【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第2回
美味しさと健康 (2) 食べられる「食品」の品質
瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&「bending science」研究会世話人)
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写真出典「Flickr user: <DK>」
「肉」へのこだわり
現代のグローバルな「食料クライシス」を伝えるテレビ番組で、未来の「持続可能な世界のために、変革への“一歩”」となる一つの可能性として「人工肉」が紹介された。大豆やココナッツオイルなどが原料であり、「スタンフォード大学の医学者らが肉を分子レベルで解析し、再現された」という、その「肉汁」が映された後、番組の取材を受けた製造会社の人物はこう述べた。
私たちの理想は、本物の肉と真っ向から勝負できるような、本当にひき肉のような製品を作ることです。私たちは環境に配慮して世界の食料システムに関わる問題を解決したいのです(インポッシブルフーズ上級副社長、ニック・ハラ)[1]。
美味しい「人工肉」の発想は、突然現れたようなものではない。「美味しさ」が示す「中身」がともなっていない「食品」が技術的にありうることは、実際に食べている「食品」の受容においては広く理解されていることである。そして、「安価に大量生産でき、食の問題を解決し、原料は安全でヘルシーである」ならば、「食品」として何の問題もないはずである。しかしながら、そのような「食品」の可能性は、それが何の理由に基づいて「有益」であるのか、「倫理的」であるのか、様々な社会的理由に基づいて肯定的にも否定的にも価値づけられる。
この番組では、先進国の「肉」への飽くなき欲望によって、その畜産にかかる資源やコストのために、グローバルな食料システムの非効率性、不公正な偏りが生まれてきたことが伝えられている。その上で、先進国の食生活のために「健康にも配慮した地球に理想の食事(材料)」が科学者によって推奨されていると示され、「肉は食べてもいいですが、量ではなく質を重視してください(牛や豚は週に98グラム)」。その直後に「人工肉」が提示されれば、この食品に飛びつく人々は少なくないであろう。
現代の日本では、「カレー味のX」と「X味のカレー」のどちらを選ぶかというジレンマのジョークがある。Xは「口には入れがたい物」である。「本物」と見分けがつかなくなるくらいの「風味」の技術がありうるという前提を共有しているからこそ想像できるジレンマである。しかし、この想像をしてもジレンマにならない環境になりつつあるのかもしれない。「肉」への飽くなき欲望が断ち切れない人々にとっては、もうすでに選択するまでもなく、「カレー味のX」の可能性へと舵は切られているからである。
「牛肉エキス」の受容
池田菊苗が語っていたように、「味」の化学工業なるものは、染料や薬品などに比べると遅れて誕生した産業であったが、彼が留学した先のドイツでは、19世紀から「栄養源」となる食品の化学工業が始まっていた。つまり、「健康」に有益な「栄養源」を安価に大量生産できる有機化学による「食品」のアプローチが「味の素」よりも先にあったわけである。
19世紀のドイツの有機化学を代表する化学者、ユストゥス・フォン・リービッヒは、ヨーロッパの度重なる飢饉の時代に「化学肥料」をもたらし、晩年には「牛肉エキス」や「育児用粉ミルク」などの「栄養源」食品の事業化に関わったことでも知られている。1865年にロンドンで設立されたリービッヒの「牛肉エキス」会社は、グローバルな加工食品企業の先駆けのようなもので、ウルグアイの工場で牛肉の煮汁を搾り、長期間の保存ができるように濃縮し、瓶詰めにしてヨーロッパで販売した。ドイツ軍では「牛肉エキス」が糧食として利用され、リービッヒは大きな富を得たといわれている。しかし、リービッヒの「牛肉エキス」が栄養になるということについては、当時の化学者や医者からすぐに反論が上がり、含まれていた「カリウム塩」の人体に対する影響も疑われていた。
化学者や医者から「栄養源」になることが疑問視されていたにもかかわらず、19世紀後半のヨーロッパで「牛肉エキス」が受容された理由として、植民地に対する優位性の根拠として西洋の「肉」の食文化が考えられていたことや、実際には入手が困難だった状況において「肉」へのこだわりが表面化していたということが歴史学者から挙げられている。特に、兵士の糧食には、軍隊としての強さのためにも、また戦地という状況においても、「牛肉エキス」が強く求められる特殊な歴史的条件があったのである。
また、「牛肉エキス」が受容された過程において、消費者が意識しないうちに「栄養的に良い」ことと「風味が良くなる」ことが混同されるようになった。実際には「風味が良くなる」から利用されているに過ぎなくても、なんとなく「栄養になる」風の食事が文化的に成立していることによって、「牛肉エキス」という加工食品の事業は成功していたのである。「牛肉エキス」が「食」の問題の解決に取り組もうとした食品だったのは確かであるが、その受容の過程で、「栄養源」の有益性から「加工食品」の満足度へと、歴史的な経緯によっていつの間にかすり替わっているのである。
様々な立場から言及されていることであるが、「加工食品」が普及していく歴史を考える上で欠かせないリービッヒの「牛肉エキス」のストーリーは、池田菊苗の「味の素」と重なるところがある。池田菊苗が留学先のドイツで「牛肉エキス」を目の当たりにしたということや、ドイツの有機化学の事業を模範にしていたことが指摘されているが[2]、「食品」の事業が発展していった過程の歴史は、その計画の段階だけでなく、その後の展開も重要であろう。ともに、安価に大量生産できる「人工的な化学製品」の可能性を「食」の危機的な問題を解決する事業に結びつけようとしたが、科学的な研究に基づく「健康」との関わりは曖昧であるにもかかわらず、「食品」として消費者が受容する理由によって普及したという経緯も重なっているのである。「食品」を受容する過程は、その風味の生理的な(「基本的」「根源的」な)味覚や嗅覚だけでなく、「食」の社会的問題の解決方法、食文化の歴史的な背景、個人的なポリシーなどに基づく嗜好性も関わっている。
「栄養源」からのアプローチとは異なり、「風味」から「食」の問題にアプローチしたグルタミン酸ナトリウムの製品は、食べにくいものを「食べられるようにする」ということに「食」の技術としての新しい可能性があった。そして、日本において「粗食を食べられるようにする安価な調味料」として考えられた有益性は、地域、時代、社会的な状況によって、様々な理由に変化し、食べられる食品の技術的な可能性として「受容」された。結果的に、「風味」の技術は、大量に生産される「食品」を食べやすくし、食用に耐えられるだけの安価な食料供給の計画を可能にする技術システムに欠かせないものとして解釈されるようになっていくのである。
糧食の「受容」とアメリカの大量生産システム
第二次世界大戦中の1944年に、アメリカ陸軍において、糧食の「受容」に関する研究部署が設立された。糧食の研究において、ロジスティクスによる供給量だけでは解決できない食品としての「質」の問題が議論されるようになっていたのである。この研究では、「味の素」として知られるグルタミン酸ナトリウムを缶詰の調味料として使用することが検討されていた。ある将校は「風味に欠ける糧食はどの軍隊生活における要因よりも急速に士気を損ねる」としてその意義を主張した。この研究の会議に参加していたアメリカの食品工学者として名高いカール・フェラーズは、戦時中に太平洋に駐留したときの経験から、日本陸軍の缶詰の肉や魚は「大豆加水分解液[3]」につけられており、これをアメリカ軍の兵士が好んで食べていたことを知っていた。
戦前からアメリカへの「味の素」の販売を担当し、戦後の1948年に味の素社の社長に就任した道面豊信は、「戦争中日本で製造不能でありました間に、アメリカではその真価が認められ、軍のラッション(糧食)等にもどしどし使用せられるようになりましたので、非常な勢で『味の素』に関する認識を深められるに至り」と社史で書いている。日本の味の素社の側からすると、アメリカで「食品」として「味の素」を展開していく過程では、ものとして「確かに良い品だ」とは言われても、その「真価」が認められるには時間がかかったという。日本の企業にとって、アメリカの「缶詰」から見たのは、当時のどこの国よりも進んでいた大量生産のシステムにおいて利用できるかどうかの「真価」に関わる「成分表示」の問題であった。
『日本の味の素』よりアメリカへの道が開け初めてからも、「確に良い品だ」と言う事はすぐ了解せられましたが、アメリカには缶詰食料を取り締る実に厳格なる『Food and Drug Law』があり、調味料として添加される物品は、それが如何に少量たりとも、含有調味料を製品の缶詰に明記せざるを得ないのでありまして、それを明記するとすれば『味の素』の広告をする事になりますので、缶詰製造業者がこれを好む訳もありません。(中略)フッドローの関係上『味の素』の使用を缶面に明示する方法につき、窮余の策で、『味の素』の代名詞として新たに使用しました『Vegetable Protein Derivative』と言う言葉がヒットしまして、以来その表現方法によって問題は解決されましたので、その後あらゆるアメリカ製缶詰に使用せられ、重宝がられて、『味の素』の需要を増してきたことも面白い事で…[4]
「缶詰の味」の出会いについて、日本近代史の研究者であるジョルダン・サンドは、「太平洋における日米の軍事衝突が味覚技術の移転に貢献した」としながら、アメリカの糧食研究は池田菊苗が提唱した独自の「第五の味覚」を認めておらず、当時のアメリカの消費者は日本のように家庭で食品添加物を加えるよりも加工食品製造の「味」に任せることが多かったとしている[5]。アメリカの缶詰製造業者に求められていた「成分表示」において、「味の素」とは異なる意味で「重宝がられる素」を示す科学的表現にすることで、アメリカの缶詰生産システムに受容された。当時、日米ともに糧食に使用される「缶詰」の問題を共有しており、「味の素」と大量生産システムの合作としての「食べられるようにする」食料供給システムが可能になったのである。
[1] NHKスペシャル2030未来への分岐点2「飽食の悪夢 水・食料クライシス」2021年2月7日放送
[2] 「うま味」を発見した池田菊苗の逸話と「加工食品」の有益性とのつながりは、一般向けの食文化の情報として、様々な「食」のポリシーの文脈に基づく解釈に変えられながら語られ続けている。生理学的な刺激となる「味覚の素」の物質はたとえ「食べられるようにする」くらいの嗜好性に寄与するとしても、それは「嗜好性の素」の全てではないが、科学的に曖昧な関係も特定の「食」のポリシーの説得力によって語られる。現代の「スマートクッキングはうま味のなせる技 味の素社長」https://style.nikkei.com/article/DGXMZO43784030W9A410C1000000/
[3] おそらく「味液」という名前で販売されていた「アミノ酸液」だと思われる。鈴木商店(味の素社)では「味の素(グルタミン酸ナトリウム)」を製造するために原料を加水分解する工程で残液となる「アミノ酸液」を「味液」として販売した。池田菊苗は創業の頃からこの副生物の残液を代替醤油として製品化しようとしていた。戦前から戦後にかけて、脱脂大豆を「味の素」の原料にしていた時期があり、軍需品の原料として鈴木商店にのみ割り当てられていたが、原料の入荷が途絶えた1943年から戦後の1946年まで「味の素」の生産は停止していた。戦後の復旧期には、原料が乏しい上に、むしろ醤油や加工食品へのニーズが高かった「味液」の方が「味の素」よりも主になっていたという。
[4] 『味の素沿革史』味の素株式会社、1951年、「緒言」11〜12ページ。
[5] ジョルダン・サンド「『味の素』味覚の帝国とグローバリゼーション」『帝国日本の生活空間』
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