資料紹介(どようML「おもしろブックス」より) ◆求む原稿!(どよう券贈呈)

投稿者: | 2002年4月18日

資料紹介(どようML「おもしろブックス」より)
◆求む原稿!(どよう券贈呈)
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●阿部潔『さまよえるナショナリズム』(世界思想社、2001)
2002年6月日本と韓国で共同開催されたワールドカップサッカーは、一種ナショナリズムの祭典ともいえる様相を示した。私の住む仙台市では、トルコ対日本という日本にとってのはじめての決勝トーナメントが行われたので、その応援の熱狂ぶりを目の当たりにすることになった。日本国民として一体になって応援することの快感に目覚めた人も多いに違いない。そしてワールドカップに熱狂したあとふと気がついてみると小泉首相の人気は下降し、そのかわりに人気が上昇してきているのが「三国人発言」など数々の問題発言で知られ日本ナショナリズムを一身に体現しているような人物である石原慎太郎氏である。(フランスのルペンが問題になるのに日本では石原慎太郎が問題にならず高い人気を維持しているのは一考に値する問題である。)
このような時期に冷静になって読んでみることをおすすめしたいのが、阿部潔『さまよえるナショナリズム』(世界思想社、2001)である。
著者の阿部潔はメディア論や社会学を専門とする研究者である。阿部は自らの国際会議での経験にふれた後、「「ナショナルなもの」は私たちが生きる日常空間にある意味で空気のように充満している。」と書いている。その空気のような「ナショナルなもの」に潜む暴力は自覚や悪意がなくても発揮されてしまう。「ナショナルなもの」がどのように他者を排除するのか、そのことについて明らかにすることが本書の目的だとされる。著者はまず第一章で「国際化」や「情報化」が叫ばれると同時に「失われた十年」といわれる1990年代こそは「ナショナルなもの」の台頭の時期であったとする。
科学と社会を考える者にとって興味深いのは第2章の「科学技術立国」についての考察、第4章のテクノナショナリズムについての考察そして第6章の「ナショナルなもの」へのノスタルジーについての考察の三つである。
「戦後」という時代は「ナショナルなもの」が否定されるべきものとして出発したと理解されてきた。たとえば日本の伝統芸能である「赤穂浪士の討ち入り」が禁止されていたというような事態はその一例である。政治的な次元においても「ナショナルなもの」を肯定することは反動的なものとして敬遠された。しかし政治的な次元とは一見無縁なところで「ナショナルなもの」は新たな形で唱えられることになった。それが科学史家の中山茂氏や吉岡斉氏などによって研究されてきた「科学技術立国」という理念に他ならない。1945年8月18日には既に前田多門文部大臣が記者会見の場で日本の基礎科学を高め「文化国家」を建築する必要性を述べた。物理学者として知られる仁科芳雄も「科学立国」という言葉を用いて戦後日本の目指すべき方向性を示そうとした。こうしたことからもわかるように「科学技術立国」の考え方は敗戦後の極めて早い時期に発すると指摘される。当初は「科学技術立国」は軍事に特化したようなものではなく戦後理念である平和と民主主義を実現するべく非軍事=民生技術の促進を意味していた。
しかしアメリカの占領期も後期になるとGHQの基本方針は日本を平和国家として再建することから極東地域の反共の砦とすることへとシフトしていった。これを著者は占領政策のデモクラシーからテクノクラシーへの理念と変化だと言っている。このような変化に応じて科学技術の振興は、科学者の間の民主的な議論の過程というより国家権力のもとでテクノクラシー的に押し進められていくようになっていく。
「科学技術立国」の内容は時代の流れによりさまざまに変わっていった。50年代から60年代にかけては資本集約型の重化学工業の復興。エネルギー危機に見舞われた70年代以降は知識集約型の電気電子産業の振興。このように時代の変化に応じて臨機応変に対応しながら戦後社会は一貫して科学技術の発展を目指してきた。そしてこれらは官民一体となった国家的事業に他ならなかったのであり、アメリカに科学技術力で追いつき追い越そうとする戦後日本の姿勢には平和国家と民主主義の実現という「建前」と同時に技術・経済競争でのリベンジという「本音」がかくされていると指摘されている。
第4章「テクノ・オリエンタリズムとナショナルなもの」で取り上げられるのは、1991年に放送されたNHKのテレビ番組『電子立国日本の自叙伝』である。この番組は戦後日本の電子技術者たちが欧米の技術水準に追いつくべく努力に努力をかさね幾多の困難を乗り越えいかにして世界に認められる革新的な技術開発に成功したのかを、関係者のインタビューを交えながら描いたドキュメンタリーであった。
第一回の放送では現在の電子機器製造において高度な峡Z術に基づくシリコンチップの生産、処理、加工が不可欠であること。そうしたシリコン技術において日本は最先端にいることが描かれる。それに続く各回の番組ではトランジスター、集積回路、LSI、マイクロ・プロセッサーと年代を追って、それぞれの時代ごとに画期的な技術を開発すべく国内外の企業がどのような激烈な競争を繰り広げてきたかが語られていく。この『電子立国 日本の自叙伝』は大衆にむけたテクノナショナリズム言説の典型だということができる。
ただ『電子立国 日本の自叙伝』の大きな特徴として「日本の」とタイトルにあるわりには日本という「国家」の姿が見えてこないということがある。それにかわって脚光を浴びるのは技術開発に取り組んだ個人や集団である。ここでは電子立国の立て役者が民間の技術者や起業家であったことが繰り返し強調されている。つまり『電子立国 日本の自叙伝』は戦後日本の民間人の力によって高度なテクノロジーを世界に誇る日本が築き上げられたとする成功物語なのだとされる。
しかしここで問題になってくるのは、戦後日本の技術発展の特徴がその過程において国家と地方行政が大きな役割をはたしたという点である。このことからいえば戦後日本の「電子立国」は民間も努力だけで成し遂げられたわけではない。むしろ官民が協調的だったところに戦後日本の技術力の飛躍的な高度化を可能にした条件があったといってよい。
ではなぜ国家ではなく民間の手になる技術開発をめぐる「成功物語」となったのだろうか。国家政策という上からの強制ではなく民間努力という「下からの主意」によって戦後日本の「立国」はなしとげられたのであるという解釈は戦後民主主義という神話をこわすことなく同時に人々のナショナルなプライドを満足させるのに適合的だったというのが大きな理由だと指摘されている。80年代のテクノナショナリズムの特徴は、戦前・戦中のように強制的、抑圧的な国家から押しつけられるものではなく戦後社会の「豊かさ」をもたらした民間の技術力の高さに対して人々が持ってしかるべきテクノロジーへのプライドが「日本人としての誇り」とされ、国家を全面に押し出すことなく「ナショナルなもの」を語る点にこそある。
第6章「「ナショナルなもの」へのノスタルジーー高度経済成長という「輝かしい過去」―」で取り上げられるのは『プロジェクトX挑戦者たち』である。今日の「ナショナルなもの」の特徴はそれが極めてのノスタルジックに語られる点にあるという。未来に向けた具体的なビジョンではなく過去を懐かしむセンチメントとして「ナショナルなもの」が多くの人の心をつかんでいる。バブル崩壊の「失われた10年」の経済状況の中で将来の夢や希望を持ち得なくなったわれわれは繁栄や成長が謳歌された時代を懐かしむことでせめてもの救いや癒しを求めようとした。
とりあげられる「プロジェクト」は青函トンネルや黒四ダム、巨大建築の建設、胃カメラ,YHSなどの医療機器、家電製品の開発、東海道新幹線やYS11航空機の開発といった国家的プロジェクトの達成など極めて多岐にわたる。この番組に登場するのは一握りのエリートではなく「普通の人々」である。「普通の人々」のたゆまぬ努力と創意工夫の上に成し遂げられた成功物語としてさまざまな「プロジェクト」が描かれる。しかも「プロジェクト」の多くはものづくりに関係している。国家や組織ではなく技術者個人やチームによって戦後の偉大なプロジェクトが成し遂げられた、こうした解釈は『電子立国 日本の自叙伝』と共通するものである。
しかし『電子立国 日本の自叙伝』と『プロジェクトX挑戦者たち』では違うところもある。まず第一に『プロジェクトX挑戦者たち』は『電子立国 日本の自叙伝』くらべると明らかに懐古的であるということである。取り上げられるテーマは60年代から70年代にかけての高度経済成長期のものである。敗戦から立ち直り驚異的な経済成長を背景に国際社会へとはばたいていった戦後の日本。そうした勢いがあり元気の良かった時代への郷愁がそこにはある。輝かしい過去を回顧することでいい知れない閉塞感に包まれる現在に一抹の希望を見いだそうとする試みという過去へのノスタルジーが色濃く漂っている。
90年代以降深刻な不況が続きリストラの嵐吹き荒れるなか中高年サラリーマンたちは自信を失い、将来の不安だけが深まっていった。そうした状況に「活力」を与えるためにこの番組はつくられたのだと番組プロデューサーは証言している。
しかし、こうした活気づけ、元気づけはなにか具体的な内実をもったものでは必ずしもなくかつて成し遂げられた「偉業」を現在どのようにして継承して行くべきか、これまでのプロジェクトの現代版として今後、具体的に何が構想されうるのか、そうした具体性が『プロジェクトX』には不思議なまでに希薄だということである。
もう一つ『電子立国』との違いが指摘される。『プロジェクトX』は民間人の成功物語ではなく官民一体となった国家的プロジェクトの偉業が取り上げられている。具体的には富士山山頂での気象観測小屋建築、青函トンネル工事、ガン早期発見のための胃カメラ開発などこれらは戦後、官民が一体となって「日本の技術力」を高めるべく試みられたプロジェクトの典型である。番組ではこれらの国家的プロジェクトの遂行にあたって官民の垣根を超え同じ技術者、挑戦者として人々が尽力したことがエピソードを交えて感動的に語られる。ここで取り上げられる人々は国家的な危機や課題に直面して官か民かの違いに拘泥するのではなく互いに協力しあいながら問題を解決してきた「あのころの日本人」の姿がノスタルジーと羨望をこめて描き出される。さてこの番組は、当初、中高年をターゲットにしていた。しかし意外なことにこの番組は制作側の思惑を超えて若い世代にも支持されることになる。中高年にとっては「かつて目にした栄光」への懐古として若者達には「いまだみたこともない偉業」へのあこがれとして高度経済成長期という過去は極めて魅力的肯定的に語りなおされている。そうしたノスタルジックな語りは厳しい現実への慰めや癒しではあるが、未来への処方箋にはなりえない。逆に言うと『プロジェクトX』の人気の秘密はかつての「輝かしき高度成長」を懐かしむことでナショナル矜持をなんとかして確保しようとする人々の欲望を巧みに満たしてくれる点にあるといえるという。その意味で『プロジェクトX』は「ナショナルなもの」にたくみに訴えかける言説にほかならない。
さて本書で取り上げられている素材をとおして科学技術と「ナショナルなもの」の関係をみてきた。著者は「国際化」や「グローバル化」が唱えられる時代「外へ」の動きのみならず「内へ」「中へ」とむかうベクトルをもって「ナショナルなもの」を問い直すことが必要だという。著者は一例として「20才になったら選挙に行こう。」という言説をとりあげる。この言説は20才になったら全員が選挙権を持てるということを前提にした言説である。ところが実際は日本社会の中には20才になっても選挙権が与えられない人々が確実に存在する。(たとえば在日朝鮮人の人たち)この言説には、そのことへの想像力が欠けているという。身のまわりの日常生活を私たちと共にしながらすでに「ナショナルなもの」から閉め出されている他者への想像力を身につけそのなかで他者との想像力を積み上げていく、そうした中からしか「ナショナルなもの」を内側から超え出ていく可能性は生まれないだろうと著者は言う。
そうだとするならば、「ナショナルなもの」を内側から超え出ることは、冒頭にあげた典型的なテクノナショナリストである石原慎太郎に日本の閉塞状況を突破してもらおうと期待することなどでは決してない。我々は空気のような「ナショナルなもの」へ想像力を養成しつつその行方を見守る必要があるのである。■山口直樹@東北大大学院(日本学術振興会特別研究員)
●山泉進「憑依する大逆―「大逆事件」研究の現場から」『歴史が書きかえられるとき―歴史を問う―』(岩波書店,2002)
「大逆事件」研究の第一人者による好論文である。著者の山泉進によれば「大逆事件」において裁かれたのは「事実」ではなく「信念」であったという。なぜ日本の近代において行為が裁かれるのではなく中世の魔女裁判のように個人の思想で裁くことが可能であったのか、そのことを「大逆事件」の内容にふれながら語っている。「大逆事件」とは、1910年5月から逮捕が始まり翌年一月の死刑判決、処刑へと続く、幸徳秋水を首謀者とする明治天皇暗殺計画といわれるものを指している。今日では権力側のフレームアップであったことが明らかになっている。
「大逆事件」において権力側は宮下太吉による爆裂弾の製造という唯一の「事実」を天皇を否定する「無政府共産」という「信念」に結びつけて「直接行動」というゼネストによる権力奪取の運動方針を置き換えて幸徳秋水を中心とする急進的な社会主義者を一網打尽にすることによって社会主義思想そのものの根絶をはかった事件であった。
「大逆事件」は多くの被告を出し、多くの遺族に苦痛を強いることになったわけだが、山泉進は、「依然、歴史として解決できていない何かがこの事件のなかに宿っている。」と語っている。
2001年8月 大石誠之助をはじめとして6人の被告をだした和歌山県新宮市で「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成され6名の被告の名誉回復を目的として「大逆事件」に関する講演会や研究会の開催などが決議された事を知れば、「大逆事件」が、まだ決着のついていない現在の出来事であることがうかがえるのである。
この「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」では「『人権の世紀』といわれる新たなる世紀を迎え、私たちは彼らの人権回復をまず私たちの手で成し遂げていきたい。かれらは平和・平等・非戦を唱えた郷土の先覚者であった。そう位置づけることによってかれらの人権回復をはかり、さらにはあらゆる人権侵害を許さない社会の実現に向けての第一歩にしてゆきたい、わたしたちはそのような願いのもとにこの会を立ち上げました。」とうたっているという。第二次世界大戦後における、人間宣言による天皇の神格化の否定、憲法上の主権者としての天皇の地位の変動によって大逆罪や不敬罪は消滅した。しかし実は「大逆事件」について語ることにはいまだにタブー意識があり、そのような状況の中でようやく名誉回復がはかられようとしているのである。
この名誉回復の本格的な動きは、1996年にはじまった。新宮にある浄泉寺の僧侶で「大逆事件に連座し、死刑判決を受け、のちに無為懲役に減刑され、秋田監獄に入獄中の1914年自らの属する真宗大谷派によって破門されたことに絶望して自殺をとげた高木顕明の復権がようやく85年ぶりに行われた。浄泉寺は被差別部落の人々を多く門徒とし、顕明自身仏教的平等主義のもとで被差別者に同情をよせ、救済に関わっていた人物であったこともあって「人権」問題にも深い関わりを持って「大逆事件」に関する見直しがすすめられた。
さらそれ以前には「大逆事件の真実を明らかにする会」は、1960年当時の参議院議員であった坂本昭を事務局長として発足していた。坂本清馬、森近栄子を請求人とする「大逆事件」に対する再審請求を支援するための市民団体として結成された。坂本清馬は「大逆事件」において死刑判決をうけ25年におよぶ獄中生活で無実を主張し続け、「大逆事件」の最後の生き残りとして高知県中村市に暮らし、幸徳秋水の墓をまもっていた人物であった。
森近栄子は岡山県高屋市で「大逆事件」において刑死した森近運平の妹であった。この再審請求は、棄却され続けた。またこの事件に関して天皇制権力側が謝罪したことはむろん一度もない。
またこの論文では近代日本における「大逆事件」は実は4つあることに言及している。まず一つは幸徳秋水らに関するものである。二つ目は「虎ノ門事件」といわれるものであり1923年12月27日摂政宮(後の昭和天皇)を難波大助がステッキ銃で狙撃した事件である。弾は命中せず、1924年11月5日難波は処刑された。第三は「朴烈・金子文子事件」と呼ばれているもので1923年、関東大震災、在日朝鮮人である朴烈が行政執行法により検束されたことに端を発する事件である。これに関連して同棲中の金子文子も連行され、天皇暗殺の嫌疑がかけられ死刑判決がだされた事件である。四つ目は「李奉昌事件」とよばれるもので1932年1月8日恒例の陸軍始観兵式を終えて帰途上の天皇の馬車に手榴弾が投げられた。場所は桜田門外、犯人は李奉昌という32才の青年であった。
最初の「大逆事件」に話を戻すと幸徳秋水らを検挙した検事は、平沼穀一郎 (経済産業大臣の平沼赳夫はその子孫である。)であった。平沼は官僚機構のなかでは比較的冷遇されてきたエリート検事であったが、彼らは1908年に実施される刑法改正において社会防衛論を振りかざし思想を裁く立場を手に入れさらには利益誘導に走る政党政治家たちの弱みを握って権力拡張の階段をひたすら上がっていく。幸徳秋水らが逮捕されはじめた1910年、日本は朝鮮を植民地として併合した。東北の詩人、石川啄木が「時代閉塞の状況」とよんだのはこのような状況のことであった。山泉進が「大逆事件」を研究テーマに選んだのは、30年以上前のことだという。山泉は「大学という場には絶望していたが、心の絶対性を憧憬するほどには知性に対する信頼がゆらいでいたわけではなかった。人間の生を外側から動かしている政治というものの本質を自分の納得のいく形で見極めたいという気持ちはどこかにあった。」と書いている。山泉進もまた幸徳秋水が生まれた高知県中村市の出身である。その町には小泉三申の名で刻まれた秋水の小さな墓があり、同じ「大逆事件」の被告である坂本清馬がその墓を守っていたという。
「大逆事件」の犠牲者たち幸徳秋水や高木顕明らの名誉回復はまだ始まったばかりである。■山口直樹

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