能動的役割を担うケースが様々な局面で増えてきており、そのことはたとえば、まちづくりや地域の環境行政で進められている市民参加[1]、市民が主体となった地元の自然保護活動や環境調査[2]、あるいはNPO を組織して専門知を活用した自然エネルギーや有機農業の活動[3]、さらには商品やサービスやメディアに対する生活者からの評価[4]、などに現れてきています。