連載「日中学術交流の現場から」第6回 民衆立研究所を構想した科学者、神田左京とその協力者たち ―戦前期日本における市民科学者の系譜―

投稿者: | 2021年2月27日

【連載】日中学術交流の現場から 第6回

民衆立研究所を構想した科学者、神田左京とその協力者たち

―戦前期日本における市民科学者の系譜―

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者)

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はじめに

戦前期の日本には、多くの科学研究所が、設立された。国立の研究所をはじめ官学アカデミズムのものが、戦前期の日本では多かったが、異彩を放つ科学研究所が構想されていたことを知るものは、それほど多くない。それは民衆立研究所という研究所で、神田左京という科学者によって構想された。神田左京の著書には『不知火、人魂・狐火』(中央公論社2005)があり、その解説を気象学者の根本順吉氏が書いている。[1]

そこでは、民衆立研究所のことにもふれられているが、協力者が誰であったかは、具体的には書かれていない。

この民衆立研究所の構想に反応し、協力していたのは、実は、のちに満鉄中央試験所の所長となる九州帝国大学工学部応用化学教授だった丸沢常哉氏であった。ほかにも九州帝国大学医学部教授の宮入慶之助氏、九州帝国大学工学部地質学科教授の河村幹雄氏らが協力者として存在していた。他には、佐藤定吉という東北帝国大学工学部応用化学科の教授も協力者であった。この時期に官学アカデミズムとは異質の民衆立研究所が、構想されたのは、なぜか。設立には至らなかったのだが、その協力者たちは具体的には、どのような人たちだったのかを具体的に見ていきたい。

そのことによって戦前期日本の市民科学者の系譜にせまろうとするものである。

 

1 神田左京という科学者

民衆立研究所とは、神田左京氏が、構想していた研究所のことである。

当時、官立の研究所としては、理化学研究所が創設されていた。理化学研究所は、1913年、高峰譲吉らが「国民科学研究所」の構想を唱え、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一らが議論を行っていた。1915年の第36回帝国議会において衆議院、貴族院で理化学研究所の設立が決議された。1917年(大正6年) 渋沢栄一を設立者総代として皇室・政府からの補助金、民間からの寄付金を基に「財団法人理化学研究所」を東京都文京区駒込(現・文京グリーンコート)に設立。伏見宮貞愛親王が総裁、菊池大麓が所長に就任していた。[2]

これに対し、同時期、私立の民間の研究所として民衆立研究所が構想された。

「写真(拡大)の右端中段が神田左京。左下の白髭がフロイト、その右隣に立つ長身の男がユング。なお、神田の後ろにいる神田を見下ろしているかのような人物は優生学で悪名高いゴダードである。」【中部大学応用生物学部環境生物科学科 発光生物学研究室HPより、許可を得て転載】

この民衆立研究所を構想した神田左京氏は、1874年に長崎県に生まれている。1901年に関西学院普通部および高等部卒業。1901年から1907年、リベラルな教育機関として知られる成城学校教師をやったあと1907年から12年までアメリカ・クラーク大学に在学し、当初は心理学を学んでいたが、その後、生物学の研究に向かうようになる。1912年から15年までマサチューセッツ州ウッズホール臨海実験所、ニューヨーク市ロックフェラー研究所、ミネソタ大学などで生物学の研究をつづけ、博士号を取得した。1916年京都帝国大学医学部セリ学教室にて生理学研究の後、1926年まで九州帝国大学医学部臨海実験所嘱託、1928年に理化学研究所嘱託となり、1939年に亡くなっている。

研究業績としては、発光生物の研究、とりわけホタルの研究で著名である。この神田左京は、権威を嫌い生涯、正式な所属を持たなかったという。

神田左京『ホタル』(サイエンティスト社1981)の表紙

日本は、後発資本主義国として近代化(資本主義化)を上から行おうとした。このため高等教育もまた国家に有用な官僚の養成や立身出世主義が主流となった。しかし、神田は、そうした風潮を嫌い、そのオールタナティブな流れを民衆立研究所の設立によってつくりだそうと考えていたようだ。

2 民衆立研究所の具体的構想

「民衆立研究所の設立に就いて」『福岡日日新聞』(1920年10月26日―10月30日)における神田左京の言うところを聞いてみよう。

 

「研究に没頭しない人は、入る資格がない。また設備だ、機械だ、助手だと騒ぎまわって道具立てに日を暮すような人も無論同然だ。」[3]

 

「余等は、いわゆる秀才は、必ずしも尊敬しない。二三年以前までは帝国大学の銀時計をもらえば、その人一代の幸運栄達はすでに決定していた。馬鹿な話だ。大学二三年の優等生が一生涯優等生だとは決まらない。むしろその逆が真理である場合がずいぶんある。」[4]

 

「余等は、官僚及び学閥気分を極力排斥したい。正何位勲何等何々博士というような肩書は研究には何等の権威もない。」[5]

 

「また余等は、いわゆる履歴なるものに拘泥しない、その研究家は、帝大の出身であっても、また私学の出身であっても無論平等だ。どこまでも民衆的でありたい。ただしその研究能力を発揮した上で、自らの優劣があらわれてくるのはやむを得ない。更に研究家としては男でも女でも差支えない。要するに人間本位だ。」[6]

 

「研究は独立的精神を尊重したい。」[7]

 

「余等の理想を率直に言えば、民衆立研究所は、日本及び世界の学界の権威としたい。文部省から毎年幾人かの留学生を海外に送っているが、彼の留学生等は、海外に送らないでも民衆立研究所で引き受けて、世界的学者に育て上げることができるようになりたい。」 [8]

 

「もっとくだけて言えば、私共が自由研究というのはこうだ。私共の経験によれば、面白い研究は金儲けにならないものが多い。学問としては貴重な研究でも、実用には向かない。どうも面白いということと金儲けということは両立し難いようだ。それで研究は所謂『不生産』的のものでも、学問として価値のあるものは、大に尊重して研究を奨励したい。勿論生産的のもので面白い研究があれば結構だ。要するに生産的であっても不生産的であっても、研究問題は研究者の自由に任したい、ただ真面目に研究すれば良いと云うことにしたい。」[9]

 

「それから又序に言って置きたいのはその民衆立研究所はどんな種類のものにするかということだ。仮に一千万円の基金が出来たとしても、一千万円では何でも研究するという訳には行かない。それで先ず自然科学の研究所としたい。私共四人は各自然科学を専門としている。宮入慶之助氏は、衛生学丸沢常哉氏は物理化学、河村幹雄氏は地質学、私は一般生理学と言ったような塩梅だ。先ずこの範囲で始めたい。」[10]

 

「それで私共は先ず私共の計画の全体を承知して貰うために、私の初めの文とこの文とを印刷し、別に私共の署名した、依頼文とを添え、全国各地方の新聞社に送って是非この計画に賛同を得たいと思う。愈各地方の新聞が後援してこの計画を宣伝してくるれば、或は案外私共に共鳴して、私共に助力を与える人が出来ないとも限らない、そんな篤志家が各地に出来ることを切望する。例えば各地方の新聞社にそんな共鳴者が、一人ずつ出来れば、民衆立研究所の実現の半は成功したものと、考えて差閊えなかろう。

兎に角一応その宣伝が緒に就けば、その発案者として全国を行脚するだけの覚悟がある。それから又その宣伝のために、各地方の新聞紙の後援のもとに、民衆立研究所の講演会を、各地方に開いてもいいと思う。福岡はこの計画の出生地として、幸いに九州日報及び福岡日日新聞の賛同を得たから、その後援に依って、先ず九州を振出しとして大に宣伝に努力したい

以上は私共の方針の要点を二三公表したものだが、尚おそれ以上に名案、例えばこの民衆立研究所なるものを、最も有功にする方法について、考えのある人は腹蔵なく教示を仰ぎたい。私共は喜んで合議の上何分の応答を致す考えである、それから又私共の計画に質問ある人、或は相談のある人は、手紙を私共に下されば間違のない方法で喜んで応答したいと思う。宮入氏と私は九大医学部で、丸沢氏と河村氏とは九大工学部である」[11]

 

これらを総合的に考えるならば、官僚主義、学閥主義、肩書主義を排し、研究における独立精神を尊重し、世界に通じる研究者を育てる民衆的な研究所をまずは、福岡を拠点に創設するということを考えていたようである。そこで行われる研究は、巨大資本のための研究というよりも市民(民衆)のための研究に重点がおかれる。

賛同したのは、九州帝国大学医学部教授(専門は衛生学)で医学博士の宮入慶之助氏、九州帝国大学理学部教授(専門は地質学)で理学博士の河村幹雄氏、そして丸沢常哉氏であった。宮入慶之助氏は、長野市松代町西寺尾に生まれ、1890年に東京帝国大学医科大学を卒業し、1895年には第一高等学校学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。

帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。

1913年、鈴木稔とともに日本住血吸虫(地方病)の中間宿主である巻き貝を発見。この貝は宮入の功績を記念してミヤイリガイという。それまで淡水に住む巻き貝が寄生虫の中間宿主であるという報告は世界中でなされていなかった。この世界初の発見がきっかけとなり、日本国外でもビルハルツ住血吸虫・マンソン住血吸虫の感染経路および中間宿主の特定が進んだ。イギリスのブラックロック教授はこの業績を評価し、ノーベル賞候補に推薦するが、実現しなかった。1923年5月には帝国学士院会員となり、1925年退官、九州帝国大学名誉教授となり、1928年、正三位勲二等旭日重光章を受勲する。

一方、河村幹雄は、明治19年(1886年)、北海道に生まれる。私立海軍予備校を経て、明治44年(1911年)に東京帝国大学を卒業する。卒業後、九州帝国大学の講師となり、後、九州帝国大学教授に就任し、工学部長などを歴任する。地質学者である一方、「教育の他に何者もなし」の信念の元、教育者としても有名であった。昭和6年(1931年)に若くして亡くなった。没後、名誉教授の栄誉を受ける。

右翼とも交流のある保守的なところのある地質学者だったようだ。[12]

1883年、新潟県に生まれた丸沢常哉は、1907年に東京帝国大学工学科応用化学科を卒業し、銀時計を送られるようなエリート秀才であった。当時の世界の化学研究の中心であったドイツにも留学し、最先端の科学研究にもふれていた。

日本に帰国後は、創設されて間もない九州帝国大学応用化学科教授として赴任していた。

パルプの研究が、丸沢氏の主な研究業績であった。パルプをテーマに学術誌に学術論文を発表し、特許も取得していた。ここを拠点に研究や教育を行い、多くの教え子を育てていった。

後に満鉄中央試験所の所長となる佐藤正典氏もその一人であった。

その後、旅順工科大学教授などを経て満鉄中央試験所所長となる。

丸沢常哉氏は、先に見たように東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、銀時計を送られているエリートである。しかし、吉野作造の民本主義に共鳴したこともあって国家主義的な帝国大学の研究と教育に飽き足らず、こうした神田左京の民衆立研究所の設立理念に賛同したのだと思われる。[13]

宮入慶之助、河村幹雄、丸沢常哉の三氏は、連名で「民衆立研究所創設計画と私共の態度」という論考を発表している。

それは、彼らの神田左京氏の民衆立研究所創設計画への思いがよく表れたものとなっている。

たとえば、次のようなことを述べている。

 

「神田氏は先に引用した二つの文中で我国の大学教授の無為無能を忌憚なく指摘し、痛罵された。そのなかには、同氏が、我々の日常を仔細に観察し、私共をモデルとして攻撃の筆をとられたのではないかと思われる節がある。私共三名もやはり人間だ。褒められればうれしいが、攻撃されれば癪にさわる。私共は、この感情から解放さるるほど修養も積まぬし、また鈍感にもならぬ。ただしもっぱら一方では、私どもの理性は、私どもに反省を命じる。私共が深く内省するとき、神田氏の痛罵は、私どもの骨を刺すの感がある。神田氏の攻撃は、世俗のいわゆる為にするところあっての攻撃ではない。神田氏の私心からでたものでは無論ない。我が国から真の研究家を生み出そうとする赤誠の発露である。あの文章は、真の学者をつくりあげて我が国の文化を向上せしむとする愛国の至情から湧き出したものだ。」 [14]

 

「私共は神田氏にくらべれば、研究上の便宜を持つこと誠に雲泥の差である。私共はうんと真剣にならねば嘘だ。もっともっと研究に身を入れねば、だめだ。そして価値を世界の学者に問うだけの自信ある研究を仕上げねばならぬ。然る後始めて私共は、民衆に研究の必要を力説すべき権威を持ちうるのだ。」  [15]

 

ここには三人の帝大教授が、自ら反省をしつつ、民間学者の神田氏の問いを真剣に切実に受け止めようとしている情が、あふれ出している。この文章からは、丸沢氏を含む三人の帝大教授たちも日本の高等教育からは、真の学者が育たないという危惧の念を持っていた事が感じとれる。

こうして民衆立研究所は、官学アカデミズムの弱点を克服する研究所として構想され、設立にむけて寄付を集めることになる。

[1] 神田左京『不知火、人魂・狐火』(中央公論社2005)

[2] 理化学研究所百年史編集委員会 企画・編集『理化学研究所百年史 第1編』(理化学研究所, 2018年)

[3] 『福岡日日新聞』(1920年10月26日―10月30日)

[4] 同上。

[5] 同上。

[6] 同上。

[7] 『福岡日日新聞』(1920年10月26日―10月30日)

[8] 同上。

[9] 同上。

[10] 同上。

[11] 同上。

[12] 榎本隆一郎 編『河村幹雄博士の生涯とその思想』(原書房, 1980)

[13] 杉田望『満鉄中央試験所-大陸に夢をかけた男たち』(講談社,1990)

[14] 宮入慶之助、河村幹雄、丸沢常哉「民衆立研究所創設計画と私共の態度」『工業評論』(1921年1月)48頁。

[15] 同上,49頁。

 

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