市民科学者の支えをめざして

投稿者: | 2019年1月8日

市民科学者の支えをめざして

倉本 宣(明治大学農学部)

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学生時代にみた職業科学者たち

「お前たちは、植物学教室への進学をよく親が許してくれたな!自分の親は天皇陛下しか研究しない学問では食えないといって、進学を許してくれなかったぞ」というお話を3年生の時に、のちに環境問題の著書を書かれるお父様と話す機会がありました。私は、学生時代に、毎月、子ども対象の自然観察会を運営していました。フィールドは和泉多摩川と高尾山東尾根(甲州街道の東側)でした。当時の有力な自然保護家のお子さんが参加していました。
一度だけ、植物学教室の同窓会名簿がつくられたことがありました。卒業生の進路は明治時代からほとんどが大学の教員で、ごくわずかに高校の教員、1名だけ環境庁の職員がみられました。私たちの1年上の先輩が2名、初めて企業に就職していました。私は初めての地方公務員でした。いま考えてみると、植物学教室は浮世離れしたところだったのです。

植物学者は当初は植物を分類学的に位置づけて、新種を命名することが主な研究だったと思います。矢田部良吉や牧野富太郎はその時代の植物学者です。植物学者が認めた名前の中にはママコノシリヌグイのように名前を付けた人の品性を疑わせるようなものがあります。また、学名の命名者名に自分の名前をとどめることやきれいな標本をつくることに意欲を燃やし、名誉を大事にする分類学者もみてきました。

一方、植物学教室は理学部に所属していて、法則をみつけることが主要な課題でした。私が進学した生態学研究室は、1953年の門司・佐伯の物質生産の論文で、どのような形の植物の生産力が高いかを予測できるようになり、その後、群落光合成、窒素と生産の関係と研究を発展させていきました。しかし、現実の世界に役立つ生物学の研究をしたいと思って進学した私が、佐伯先生と話したところ、「現実の世界とは基本的にかかわらず、専門性にかかわることがあればやむをえずかかわる」ということでした。当時の生態学の分野は、国際生物事業計画(IBP)が終わり、環境科学総合研究を始めたところで、生態学研究室でも霞ヶ浦の総合研究を担当していました。それでも現実の世界との関係は希薄だったように思います。

これが、私が理学部の植物学教室で見てきた職業科学者たちの世界です。ここでは、私の人生のなかでの位置づけの変化を表現するため、市民科学者と職業科学者という表現を採用しています。私は、理論が得意でなかったという理由もあって、高島平団地の南に位置する赤塚公園におけるニリンソウの保全活動を中心になって運営してとてもおもしろかったことから、大学を離れて、造園職として都庁に入都し、13年間、主に公園の現場で働いてきました。おもしろいと思ったのは、生態学のかんたんな理論が市民の活動に役立つことと、東京都や板橋区の公園関係者との交渉の武器になったことでした。

市民科学者として

私は高校1年の時に藤田省三先生の講座を国立市公民館で履修し、「市民とはなすべきことをなす人々だ」ということを学びました。当時の国立市公民館は木造で、歩くとギシギシ鳴る古い建物でした。放課後に公民館に寄ることが楽しみでした。

就職して最初の職場は伊豆大島の大島公園事務所でした。私は最末端の職場で、都民と直にかかわりたかったので、望ましい職場でした。大島公園は伊豆大島の東岸の、動物園とツバキ園とキャンプ場と海岸遊歩道からなる都立公園です。給料は西海岸の元町にある支庁に取りに行きます。給料の袋詰めの仕事ではお札の数え方が下手で笑われました。大学院生時代は貧乏だったので銀行員のようなやり方でお札を数えるような機会がなかったのです。当時の大島には開発側の勢力ばかりが目立ち、保全側の勢力が顕在化していなかったので、2人の先生(小学校と中学校の先生)といっしょに大島自然愛好会を作りました。1987年の三原山噴火の後、10年間の計画で、大島の自然の変化を調べるプログラムを作りました。この調査は大島の島民にこそできることでした。大島自然愛好会は為朝さん(本土出身で、大島の女性と結婚して大島に住み着いた男性)の割合が多いなど、構成がゆがんでいるという批判もありましたが、大島の古老と本土から赴任してきた人たちを結び、意義ある活動を続けているといえるでしょう。

4年後に、多摩市の桜ヶ丘公園管理所に赴任し、翌年、桜ヶ丘公園雑木林ボランティアを仕事として立ち上げました。ここでは、取り返しのつく範囲で「やって、みて、考える」という初心者の順応的管理のやり方や、ボタンティアは対等で自分で考えて行動するという組織原則などを、ボランティアと一緒に作っていきました。この活動はもう少しで30周年を迎えます。最近は里山について体験的に理解している市民が高齢になったので、新しく参加する市民が減少しています。かつてのように新しいパラダイムをみつけなくてはいけないと思って、できる範囲で活動に参加しています。

これらにかかわった市民は、市民科学者の側面を持っています。大島自然愛好会は調査を市民なりに計画的に行うという点において、雑木林ボランティアは調査に基づいて植生管理計画を立て、それを順応的に管理していくという点においてです。

ビッグデータを集める市民科学との出会いと別離

21世紀になると西欧では市民が科学的な調査に参加してビッグデータを集める市民科学が一世を風靡します。日本でも関西のツバメの巣の一斉調査やベランダに来た鳥の調査やモニタリングサイト1000が行われるようになりました。ただし、これは職業科学者にとってのメリットは大きいものの、市民科学者にとっては職業科学者の規範に自分たちの活動をあてはめられているような面があることもあると感じています。市民科学を扱った博士論文の審査を担当したときに、日本の事例にはビッグデータ型の事例が少なく、市民科学が根付いていないのではないかという質問がありました。しかし、ビッグデータ型ばかりが市民科学ではなく、市民が科学にかかわることにはさまざまな姿があります。

私も1988年に国立市動物調査会の調査の一環として、国立市内のツバメの巣の調査を担当し、一橋大学や国立市公民館の職員の方にツバメの巣を探してもらいました。とても楽しんでもらえたので、データの収集のために市民といっしょに調査することは、市民科学者にとっても職業科学者にとってもプラスの面があることに気づきました。

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