連載「日中学術交流の現場から」第3回 ゴジラ・天皇制・市民科学―「令和ブーム」に抗して―

投稿者: | 2020年6月14日

【連載】日中学術交流の現場から 第3回

ゴジラ・天皇制・市民科学―「令和ブーム」に抗して―

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者)

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はじめに

2019年5月1日から元号がかわり、「平成」から「令和」となったという。

その前後において日本の大手マスメディアの新聞やテレビは、「新しい時代のはじまり」という報道一色で染まっていた。それと連動する形で「令和フィーバー」なるものが起こり、菅官房長官が、辛抱強く人の話を聞く「令和おじさん」として賞賛されていた。

かつて首相をやったことのある石橋湛山が、元号を廃止することを提起していたことを報じているメディアは、私が見る限り皆無だった。石橋湛山が、所属していたことのある東洋経済新報ですらまったくそうしたことには触れていなかった。

北京で国際関係論を専門とする北京大学教授に私の主催する北京日本人学術交流会で報告してもらい討論していた時のことだ。その北京大学教授は、「日本は、天皇制があったからこそ国民がひとつにまとまり、安定した成長と発展を遂げることができたのだ。」と語ったのだ。私は、非常に意外な感じがした。「中国人でも日本の天皇制をそのようにみている人がいるのか」という意外な気がしたのである。たしかにかつて孫文は、中国人一人一人は、砂のような存在であり、ひとつにまとまることが非常に難しく、すぐにこぼれ落ちてしまうと論じたことがある。そうした中国社会に生きるものからすれば、日本の天皇制が、国民を一つにまとめ安定成長の要因として映るのかもしれない。

しかし、この天皇制こそ、近現代の中国に大きな災いをもたらした根源に存在しているものであることもたしかなことなのである。一世一元制という天皇の代によって元号が変わるこの仕組みは、明治以降に始まっているものだが、もともとは、中国の制度を模倣して始まったものである。中国では、1911年に辛亥革命がおこり、一世一元制は、廃止された。

だが、日本ではこの一世一元制が、現在まで生き残っている。市民科学者にとってこの一世一元制という制度は、かならずしも自明のものではない。ここでは戦後日本最大のモンスター、ゴジラと天皇制の関係について考えてみることにしたい。

ゴジラ 60周年記念 デジタルリマスター版 紹介ページ 映画-Movie Walker より


1. ゴジラと破壊

ゴジラは、2002年突如としてわれわれの前に姿をあらわした愛らしいあごひげあざらしである「タマちゃん」のようにわれわれを癒すようなかわいい存在として登場してきたのではなかった。そうではなく、戦後日本の復興と高度経済成長のはじまりである1954年当時を生きる人々を恐怖させる不気味な存在としてゴジラは姿をあらわしたのである。そして、なによりもゴジラは破壊する怪獣であった。ゴジラは破壊し、破壊し、防衛隊の攻撃を受けてもなおも破壊する怪獣である。

ゴジラは、橋を破壊し、道路を破壊し、工場を破壊し、漁船を破壊し、ダムを破壊し、港を破壊し、城を破壊し、民家を破壊し、有刺鉄線を破壊し、鉄道を破壊し、航空機を破壊し、都市のビルを破壊し、警察のパトカーを破壊し、防衛隊の戦車を破壊し、国会議事堂を破壊し、銀座の服部時計塔を破壊し、原子力発電所を破壊し、原子力潜水艦を破壊し、対ゴジラ用戦闘兵器メカゴジラを破壊し、ニューヨークの国連ビルを破壊し、人々の安心感を破壊し、宇宙人X星人の地球侵略計画を破壊し、ゴジラに敵対する怪獣を破壊し、既成のモンスター映画という概念を破壊し、これ以上にない破壊の限りをつくした。

ゴジラは、このかつてない破壊によって日本のみならず世界の大衆文化史上に残る存在になったといってよいだろう。 しかもゴジラの破壊したものは、戦後日本の在り方を示すようなものばかりであった。

ゴジラの最大の特徴とは、破壊することである。破壊しないゴジラはゴジラではない。 ゴジラは、破壊することを仕事にしているといっても過言ではない。だが、その徹底した破壊を行ったゴジラですら破壊しなかった場所がある。

それは、「不滅」の象徴が住む皇居にほかならない。(私の知る限り皇居に最も近づいた怪獣は、『ウルトラQ』(1966年)第四話に登場するマンモスフラワーである。マンモスフラワーは、皇居のお堀に根を張っていた。)


2. 2. ゴジラと戦争と天皇

ゴジラは、なぜ東京にやってくるのだろうか。
これまでのゴジラ論において語られている有力な説にゴジラは、南の海で亡くなった日本兵士の怨念の集合体が、皇居に引き寄せられるから東京にやってくるのだという説がある。

川本三郎は、『今、ひとたびの戦後日本映画』(中公文庫,2000)の「ゴジラはなぜ「暗い」のか」において以下のように述べた。『ゴジラ』(1954)のラストシーンでゴジラが、ゴジラと同じ闇を背負った化学者、芹沢博士によるオキシジェンデストロイヤーの攻撃を受け、海に消えていくときについてである。

ゴジラは「戦災映画」、「戦禍映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの鎮魂歌ではないのかと思いいたる。“海に消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないのか。(85頁)

これが、現代のゴジラ解釈においてスタンダードなものとなっているようにおもわれる。ゴジラが日本人にとっての「戦争の記憶」であることが、確かな以上、こうした見方が出てくるのは、理解できることであろう。(元号廃止を主張した石橋湛山の息子もまた、南方で死んだ日本兵士であった。)
続けて川本はゴジラと天皇について指摘する。

ゴジラが銀座を破壊し、国会議事堂を破壊し、紀尾井町のNHKのテレビをへし折り、その次に目標にしていた皇居を前にしてなぜか突然、くるっとまわれ右して海に帰っていくシーンは「ゴジラ」のなかのもっとも痛ましいシーンである。ゴジラが皇居を回避する。
皇居だけは破壊できない。これを「ゴジラ」の思想的不徹底と批判するものは、天皇制の「暗い」呪縛力を知らぬものでしかないだろう。 (86頁)

実際に『ゴジラ』(1954)の映像を見てみると、この文章が言うほどに明確に「ターン」しているとは思えない。しかし、東京の面積のかなりの部分を占める皇居にゴジラが、踏み込んでいないのは、たしかに不自然に思えないわけではない。

民俗学者の赤坂憲雄は。「ゴジラはなぜ皇居を踏めないのか」で川本三郎の説を受けて、このように述べた。

『ゴジラ』の基層にはおそらく無意識の構図として」、戦争の末期に南の海に散っていった若き兵士たちの、行く場もなく彷徨する数も知れぬ霊魂の群れとかつて彼らを南の戦場に送り出し、いま死せる者らの魂鎮めの霊力を失ってただの人間にかえったこの国の最高祭祀者とが声もなく、遠く対峙しあう光景が沈められているはずだ。 (23頁)

『ゴジラ』(1954)という映画を鎮魂の儀式であると考える点、ゴジラを第二次世界大戦における死んだ日本兵の象徴として読む点などは一致している。しかし、異なっているのは、ゴジラがなぜ皇居を攻撃しなかったのかという理由である。川本が、「天皇制の暗い呪縛力」を見たのに対し、赤坂は、それに反論する。

ゴジラが皇居の周囲をめぐったすえに背を向け、南の海に還っていくのは、そこにはもはや死者たちの鎮め癒してくれるものがいないことを悟ったからではないのか (23頁)

日本の兵士を送り出した「神」としての昭和天皇が、戦後においては人間宣言をし、「人間」となったためゴジラは、会うべき相手を失ったことを悟ったというのである。

こうしたとらえ方は、様々な解釈の余地を残しているが、ここで私たちは、『モスラ』(1960)の原作者の一人でもあった堀田善衛の言葉に耳を傾けてみる必要がある。
堀田善衛は、中国、上海で敗戦を迎えることになるが、その直前に1945年3月18日、東京深川富岡町の焼け野原で昭和天皇を目撃していた。堀田はこの時のことを『方丈記私記』(ちくま文庫,1988)のなかで以下のように書いている。

私が、歩きながらあるいは電車を乗り継いで、うなだれて考え続けていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなくて廃墟でこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときにあたりで焼け跡をほっくりかえしていた。まばらな人影がこそこそというふうに集まってきて、それが集まってみると実はかなり人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円びを前においてしめった灰のなかに土下座をした。その人たちの口からでた言葉についてであった。早春の風が。何一つ遮るものがない焼け跡を吹き抜けていき恐ろしく寒くて身が凍える思いをした。心の中も恐ろしく寒かったのである。風は鉄の匂いとも灰ともなんともつかぬ臭気を運んでいた。私は、方々に穴のあいたコンクリート塀の蔭にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が、足りませんでしたので、むざむざ焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます。生命をささげまして、といったことを口々に小声でつぶやいていたのだ。    三、羽なければ空も飛ぶべからず 『方丈記私記』

1945年3月10日にアメリカ軍による東京大空襲があり、一晩で10万人以上が殺された。(1954年の『ゴジラ』におけるゴジラの東京の破壊は、明らかにこの東京大空襲をイメージしている。実際、当時の人々が『ゴジラ』(1954)を見たならば、東京大空襲のことを想起しただろう。) 見渡す限りの焦土のなかをなぜか勲章を付けた軍服姿の昭和天皇を堀田善衛は目撃して驚いている。

私は驚いてしまった。私は、ピカピカ光る小豆色の自動車とピカピカ光る長靴とをちらちら眺めながら、こういったことになってしまった責任を一体どうしてとるつもりなのだろう、と考えていた。ところが責任は、原因を作った側つくった方にはなくて、結果を、つまり焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどのようにして起こりうるのか!  (同書)

こうなってしまった責任をはたしてどうやってとるのかというのは、堀田自身が、目の前の昭和天皇に対して思ったことだった。しかし集まってきた人々は、昭和天皇の責任を問うどころか、土下座して涙を流し、誠に申し訳ありませんと昭和天皇にわびたという。戦争を人災ではなく天災のようにとらえ、「強いられた死」に対しての「最高の責任者」である昭和天皇に被害者が謝るという驚くべき転倒した理不尽な構造。この構造の中で一億総懺悔―懺悔は大きな損害を与えたアジアの人々に対して行われたのではない―が、行われ、昭和天皇の戦争責任や植民地支配責任は、雲消霧散してしまった。1945年においてはこのことこそが最も問題にされなければならなかったはずである。

だが、現実にはそうはならなかった。戦争責任を無化したしたところに自前の民主主義や自立した市民が育つだろうか。堀田が焼け野原で天皇を見たとき、広島、長崎への原爆投下までポツダム宣言受諾まで、まだしばらく間があった。広島に原爆が投下された後、1947年、昭和天皇が、廃墟になった広島に行幸したとき、人々は熱狂的に昭和天皇を歓迎した。だが、この28年後の1975年、「原爆投下の事実を陛下はどのように受け止められたでしょうか。お伺いしたいと思います。」という記者の問いに対して昭和天皇は、「原爆が投下されたことに対して遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています。」と答えた。これは、非人道的な発言であり、広島市民は裏切られたのだが、これに対して大きな抗議が沸き起こったというようなことは起こっていない。
(一方、昭和天皇の広島行幸から4年後の1951年、昭和天皇は、京都大学に行幸した。このとき京都大学の学生は、天皇を歓迎せず、抵抗の姿勢を示した。ここには朝鮮戦争で警察予備隊が創設され、占領軍のもとで「逆コース」が進んでいくことへの京大生たちの危機感を感じ取ることができる。このとき京大同学会が出した昭和天皇への公開質問状は、「私たちは一個の人間として貴方を見るとき同情に堪えません。」という一文で始まるものであった。この公開質問状の執筆者が、技術論や技術史の研究で知られる中岡哲郎氏であったことは、とりわけ、市民科学に関心をよせる人々には、記憶されてよいことである。)

戦後民主主義の根本問題が、ここにある。ジョン・ダワーがいうように戦後民主主義とは、天皇制民主主義である。

『方丈記私記』の無常観の文脈でいえば、ここでは「無常観の政治化」といったことがおこなわれていたのだ。たとえば、宮崎駿は、堀田善衛の影響を大きく受けているが、ゴジラ映画や宮崎アニメに共通するのは、この無常観への抵抗という点である。

 

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