連載「日中学術交流の現場から」第4回 北京から第五福竜丸元乗組員の市民科学者、大石又七さんへの手紙 第一便

投稿者: | 2020年9月3日

【連載】日中学術交流の現場から 第4回

北京から第五福竜丸元乗組員の市民科学者、大石又七さんへの手紙 第一便

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者)

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はじめに

長らくごぶさたしています。2006年の5月に第五福竜丸記念館でゴジラについて報告してから14年ちかくの年月が、過ぎましたが、お元気でしょうか。

東京で大石さんにお会いすることができたのは、占領史家の笹本征男さんが、大石さんの著書『ビキニ事件の真実』(みすず書房,2004)をもとにした「『ビキニ事件の真実』に学ぶ会」に参加するように促してくれたからでした。

その笹本さんも2010年に亡くなってしまい対話することはかなわなくなり無念というほかないのでありますが、大石さんと会わせてくれたことについて私は笹本さんに感謝しなければならないでしょう。また、この間、大石さんとメールでやりとりをさせていただくことができたのも幸運だったと思います。

 

 大石又七氏と筆者

 

1. 大石又七さんの危機意識

大石さんから2007年に北京大学のほうにいただいた年賀状には、「軍靴の音がヒタヒタと近づいてきていると思いませんか。政治が軍国主義一族の手に渡ってしまい心配です。太平洋戦争のあの悲惨な光景が頭をよぎります。今度は焼夷弾や爆弾など比較にならない核兵器ですから」と書いてありました。このころは第一次安倍政権のころでした。「戦後レジームからの脱却」をかかげるこの政権は、たしかに「軍国主義一族」といってよいでしょう。

岸信介の孫、安倍晋三は、その13年後も依然として権力をにぎって大手メディアを「アンダーコントロール」しています。福島の原発が、アンダーコントロールされているのではなく大手メディアが、「アンダーコントロール」されているだけのはなしです。

私が、第五福竜丸に関心を持つきっかけとなったのは、『ゴジラ』(1954)を見たことなのですが、まさかその時点では、第五福竜丸の元乗組員の大石さんとお会いできるとは、思っていませんでした。まあ私の場合は、ゴジラへの関心が先行していたわけです。

しかし、どうしても第五福竜丸のことは抜かせないことだと気がついたので、大石さんの著作である『死の灰を背負って』を読むことになったのでした。

中沢新一氏のゴジラ論「ゴジラの来迎−新しい科学史」は、ポストモダニズムの影響が、色濃く出た論考ですが、科学史といいながらゴジラ生成の歴史的現場である第五福竜丸の事件には全く触れていません。

これではゴジラ論を扱う科学史としては、いま一つだなと思ったのです。すくなくとも第五福竜丸を基軸に据えたゴジラ論でなければ、日本が、世界に発信する意味は薄れてしまうと考えるようになりました。

そして2007年に夏に北京に送っていただいたはがきには、「敗戦60年がすぎたというのに、日本はまだ戦争好きのブッシュさんのいいなりで加担させられ、その危険なながれを加速させています。戦争を知らない小泉さんや安倍さんが総理に祭り上げられ、やれ核ミサイルがとんでくる危ない、などと大声を出して国民を脅し、軍備増強、海外派兵だなどと国民の大多数の反対をよそに土俵の外で政治を行い自衛隊を人殺しのできる軍隊にしようとしています。そのため逆に日本におそろしい核兵器が近づいてきてしまいました。」という言葉ではじまっていました。私は、こうした言葉の中にも大石さんの危機意識がよくあらわれていると思いました。

 

2. 第五福竜丸・ゴジラと「満州国」・中国

大石さんが、北京まで送ってくれた本『矛盾―ビキニ事件、平和運動の原点』(武蔵野書房、2011)を読みました。この本には「振り返ってみると、1928年のパリ不戦条約で、第一次世界大戦の反省から「戦争放棄」という言葉が初めて生まれた。この言葉が、日本国憲法九条に盛り込まれたのだった。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、または武力の行使は国際紛争を解決する手段としてはこれを永久に放棄する」。戦争そのものが違法とする考え方である。だが、皮肉にも直後に世界恐慌が起き、それをきっかけに激しい国益の衝突が起こる。日本は不戦条約を免れるため戦争を事変という言葉に変え、1931年9月18日に満州事変を、1937年7月7日、北支(のちに支那)事変を起こし、中国に攻め込んでいく。」(125頁)とありました。なかなかに日本の戦争のことをよく勉強されていると思いました。

日本では満州事変が9月18日だったということを知っている人は、そう多くはありません。満州事変は、世界史的事件といってよいですが、中国人で9月18日がなんの日か知らない人は、まずいないといっていいです。しかし、加害国である日本では、学校教育で名前を暗記させるだけで満州事変が、どのような意味を持つものなのか、そのようなことはほとんど掘り下げられません。その次の年の上海事変も正確に説明できる日本人となるとさらに少なくなるでしょう。かくいう私も30歳をすぎてはじめて海外に出るまでは、9月18日が満州事変の日とは全く知りませんでした。中国東北部を旅していた時にはじめて私は、9月18日が満州事変の日だということを知ったのでした。日本における日常生活で満州事変を話題にするということが、ほぼ皆無だったためで、もちろん満州事変の研究書などは出ていないわけではありませんが、一般の人はあまりそういうものを読みません。だから満州事変のことは学校教育でしっかりと教えるべきだろうと思います。実は、私は中国で忘れ難い経験をしています。それは2001年の9月11日のことです。私は、その日、仙台から大連行きの飛行機に乗っていました。2001年9月18日に瀋陽で行われる満州事変70周年の国際会議に参加するためにその飛行機に乗ったのです。ちょうどその日、アメリカのニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、ビルが崩壊するという世界史的といっていい事件が起きていたのでした。そういう経験をしたために私の中では9・11と9・18が分かちがたくつながって記憶されることになったのです。

大石さんは、先ほどの記述に続け「当時、日本は軍事物資の多くをアメリカに頼っていた。しかし、アメリカには戦争当事国への軍事物資の輸出を禁止する中立法があり、アメリカからの輸入が途絶えるのを恐れた日本軍は、宣戦布告せず事変という言葉を使って侵略していったのだ。」(125-126頁)と書いています。これも鋭い指摘だと思います。

日本は当時の中華民国には、宣戦布告をせずに攻め込んでいった。だから当時の多くの日本人には侵略している意識が希薄であり、あいまいに始まりあいまいに終わった戦争としか意識されないものとなっていました。しかし、侵略を受けた中国側からすれば、これは、満州戦争ということになるでしょう。

また、当時、鈴木庸生という化学者がいました。1878年に石川県金沢に生まれ、1900年に東京帝国大学理科大学に入学、1903年には成績優秀で銀時計をさずかり、1904年には陸軍省から兵器審査の事務を嘱託されている。そして日露戦争の功により、勲六等瑞宝章授章・従軍記章を授与されていた化学者です。1911年に私の調べている満鉄中央試験所の応用科学科長に就任し1922年にそこを離れ、理化学研究所の鈴木庸生研究室の主任となった人でもあります。

彼は、満州事変については「満蒙の資源とわが化学工業」『日本護膜協会誌』(1932)で以下のようなことを述べています。

「近来の満洲の事業は、著しく満鉄沿線に押し込められるようになった。これは支那の軍閥が悪いのか日本が悪いのかわからない。というのは日本が満洲に進出するようになってからたしかに産業は好転し、満洲からの輸出超過が年に一億5千万円にのぼるようになった。ところが、この膨大な資材で満洲軍閥がどんどん大きくなったので、いわば日本が大きくしてやったようなものであるが、軍閥はその上、増長してそのはては、満鉄の事業を妨害し、日本人を満洲から追い出す魂胆で、別に鉄道を敷設したり、こうじては露骨に満鉄の一部を爆破したりした。日本にとってみれば飼い犬にかまれたようなものである。とうとう我慢できなくなって今度の満州事変が、爆発したのである。」 (284頁)

ここでは中国の軍閥が満鉄爆破をおこなったといっていますが、実際は関東軍の石原莞爾や河本大作によって満鉄の爆破が実行に移され、それを中国の軍閥が行っていたように偽装していたのでした。つまりは、満州事変は、関東軍の自作自演でした。この満州事変が、日本におけるジャーナリズムの転換点だったと朝日新聞記者の上丸洋一氏『原発とメディア新聞ジャーナリズム二度目の敗北』(朝日新聞社2012)で述べています。

1937年ごろから日本では「暴支膺懲」という帝国陸軍のスローガンが頻繁に使われるようになります。この「暴支膺懲」というのは、「暴虐な支那をこらしめる」という意味で、社会主義者の山川均ですらこのスローガンを支持していたことがあるくらい当時のニッポン人に浸透していたスローガンでした。

さらに上丸氏は、この本で重要な指摘をしています。最終章を「「満州国」と原子力-新聞ジャーナリズム二度目の敗北」という章にしています。

そこで上丸は、「「満州国」と原子力は似ている。」という興味深い指摘を行っています。

すなわち「昭和のはじめ満州の広大な大地と資源は、日本人の人口過剰と貧困を救う切り札と考えられた。すべてが灰に帰した戦後、原子力の強大な破壊力を「平和」的に利用すれば、限りない恩恵が、もたらされると期待した。」と指摘し、「資源への願望、欲望が人々を「満州国」や原子力へと駆り立てた。」(438頁) と述べているのです。

大石さんらを犠牲にしてきたのは、戦後日本人の資源への願望・欲望であったといっていいかもしれません。

多くの日本人は、9・11といわれれば、「ああ、あれか」と映像が浮かびます。しかし9・18に関しては多くの日本人は、ピンとこず、映像も浮かばないのです。自国の関東軍が引き起こした出来事であるのにもかかわらず、なぜ9・18が起こったのかを知らないのです。だから、私は、学校教育ではまず、しっかりと9.18のほうを教える必要があると考えます。

そしてこの満州事変の結果、建国されたのが、「満州国」です。

この「満州国」建国記念日が、1932年3月1日です。意外と知っている人は少ないのですが、つまり、第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験で被曝するちょうど22年前のことです。これ自体は偶然だろうと思いますが、第五福竜丸・ゴジラと「満州国」・中国との因縁は、ほかにもあります。

まず、第五福竜丸が、忘れられつつあった1968年3月10日の朝日新聞の投書欄に武藤宏一さんが、「沈めてよいか、第五福竜丸」という投書をしました。この投書が大きな反響を呼び、1976年に夢の島に第五福竜丸記念館が開館しました。

武藤宏一さんは、当時、26歳の会社員でした。40歳の若さでがんで亡くなることになる武藤さんは、実は「満州国」から引き揚げてきた人でした。武藤さんは朝日新聞への投書で以下のように書いていました。

「第五福竜丸。それは私たち日本人にとって忘れることのできない船。決して忘れられることのできない船。決して忘れてはいけないあかし。知らない人には、心から告げよう。忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。いまから14年前の3月1日。太平洋のビキニ環礁。そこで何が起きたかを。そして、沈痛な気持ちで告げよう。いま、そのあかしがどこにあるのかを」
もし、この投書がなければ、果たして第五福竜丸記念館が、存在していたかどうかわからないでしょう。大石さんは、このころはまだ人前で話すなど大嫌いで第五福竜丸保存運動を苦々しく見ていたそうですが、人生どこでどう転ぶかはわかりません。

第二に『ゴジラ』(1954)で快活で明るく戦後的な現代青年、尾形を演じた宝田明さんは、北朝鮮の新義州で生まれそこから移住し、「満州国」のハルピンで育ちました。

その後、ハルピンから苦労して引き揚げてきて20歳で『ゴジラ』(1954)で本格的なデビューを果たしていました。1934年生まれですので、大石さんと宝田さんは、奇しくも同級生ということになります。

 宝田明氏と筆者

 

2011年3月に大石さんの家に宝田明著『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』(扶桑社)のコピーを送らせていただきましたが、大石さんからは、「宝田さんって雲の上の人かと思っていましたが、苦労されていたんですね」という感想をいただきました。

実際の宝田さんは、「軍国主義の一族」が大嫌いな、非常にまじめな人です。そのことでNHKの番組で発言を止められたこともあるぐらいです。小林節という憲法学者の先生が立ち上げた「国民怒りの党」から政治家として立候補しようとしたことがあるくらいの人です。

私は、2011年3月9日の夜まで仙台におり、その翌日3月10日の夜に北京に戻ってきていたのですが、3月11日の大地震は、宝田さんからの電話で知ることになりました。もし仙台を出るのが少しでも遅れていれば、仙台に閉じ込められ、北京で宝田さんからの電話を受けることはできなかったでしょう。

その時の発言ですが、宝田さんは、「被爆国の日本だからこそ世界に発信できるメッセージがあるんだ。」といって私を励ましてくれました。

私は、大石さんと宝田さんの対談をなんとか実現できないかと思っています。

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