10月10日のシンポジウムに向けて 持続可能な翻訳とは何か

投稿者: | 2002年4月18日

10月10日のシンポジウムに向けて
持続可能な翻訳とは何か
河野弘毅(かわの・ひろき)hiroki@kawano.net
doyou58_kawano.pdf
土曜講座の会員である河野弘毅さんは、現在神奈川県相模原市にてエクストランス株式会社http://xtrans.comを経営するプロの翻訳家です。ご自身のウェブサイトで「エージェント日記」をほぼ毎日執筆するなど、多方面の情報発信をなさっています。来る10月10日には、河野さんが企画を担っている、日本翻訳連盟の「翻訳祭」のシンポジウムが開かれます。それに先立って、論考を寄せていただきました。(上田)
●フリーランスの明暗
職業としての翻訳を考えるとき、その最大の特徴はフリーランスという就業形態にあると私は考える。二十世紀を代表する「働く人間」像は間違いなく「組織人間」(1)だった。特に日本の場合、大学を卒業したら政府や会社などなんらかの組織に組み込まれて組織人間として出発することがあまりにも当たり前と見なされてきた。そして、組織というのはおおむね、大きいほどエラい、という暗黙のお約束があり続けた。地方公務員より国家公務員がエラく、中小企業より大企業がエラい、というわけだ。大きな組織に就職するのに成功した人は、その人の能力やその組織内でどういう仕事をしているかなどほとんどおかまいなしに、その所属する組織をもとに人としての値段が決まる(その証拠に初対面の相手にまず訊く質問は「どちらにお勤めですか?」)。この構図の中で、一人で仕事できる翻訳者という職業はおおむね社会的には無視されてきた。
ところが、そういう組織人間の二十世紀は終わり、人間の就業形態に地殻変動が起きつつある。たとえばダニエル・ピンクはその著作(2)において、一年間の地道な取材をもとに「組織人間」の時代が今まさに終わろうとしていることを明らかにする。では、来るべき二十一世紀を代表する「働く人間」像とは何だろうか?その答えがピンクの言い方では「フリーエージェント」(=特定の組織に正社員として就職せずに生計をたてる人々)である。全米ですでに3300万人がなんらかのフリーエージェントとして働いていると言う。ピンクの主張は、日本の現代社会における私自身の周囲の人々の就業形態の変化にもそれなりによく当てはまっているように私は感じる。
このような時代の流れを踏まえた上であらためて翻訳者を見ると、それは「組織人間になれなかった人」とか「組織を落ちこぼれた人」でないどころか、二十一世紀を代表する就労スタイルのパイオニアとなる人たちにも見えてくる。
だが、自由競争が機能する翻訳業界においては市場の盛衰が個人の収入を直撃するという厳しさもある。私が従事するのはコンピュータのソフトウェアを英文和訳する「ローカリゼーション翻訳」と呼ばれる産業翻訳の一分野なのだが、この分野の翻訳単価は、1980年代半ばから現在までの約15年間で受注単価において1/2から1/3程度にまで下落した。
個人が翻訳者という職業を一生継続するにはこの程度の市況の変化に対応できなければならないわけだが、組織や制度が防波堤として機能する他の業界と違い、翻訳業界ではその変化への対応をかなりの部分個人が自力でやり抜かねばならない。対応に必要な柔軟性や先見性を欠けばすぐに仕事は得られなくなる。
●翻訳業界の不安
このように変化への対応力を問われる状況は、個人翻訳者に限らず翻訳業界を支える多数の小規模な翻訳会社についても同様である。各種統計によると翻訳会社は日本国内に数百社存在するが、個人企業もしくは数人の従業員を抱える零細企業が多い。零細企業の場合は経営者が翻訳者を兼ねていることが多いため、翻訳の分野や仕事の進め方を変更することはある程度可能であるが、それより少し大きい会社、営業マンを抱えているような社員十名程度の翻訳会社が危ない。この規模の翻訳会社は仕事の流れがある程度固定されていることを前提条件として専門職の社員を配置しているため、仕事の流れが変化したときに、それに対応できるだけの小回りの良さを個人ほどうまく発揮できない傾向があるためだ。
●翻訳現場の矛盾
翻訳の本来の目的は言語の壁を超えて何かを「知らせる」ことにあると言えるが、産業翻訳の日常では言語の壁を超えて何かを「買わせる」ための文書を翻訳しなければ報酬が得られない。古典や啓蒙書のように訳す価値のある文書を翻訳しても商売にならないのと対照的に、誰も読まないマニュアルや美辞麗句を並べたカタログのような訳す甲斐のない文書を翻訳することで妥当な報酬が得られる。
そこまで明確な構図でなくても、目前のマニュアル翻訳の中にも矛盾は存在する。ある文書を読者が読もうとするとき、読者は一般的にその文書からなにがしかの情報を得ることを期待していると想定でき、その情報が得られたらその文書の役割は達成される。私が翻訳するソフトウェアのマニュアルでいえば、読者はそのソフトウェアの使い方とか、特定のコマンドの引数とか、そういう具体的な情報を得る期待をもって文書にアクセスする。
自分が読者として文書にアクセスするとき、私はできれば最小限の時間と労力で自分が必要とする情報を獲得したいと思う。必要な情報と直接に関係のない箇所を長々と読まないと必要な情報が得られないとか、複雑な全体構造を理解してからでないと必要な情報が利用できないとかいう事態は、読者である私にとっては困ったことだ。
ところで、翻訳者としてある文書に取り組む場合、原文が必ずあり、原文をある程度以上読み込んでいくと、その原文が対象としている読者像と、その原文が伝えたいと考えている情報の中身が見えてくるのだが、そうなったとき、すぐに翻訳者としての私が感じるのは、「そういう読者に対してそういうメッセージを伝えたいなら、なんでこういうふうに単刀直入に書かないのか?」という歯がゆさである。「アメリカ人ならこういう回りくどい説明がいるかもしれないが日本人にはいらない」とか「アメリカ人ならここは衆知かもしれないが日本人にはわからない」とかいう箇所がたくさんでてくる。そのとき、私が本当に読者のために<翻訳>をやっているのであれば、「これじゃこの文書の日本語読者にはわからない」という部分を大幅に原文から離れて日本語読者のために書き起こすことになるはずだ。ところが、仕事として私が受ける翻訳でこういうことをやれば、もちろんクビになる。
翻訳者の報酬が翻訳する文書の長さ(原文英語のワード数)で計量されるという点もまた、矛盾の原因となる。読者にとっては短くて明快な説明のほうがいいに決まっているのだが、冗長な表現を省いたり簡潔な表現に置き換えることで翻訳者としての収入は低下する。こういう局面では、読者にとっての価値と翻訳者にとっての価値があきらかに矛盾している。翻訳業界の現状の報酬体系のもとでは、この矛盾を読者に有利になるように超えていく解決策がとれない。むしろ、報酬を期待しない一部のボランティア翻訳のほうが、この矛盾をうまく解決できるのではないかという気がする。
●この仕事、持続可能か?
そんな不安や矛盾を感じていた頃に、日本翻訳連盟という業界団体から業界向けシンポジウムの司会をやらないかという誘いを受けた。好きなテーマを選んでよいという話だったので引き受けることにして、テーマについて考えてみた。
すでに述べたようなフリーランスの持つ可能性と不安定さの矛盾の問題、翻訳会社がこれまで通りのやり方では利益を上げられないとすればどう変化すればよいのかという業界の課題、翻訳者としての使命と利益が相容れないという現場の矛盾、そのいずれをも取り上げたいという欲張った気持ちがあったものの、三つのテーマをうまく接続できずに迷っているときに、ふとシューマッハーのことを思い出した。
2002年4月27日の土曜講座で小林一朗さん(CHANCE!)の話に登場したキーワード「持続可能性」(sustainability)のことはあれ以来ずっと気にかかっていた。持続可能性はエコロジーの分野ではずいぶん前から非常によく知られたキーワードらしかったが、自分自身の経済的基盤が脅かされるまで、私はそのキーワードを自分の生活に直結して考えることができなかった。しかし、実際に自分の職業上の課題が経済にせよ倫理にせよ、一面的な対応策では超えられないと感じたときに、取り組みの糸口としてそのキーワードが実感を持って心に響いてきた。
私にとって持続可能性と聞いてすぐに思い浮かぶのはシューマッハーの著作『スモール・イズ・ビューティフル』(3)だったので、その日以来、この本を少しずつ読み返していた。シューマッハーが提起した現代社会の矛盾を個人のレベルでとらえてみると、個人の実感としての持続可能性が職業によって強いられる持続不能性とうまく接続できないという矛盾に集約されるのではないか、というのがシューマッハーから私が得た直観だった。そしてこの視点を私にとって目前の課題である翻訳者という職業に適用すると、自分が論じたい課題がうまくひとつのテーマでくくれるのではないかという気がしてきた。
産業翻訳が産み出す文書が商品を「買わせる」メカニズムに直接かかわるものである以上、産業翻訳者はその職業倫理を通じて社会の「持続可能性」について真剣に考える立場にあると言えるし、また自らの社会的責任を真剣に考え直すことが遠回りに見えながら実は自らの職業生活の持続可能性(=翻訳者という仕事を継続できるかどうか)に大きな影響を与えるように思えてきた。
このような問題意識から今回のシンポジウムでは「持続可能な翻訳へ」というテーマを設定し、またこの課題を考えるアプローチとして「誰のために、何を、どう働いて訳すのか」という切り口をもうけた。上田昌文さんにパネリストとしての参加を打診したところ快諾してくださったことも大きな励みになった。
日々の糧を得るための稼業(かぎょう)と自らの信条にかなう活動(仕事)とを矛盾なく接続できるかどうかは、翻訳者に限らず今日すべての人にとっての課題と言えるのではないだろうか。なぜなら、一人一人の「稼業」が持続可能性と矛盾する経済のお先棒をかついでいる状況では、いくら週末のボランティア活動で持続可能性を追求しても成果が上がらぬどころかいずれその人はその矛盾を内面化して悩むことが明らかだからである。このような関心から生まれた今回のシンポジウム(2002.10.10開催)に、一人でも多くの方が興味を持ってくださるようであればさいわいです。■

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