新連載「日中学術交流の現場から」第1回 ゴジラの来る前夜に ―ゴジラと市民科学―

投稿者: | 2020年2月13日

【新連載】日中学術交流の現場から 第1回

ゴジラの来る前夜に―ゴジラと市民科学―

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者)

PDFはこちらから

はじめに

私が、中国の北京を拠点に研究を行うようになってからかなりの時間がたつ。

その間、日本では、たとえば『前夜』という雑誌が高橋哲哉氏や徐京植氏らが主導して創刊されたりしていた。この雑誌を読みながら私は、この戦争前夜、ファシズム前夜という状況に「あれ」を登場させる必要があるのではないかと感じ続けていた。

「あれ」とは、日本の高度経済成長とともに我々の前にあらわれ、人類の都市文明を破壊しつづけている怪獣ゴジラのことである。

しかし、なぜ、ゴジラなのだろうか。この問いに一般的に答えることはなかなかに難しい。

ただ、なぜ「自分は、ゴジラに惹かれてしまうのか」という問いには、「ゴジラが日本の支配的な社会秩序に対する嫌悪であり続けているから。」とまずは、答えておきたい。


夜、品川に上陸するゴジラ

1. 現代中国で知られていないゴジラ

私が、ゴジラのことを考えるようになったのは、北京に拠点を移すよりずっと以前の1990年代半ば、『ゴジラ』(1954)をレンタルビデオ屋で借りて見たとき以降のことだった。

『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラセブン』(1967)『仮面ライダー』(1971)など日本の特撮作品で育ってきた私だが、『ゴジラ』(1954)は、私が想像していたのとはまるで違う映画であった。そこには、思いもよらない深い哲学が、存在しており、立ち止まって考えざるを得ないものがあるということを強く意識した。「ここには何か重要なものがある」という直観が私には、あった。

日本においては、ゴジラの知名度は圧倒的である。子供からお年寄りまでゴジラを知らないという人を探すのは難しいであろう。そして、その知名度は世界的なものである。ところが、中国大陸においてだけは、例外的にゴジラは知られていないのである。

たとえば、日本の鉄腕アトムは、現代中国でも高い知名度を誇っている。

改革開放以降に中国では、本格的なテレビ放送がはじまるが、そのとき最初に放送されたアニメが鉄腕アトムだったので、中国において特に高い知名度があるのである。

また、ウルトラマンをはじめとしたウルトラシリーズは、中国では1990年代からテレビ放送が始まり、『奥特曼』として高い知名度を獲得していく。ところが、ウルトラマンよりも古いゴジラは、中国において紹介がなされないままだったのである。

私が、そのことを知るのは、2005年に北京大学の日本語学科の学生たちを対象に日本文化紹介の一環として行ったゴジラに関する授業を行ったときであった。

多くの北京大学生は、ゴジラのことを全く知らなかったのである。

それが、北京の青年たちに私が、ゴジラに関する出前授業を行うという“北京ゴジラ行脚”につながっていくことになる。

その結果、わかってきたのは、ゴジラをはじめとした東宝の怪獣映画そのものが、一般の中国人には、ほとんど知られておらず、人気も低い状態にあるということだった。

(中国共産の幹部クラスの人物を父にもつ中国人からもたらされた情報によるならば、中国共産党の幹部とその家族限定で『空の怪獣ラドン』の上映会がなされていたことがあるという。だが、中国の一般の人たちには、まだまだその存在すら認識されていない。)

その後、ハリウッドのゴジラが、中国でも公開され、ゴジラの知名度は、上がったといえるが、ゴジラを日本ではなくアメリカのものだと考えている中国人も少なくない。

私が、北京で“北京ゴジラ行脚”を行うきっかけになった背景には、中国人がゴジラと同時に第五福竜丸のことをまるで知らないという状況があった。

2004年、私は、占領史家の笹本征男氏から第五福竜丸の元乗組員、大石又七氏を紹介されていた。私の“北京ゴジラ行脚”には、中国人にもっと大石又七氏のことを知ってもらいたいという思いがあったことは確かである。

 

2. 現代中国で忘却された第五福竜丸

ゴジラが、誕生するきっかけとなった日本のマグロ漁船、第五福竜丸は、アメリカのビキニ環礁における水爆実験により1954年3月1日に被曝する。これは世界的なニュースとなって各国で報道されることになった。

日本においては、杉並区の主婦を中心に3000万人もの水爆実験反対署名が、集まることになる。当時の外務大臣だった岡崎勝男は、第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被曝していたにもかかわらず、「私たちはアメリカの水爆実験に協力する。」と発言し、多くの日本人の反発を招いていた。東西冷戦の緊張の中でなされた異様ともいえる発言だが、このとき日本の反アメリカの世論は、最高潮に達しつつあった。

その反アメリカの世論を鎮めたのが、読売新聞や日本テレビが、行った「原子力の平和利用」キャンペーンであることは、よく知られていることだが、正力松太郎は、被曝した第五福竜丸をもデパートの伊勢丹に飾り、「原子力の平和利用」の一環として利用していた。

一方、そのころ中国では周恩来が、第五福竜丸に関して「アメリカ帝国主義が、アジアの人民を被曝させた。」と述べ、日本の反米の世論と連帯するように多くの中国人に働きかけていたのだった。その時点では、第五福竜丸は、多くの中国人に認識されていた。

ところが、その後、第五福竜丸は、中国社会から完全に忘却されてしまうことになる。

2013年5月25日、私が、主催する北京日本人学術交流会では、第89回北京日本人学術交流会を第12回「放射能と原子力を考える日中サイエンスカフェ」として新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』(1959)の上映会を行っていた。そのとき『現代思想』の元編集長、池上善彦氏に「50年代核はどのように描かれてきたか」という報告を行ってもらったり、中国社会科学院日本研究所の胡膨氏や『人民中国』の編集長である王衆一氏にコメントをもらったりした。そのとき、中国メディア大学で公共外交研究を行う趙新利氏からもコメントをもらったが、そのコメントとは「私は日本のことを研究していますが、実は、第五福竜丸のことを全く知りませんでした。」という率直な告白コメントであった。

つまり研究者レベルの中国人ですらほとんど、第五福竜丸を認識しておらず、中国社会から第五福竜丸の記憶が、ほぼ完全に忘却されていることがうかがえたのである。

その後、私は、中国国際放送でゴジラについて語ることになるが、その時、周恩来が、第五福竜丸の被曝を「アメリカ帝国主義が、アジアの人民を被曝させた。」という言葉で批判していたことを私が述べた部分は、放送時にはカットされていた。

 

3. 日米関係とともに日中関係のなかでゴジラを考えるということ

これまでゴジラは、圧倒的にアメリカとの関係のなかで論じられてきたといってよい。

これは、ゴジラ誕生のきっけとなる日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、アメリカの水爆実験によって被曝しているのだから当然といえば当然である。

もっとも、アメリカにおいてもゴジラ誕生のきっかけとなる第五福竜丸の被曝のことは、ごく一部のアメリカ人しか知らなかった。

アメリカで普及しているゴジラ映画においては、日本のマグロ漁船が被曝したと思われるシーンはカットされており、ゴジラがなぜ生まれたのかについては、不問にされB級娯楽映画として消費されている。

そのことによってかえってゴジラの不気味さが、増していることは、皮肉なことだといわなければならない。オリジナルの日本の『ゴジラ』(1954)が、アメリカでようやく公開されたのは、50年後の2004年においてである。ちなみに英語では、第五福竜丸のことは、lucky dragonと表記する。

一方、ゴジラが、現代中国で知られていないことは、前述したとおりだが、ゴジラは、中国との関係のなかにおいても考える必要のある怪獣である。

なぜかというと決定的に重要なのが、『ゴジラ』(1954)の監督、本多猪四郎氏が、三度にわたって合計8年もの間、中国大陸に日本兵士として動員されていたということがあげられるだろう。

このため本多猪四郎氏の監督デビューは、大きく遅れるのだが、この戦争経験が、『ゴジラ』(1954)を奥深いものにしている。

また『ゴジラ』(1954)に出演した俳優、宝田明氏は、「満州国」の国際都市ハルピンで育ちそこから大変な思いをして日本に引き揚げてきた人であった。

「『ゴジラ』(1954)は、怪獣映画であるとともに戦争映画である。」とは、これまでにも多くなされてきた指摘であるが、その場合の戦争とは、日米の戦争であるとともに日中の戦争であり複合的な性格を持つということは、見逃されてはならない。

おそらくは主に地政学的な理由から、ゴジラ映画には中国は、ほとんど出てこず、怪獣たちは、太平洋側から日本にあらわれるというゴジラ映画の基本文法が形成された。

しかし、日本における怪獣文学の担い手だった武田泰淳(「ゴジラが来る夜」の作者)や堀田善衛(「モスラ」の原作者)が中国に深くかかわった人たちだったことは、単なる偶然ではないだろう。(このところ日本におけるゴジラ研究は大きな前進をしめしている。ただ、中国語でゴジラは、哥斯拉と表記するのだが、そのことに触れている日本語文献は、私の見るところでは、ましこひでのり『ゴジラ論ノートー怪獣論の知識社会学』(三元社,2015)ぐらいである。)

我々は、絶えずゴジラの原点『ゴジラ』(1954)に立ち返ってそのようなことを考えてみなくてはならない。

 

4. ゴジラの来る夜とは

『ゴジラ』(1954)でゴジラが、最初に登場するのは、夜であった。東京の南方、小笠原諸島のなかの一つの島と思われる大戸島で民家が何者かによって押しつぶされる。それはどう考えても巨大生物としか思えないもので、まだ依然として正体がわからず、見ているものの不安はじわじわとかき立てられる。

ゴジラが、はじめて東京にあらわれた時もまた夜であった。船上でダンスに興じていた男女が、海中から姿を現したゴジラに気が付き船上は、パニック状態となる。

そして、東京周辺の海岸上で待ち受けていたのは、その年、1954年に警察予備隊から昇格した自衛隊であった。自衛隊は、高電圧の鉄条網でゴジラの東京侵入を阻止しようとするが、いともたやすくゴジラに破られてしまう。

そして砲弾によるゴジラの攻撃を行うが、水爆実験によって被曝しても死ななかったゴジラをそうした兵器で倒せるはずもなかった。

あの戦争から立ち直り、ようやく復興が行われ、人々は守るべきものをもちはじめていた。

サンフランシスコ講和条約によってアメリカから独立してから二年が経過していたが、その当時の人々は、自衛隊を「戦力なき軍隊」と揶揄する精神をもっていた。

敗戦のはじまりにおいてアジア太平洋戦争で敗北した日本は、それまでの非民主的であった政治思想や国家思想の反省を迫られた。だから社会思想やイデオロギーが問題になる

文系においては、戦時中の戦争協力があるなら発言をはばかられるという状況があった。

しかし、自然科学の分野においては、科学技術は戦争に必要ということで科学動員が語られ、研究者には様々な優遇措置が与えられ科学者もそれにこたえていたが、敗戦直後にそれへの反省は語られることはなかった。大部分の科学者は、被害者の立場から「科学戦の敗北」を語っていた。そして深刻な反省もなく科学立国による「科学日本の再建」が語られていくのであり科学者だけは責任を問われることもなく戦時から平時にかけて無傷で生き残ることができたのである。日本においてはアメリカによる原爆投下すら日本ファシズムに対するアメリカのデモクラシーの勝利として語られていた。

また、1946年には、マルクス主義者を中心とした民主主義科学者協会という民主化運動の組織が設立された。ここからは当時、科学的=民主的ととらえられていたことがうかがえる。科学者は進歩的で民主的であるが、政治家や官僚は、科学に無知で近視眼的であり、反動的だという図式が、存在していた。

しかし、戦後20年を経た1960年代中期、官民をあげた科学技術振興計画が進行し、科学技術の研究はその体制に組み込まれていたので、状況は大きく変化しようとしていた。

一方、戦後の冷戦の始まりとともに日本では占領軍の方針が、変化し、経済政策において「非軍事化」から「復興」へと転換した、そして1955年、56年には神武景気を迎える。

これは、朝鮮戦争による米軍発注による特需や国際情勢の変化による輸出の増加によるものであった。1950年に始まり3年間続いた朝鮮戦争は、日本の植民地支配の後遺症でもあるが、その戦争で戦後の日本資本主義は、復活のきっかけをつかむことになる。

また、このころ戦前に日本の権力の中枢にいた者たちが、急速に日本社会において復帰しつつあった。

そしてヒロシマ、ナガサキについで日本にとっての三度目の被曝経験となるマグロ漁船、第五福竜丸が、ビキニ環礁で被曝した1954年は、国会で原子力予算が計上され、「原子力の平和利用」の研究がうごきはじめていた。

そして、60年代においては理工系ブーム(このブームを作りだしたのは、政財界の支配層であった)といわれる流れの中で科学研究は、急速に資本のコントロールの下にはいりつつあった。

科学史家の広重徹は、1960年の時点においてにおいて「いま日本の科学はたいへんな勢いで独占資本主義体制の中に組み込まれつつある。大学においても、いろいろな形で産業界から流れ込んでくる資金や、科学技術会議の策定する重点研究(それは産業界の要求を反映しているとみてよい)に関連するものに集中的に科研費を出すというような政策によって、研究者の自主性が失われ、科学研究というものの自律性がそこなわれ科学研究が体制側のコントロールのもとに急速に入ろうとしている。しかも当の科学者はそのような事態の進行の意味をほとんど自覚的には認識していない。」『戦後日本の科学運動』(中央公論社1960) (5頁)と述べていた。

1955年に日本生産性本部が1956年には、原子力推進を目的とする科学技術庁が、動き始めている。そして1960年には、大学に原子力工学科が創設されている。

実際には資本の側が、合理的な科学研究を欲するように状況は変化していたのである。

こうして人々の信じる明るく合理的な未来にゴジラの来る夜が、闇が、準備されていたのである。

高度経済成長が始まろうとしていたこの当時、忌まわしい戦争の記憶を忘却し、復興による輝かしい未来を志向する時間意識が、人々をとらえつつあった。投げ捨てるべき忌まわしい過去と復興と高度経済成長による輝かしい未来というように時間に価値の序列が生じていた。それは、近代化の時間、進歩の時間意識であった。この当時の人々の進歩の時間意識こそが、もっとも忌まわしく、投げ捨てたい過去としてゴジラに太古の恐竜というスタイルをとらせたのであった。

そして21世紀初頭の今日において科学者が再び戦争に動員されかねない戦争前夜というような状況が生まれている。

ゴジラの来る夜の闇は、ますます深まっているのである。

 

5. 科学者の思想と倫理を問う物語としての『ゴジラ』(1954)

市民科学研究室の前身である「科学と社会を考える土曜講座」において上田昌文氏は、本多猪四郎監督の映像作品を鑑賞して共同討議を行うという企画を行っていたと記憶する(※)。

※ [編集部注] 1995年にメンバー4人から成る、特撮映画、アニメーション、漫画のなかで「科学」がどう扱われているかを調べ、事例報告し、それをふまえて、作品を鑑賞するプロジェクトチーム(「MASCプロジェクトチーム」)が結成された。その発表会の一つが96年2月に行った「漫画・アニメと科学の交差点」であり、また、このプロジェクト関連して公表された文章の一つが『遊星より愛をこめて ~幻の「第12話」をもとめて』(牧史郎・著、『どよう便り』第35号特別号2000年7月)である。

これは、いまから考えるならば先駆的な意味を持った試みであったと評することができるだろう。空想科学映画と呼ばれる映画や怪獣映画はたくさんあるが、本多作品にしかみられない大きな特徴が存在する。通常の怪獣映画では、怪獣と人間社会との間で物語が展開していく。ところが本多作品においては、怪獣と人間社会以外に科学者が登場し、必ずと言っていいほど重要な役割を演じているのだ。

【続きは上記PDFでお読み下さい】

市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけれるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。

ご寄付はこちらからお願いします



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA