写図表あり
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市民科学講座
「科学コミュニケーションに何が求められているか」に
参加して思うこと
石坂信之
市民科学講座の参加者10数名のうち、かなりの方が、現在科学に関わっておられる方ではないかと思いました。そういう私も1年数か月前までは、科学研究や科学コミュニケーションに関わっていましたものの、今は近くの小学校で高学年の理科授業に関わっています(理科支援員)が、科学の発信側には身を置いていません。
講座は、ゲスト講師の五島綾子さんの巧みにまとめられたエッセンス、古屋絢子さんの科学コミュニケータに身を置いた経験を通してのコミュニケーションのレポート、科学コミュニケーションに関するアンケート調査結果に関する吉沢剛さんの解析があり、その後、参加者からの質問や意見が続きました。
あいにく会場の閉館時間に至って、参加者全員の話までまわらず、私の発言の途中で終了しました(短く話したつもりでしたが、一言も発言できなかった方にお詫び致します)。
市民にとっての科学とは、あるいは科学コミュニケーションとは、ということを「市民」というキーワードで考えてみます。
1 科学好きの市民
神奈川県立川崎図書館は科学技術の専門図書館ですが、数年前からサイエンスカフェを定期的に開催しています。各回毎に話題提供者を変えて、参加者を募集するスタイルです。話題もオーロラ、温泉など多彩で、参加者の質問も科学そのものへの興味が主体となっています。私が参加した時と話題提供者になった時の経験から考えると、どうも参加者は科学ないし科学技術好きな市民で、かなりの割合で科学技術に関わった(あるいは関わっている)方が参加しています。
2 目的を持って講演会に参加する市民
神奈川県西部にある小田原市は江戸時代以降何度も大地震の被害を受けているため、地元の公民館(および県民センター)で4回のシリーズで地震講演会を企画したことがあります。企画者としては、どのくらいの市民が参加してくれるか気がかりでしたが、新聞や自治会などによって市民に伝わり、4回で1,000名を越す参加者がありました。3回が平日の午後だったため、勤め人は少なく、多くが年配者でしたが、実に熱心に聞かれていたのが印象に残りました。自分たちの町と地震の関係を確かめておきたい、という市民が参加したのだと考えています。
3 気楽に参加する市民
前述のとおり、小田原市民は地震に対する意識が高いと思われますが、平日の午後の講演会では主に男性の年配者が参加されていました。もっと気楽に参加できるような時と場があったら別な市民が参加するかもしれないと考え、土曜の午後に駅ビルの喫茶店のオープンスペースを借りて、立寄り自由のオープン、サイエンス・カフェを開きました。地震の話題を話し合おう、ということだけを決めて、数人の研究者が交代で、立寄る市民とコーヒーやお茶を飲みながら話し合いました。中学生や主婦の方々と接する貴重な機会となりました。
4 科学に関心が薄い市民
今までの経験から、本当のところ、多くの市民は科学コミュニケーションどころか、科学そのものにあまり関心がなくなってきたと私は感じています。科学なんて日常の生活と直接のつながりがないか、あるいはとりわけ科学についてわかる必要性がないと感じている市民は多いと思います。なぜそう考えるか、また市民の意識がなぜ変化してきたのかについては別の機会に扱うことにしたいと思います。
5 「市民にとっての科学」の「市民」とは
数少ない経験ですが、私も科学コミュニケーションに関わってきました。しかし結局、私と科学に関心が薄い市民とをつなぐチャンネルは持てませんでした。私はコミュニケーションの相手方である「市民」といろんなチャンネルを持つこと、もちろん科学に関心が薄い市民を含めてのチャンネルを持つことが重要なのだと考えています。現在、教育現場に身を置いていて、市民が科学に関心を持たなくなってきていることと、子どもの理科離れとが直結しているとは断言できませんが、どうも底流ではつながっているのではないかと思うのです。
6 子どもの「理科離れ」
教育現場から見た、たびたび話題になる子どもの「理科離れ」です。
教科書の中で問題ある例です。小学6年生で学ぶ「水よう液の性質」で、突然、「塩酸と水酸化ナトリウムがアルミニウムを溶かす性質をもつ」として登場することです。いくつかの教科書では、塩酸と水酸化ナトリウムが唐突に登場することを緩和するため、リトマス試験紙を先に教え、その後、塩酸と水酸化ナトリウムの性質を学びます。しかし、それでもなお、私の率直な意見は、「突然、日常生活から縁遠い塩酸と水酸化ナトリウムの性質を学ぶということに、もっと親切な導入が必要なのではないか」ということです。私と同じ思いを持っていた教師たちもいて、既に、日常生活でなじみがある、お酢、重ソウなどの性質を実験で確かめてからこの「水よう液の性質」に入るなどの工夫をしています(今回の話から逸れますが、もっと深刻なのは「水よう液の性質」授業で実験観察が必要にもかかわらず、実験観察をしないで済ませている授業が行われている可能性があることです。理科の実験観察は、準備、後かたづけ、安全への配慮および実技が必要ですから、教師の間では面倒だと思う気持ちがあるのです)。
このほかにも教科書に多くの問題点があります。「水よう液の性質」の中からもう一つだけ挙げます。指導要領では「子ども達が予想し、観察し考える理科」という目標を置いていますが、にもかかわらず、教科書やテストでは正しい答え中心主義があり、子ども達の疑問を汲み取ることは教師の力量にのみ、委ねられているという情況があります。教科書には、炭酸飲料を蒸発させるという実験があり、炭酸飲料を蒸発させると溶けていた炭酸ガスが抜けて後には何も残らないという正しい答え(後述するように実際には正しくない)が導かれています。ところが、実際の炭酸飲料には飲んで喜ばれるようにクエン酸などが入れられていて、蒸発した後に薄い白色の物質が残ります。多くの子どもは、教科書で期待されていることと違って「何かが蒸発した後に残っている」と観察していますが、教師は「炭酸飲料を蒸発させるとその後には何も残らない。残ったのは実験が不備だったからだ。」と思う方が普通です。教師が言う正解と子ども達の観察結果とは異なっていて、実験への興味は減退するのです。
そんな子ども達に「現在の科学者がこんなことに取り組んでいる」、あるいは「こんなことがまだわからないのだ、将来、皆さんが解決してほしいと思う」などと話すと、子ども達は目を輝かすのです。理科教育の魅力を取り戻すことは、まだできるのだと考えています。
7市民の科学意識
多くの市民の科学意識はどう形成されてきたのでしょうか?その辺に、市民の科学意識とコミュニケーションのもう一つの解があるような気がします。
最後に私の反省です。約半年前、職員室で帰る支度をしていたとき、私の所に、子ども達に寄り添って1人の先生がやってきてこういうのです。「今、磁石を使ってクリップを磁化し、クリップに釘をつなげたところですが、どのくらいの時間が経つとこの磁石の力が落ちて、釘が離れるのか教えてください」。 よく見ると、子ども達はストップウオッチで経過時間を計っているのです。私は、あ然としました。少しひるみましたが、それでも「少なくとも、ストップウオッチで計る時間ではなく、原理的には半永久、といっても実際には磁力の減少によって釘が離れ落ちるのは、半年後ぐらいになるのではないかと思う。」と言い、磁力の減少の要因を説明するとともに私の考え方も必ずしも正解でないことを話しました。
そしてすっかり忘れていた先日、子ども達と先生がにこにこしながらやってきて「先生、2つのセットのうち、1つの釘が離れました。先生のいわれた半年後になりましたから、もう1つの釘を注視しているんですよ。」という報告を受けました。その後約1か月たって、もう1つの釘も落下しました。
この磁力実験の対応について、私自身は多いに反省していますが、市民と科学についてコミュニケーションするという中で、こんなとき、皆さんはどう応えていかれるのでしょうか?