【書評】常石敬一『731部隊全史―石井機関と軍学官産共同体』(高文研2022)

投稿者: | 2024年2月18日

【書評】

常石敬一『731部隊全史―石井機関と軍学官産共同体』(高文研2022)

評者:山口直樹(北京日本人学術交流会責任者)

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本書は、ほぼ40年の長年にわたって関東軍防疫部隊、すなわち731部隊の研究に取り組んできた常石敬一氏の731部隊研究の集大成というべきものである。

まず、最初に本書の構成を示しておこう。

 

はじめに   なぜ今石井機関(731部隊)を取り上げるのか。

序章    731部隊-特別な存在

第一章   窮地の軍医学校―東郷部隊と石井式濾水機

第二章   石井機関‐組織者石井四郎

第三章   1932年満洲コレラ調査‐石井機関の原点

第四章   平房の本部建物:上意下達の研究体制

第5章   「北向け南!」大失態と新たな情報収集が必要に

第6章   切り札PX

第7章   敗戦―世界は冷戦へ

第8章   負の遺産:石井機関と日本の医学界

第9章   復活する「消えた細菌戦部隊」・輸血とBCG

終章       科学・技術・社会:歴史・現在・未来

 

「はじめに」において常石氏が、新たに731部隊についてまとめたいと思った理由が述べられている。それは、2015年に防衛省が、大学などの科学研究を補助する制度(安全保障技術研究推進制度)を始めたことがきっかけだったという。これは大学などの研究を防衛省の研究開発のネットワークに取り込む軍事研究への誘導でありそのことの問題点を訴えたかったのだと述べている。

常石氏はいう。軍事研究はどこの国でもやっている。それでも軍事研究を問題視するのは、非軍事の科学研究にとって有害なものになっているからだと。

科学研究の基本とは自由と公開であり、この自由は誰もがもっている基本的人権における自由を意味し、科学の名のもとに人を殺傷する自由は認められていないのだ。

科学者の知見は、科学界を含む社会に対して公開されており、その利用は自由であって科学者はそれを利用して自分の研究の出発点を決めることができる。

こうした研究の見極めは、だれでもやっていることであって、これから自分が進む分野の前線配置を知ることで研究の方向性を決めることができる。

研究の自由の第一歩は研究のテーマ選択だが、それ以上に重要なのは、発表の自由である。

軍事研究における人体実験などで違法な研究であれば、発表することができないが、研究の基本は発表の自由にあるといっていい。学術論文は、誰もがアクセス可能と公開の原則が存在する。

軍事研究においてはこの公開の原則が守られない。

軍事研究は、寄生虫的存在だが、十分な研究費に恵まれ、戦争となれば、湯水のごとく資金が提供され、軍事研究の産物が、ある日突然人々の前に現れる。

その典型として常石氏は、原子爆弾をあげている。

ソ連が原爆の実用化を考えはじめるのは、1945年8月に広島、長崎で示された圧倒的な力を見てからであった。

日本陸軍の細菌の秘密兵器、PXとよばれたペストノミを世界が知ったのは、1940年、上海対岸の街寧波に航空機からPXが散布され、数日後にペスト患者が出てからだった。

原爆開発が可能と考えられる1940年5月からは米国では核分裂関係の論文、各学会誌への掲載が差し止められた。研究情報が、6年間ストップし、研究の空白期が生まれた。原爆の秘密が公開されたのは1946年からだったという。

軍事研究では科学者というヒト、研究材料・原料というモノそれに研究費というカネがふんだんに投入されるが、それに見合った結果がでていないだけでなく後世に深い傷跡を残した例として米国のマンハッタン計画と石井機関(731部隊)の2つをあげている。

また、ここでは常石氏の歴史に対する証拠のないものを取り入れることはできないという徹底的に実証的な姿勢が記されている。例えば

「時間軸も事実も僕独自のもので個人的な思いと無縁ではありえない。しかし、僕の想いを歴史に語らせる、歴史を自己主張のために利用する、という高慢不遜な態度は研究者としては決して許されない。自分を律することができていうかどうかは読者の判断に待つ」(6頁)

という部分がそれである。

ここには、歴史的事実に対する謙虚さと厳格さを感じ取ることができる。

このような姿勢を持つ常石氏には、近年の日本政府の歴史への向き合い方には大きな疑問を持つものに映っているようだ。

たとえば常石氏は書く。

「これまで日本政府は、自国の負の歴史から逃避することが多いが、近年政府統計も信頼できなくなっている。2020年には勤労統計の調査漏れが明らかになっている。さらには2021年には都道府県の「建設工事受注統計」という国内総生産(GDP)の算出にも用いられる基幹統計を国交省が書き換えていたことが明らかとなった。

確実な証拠に基づかない歴史研究はフェイクである。

今の日本はその存在自体がフェイクになってしまっているのかもしれない。

この国で、確実な証拠にこだわることに虚しさを感じる。」(7頁)

「今の日本はその存在自体がフェイクになってしまっているのかもしれない。」とは、常石氏の日本政府に対する強烈な皮肉である。

これに続けて「僕たちにできることは日本が実体を伴った国として自立するよう、政府が歴史的事実を含め確実なデータ、証拠を残し生かすよう監視をし、信頼できる実績にもとづいて国を動かすことが民主国家として「当たり前」なのだというカルチャーを確立することだ。本書がそのカルチャー作りの隅っこの一端を担うことを願っている」と記している。

逆に言えば、現在の日本政府においては、まったく「当たり前」ではなく、後退の傾向も見せているという現実を我々は見て取ることができる。

 

序章では、1936年から1945年までハルピンに本部のあった731部隊が、1945年8月9日にソ連が満洲に攻め込んできたとき、日本陸軍は、731部隊の即時撤退を決めていたことが述べられ、いかに731部隊が、特別な存在であったかが指摘されている。

それは731部隊が、人体実験をしていたからで国際条約のジュネーブ議定書で戦争での使用が禁じられていた細菌兵器の研究開発及び使用をしていたのであり、この二つの融合による人体の兵器化を隠すことが最優先の課題で、それが素早い日本への帰国となったのだった。石井のメモの「先にす」は、人体実験に関わっていた人およびPX関係者から帰国させることを意味していたという。(17頁)

本書によれば、731部隊は関東軍防疫(給水部)の通称号で、公文書で見る限りは、その名でよばれたのは1941年前後の1年間だけだったという。731部隊は隊員数3000人ほどの部隊で石井機関とよばれた総員1万人を超える組織の一部分だった。石井機関には731部隊の姉妹組織、防疫給水部が中国の北京、南京、広州、それにマレー半島のシンガポールに存在し、それぞれの地域にあった細菌戦および給水活動を行っていた。その全体をまとめたのが、東京の陸軍医学校の石井の研究室である防疫研究室であった。

1931年9月に満州事変が起こり、それによって満洲事件費という戦時特別予算が組まれ、軍の年間予算が倍増した。満洲事件費によって石井機関の本部である防研の施設が、軍医学校に設けられた。満洲事変から半年後の1932年3月1日、満州国が日本の後押しで建国され、関東軍が、満州の全域に駐屯することになった。

陸軍軍医学校は、1920年以降、行政処分の対象になり、その存在は危機を迎えていた。

満洲での戦争の始まりは、軍医学校にとっての好機到来であった。

開戦直後の1931年10月12日の第4回臨時行政財政審議会総会で軍医学校の根本的整理が決まっていた。そこで陸軍軍医学校は、生き残り策として満洲進出を考えていく。

生き残り工作の中心人物は、化学兵器の基礎を築いた小泉親彦軍医監であり彼の懐刀の石井三等軍医正だった。小泉が石井を使って推進したのが医学兵器開発で、その中身は盾が石井式無菌濾水器で、矛が細菌兵器だった。

満州国が建国された1932年夏、満州全域でコレラが流行し、患者が9300人が出て6300人が死亡した。病原体の兵器としての使用を企んでいた石井にとっては、これは願ってもないチャンスだった。

石井は医学者ではあるが、細菌学が専門で治療はやらない。

彼らがやったのは流行につながる情報の収集、流行の速度や広がりの調査、各地で流行の原因となったコレラ菌を集めることだった。

石井は集めたコレラ菌を東京に持ち帰り、部下の軍医3人に分析させた。

その分析で分かったことは、細菌の感染力は長期保存すると低下するという事実だった。

病原体の兵器化にとって、保存菌は感染力を失う事実と、他方で動物の体内を通過させることで回復・増強ができるという知見は重要な発見だった。この発見に基づいたより強力な病原菌を得る確実な道が、病原体をモルモットではなく人間の体に通す人体の兵器化だった。細菌兵器部隊としての石井機関の原点が、1932年から翌年にかけてのコレラ流行調査と、その後の現地で集めた菌の分析ということだった。(22頁)

731部隊は1936年8月、数年間の背陰河での秘密活動を経て、関東軍の正式な部隊、関東軍防疫部としてハルピン郊外の平房でスタートした。

しかし部隊の要員もそろわず、また施設も未整備状態での発足だった。

約1年後1937年7月、新たな戦争、支那事変が始まり、ハルピンでの部隊整備に遅れが出た1941年4月に731部隊にとっての新兵としての第一期となる300人が加わり防疫防水部としての体制が整った。その年末12月8日、日本は米国など連合国に対して宣戦布告をし、世界大戦に参加することになった。その時の衝撃を300人の新兵の一人、熊本鉄雄は「北向け南!」の号令と記しているという。それまで日本の仮想敵はソ連だった。

731部隊の細菌戦準備もソ連が対象であり、中国中部への町への細菌攻撃はそのための試験的攻撃、試行だった。ところが敵はアメリカに突如かわるのである。

そこで1944年、731部隊は17人の部隊員を最近攻撃のためにサイパン島に送り出した。

サイパン島が陥落すると米軍機の日本本土攻撃の基地となる。

それを阻止するために島をペスト菌で汚染する計画だった。しかし17人は現地に到着することができず、計画は失敗に終わるのである。

ここで本書の副題となっている「石井機関と軍学官産共同体」について常石氏が説明した部分を取り上げる。

……【続きは上記PDFにてお読みください】

 

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