連載「科学技術コミュニケーションを問う」 第8回 ナノテクノロジーの光と影(その2)

投稿者: | 2010年1月6日

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連載「科学技術コミュニケーションを問う」第8回
ナノテクノロジーの光と影-その2-
ナノテクの光と影に向き合う社会
五島 綾子(サイエンス・ライター)
1.はじめに
ある科学技術政策がメディアで大きく取り上げられる場合は,世間ではよく知られていることであるが,事実上,ひとつの方向にそろって眼をむけるように誘導されてしまう。大方,最初の段階として推進派のお役人,専門家や有力な一握りの科学者たちが,自分たちが重要と考える分野をメディアで語り,トップダウンで巨額の資金を投入する1)。この巨額の資金に産業界,研究資金獲得を目指す科学者,投資家が群がり,一つの方向に向かう。
ところが,さらに看過できない問題が発生してくる場合が多い。巨額の資金が投入されたはずの科学技術政策が社会の大きな期待に沿うような結果がだせていないことがしばらくして明らかになってくる。すると,科学界はもちろんのこと,産業界も議会もマスコミもその事実を確かめ,実際はどうなってしまったのかという検証をさけて,次なる科学技術に軽やかに飛び移ることである2)。私が尊敬しているある私立大学の経営史専門の若い教授は,文科省の科研費のテーマは9割の成果をすでにだしており,研究完成上,最も重要な研究の山場である1割を採択された場合の研究資金でじっくり研究する計画をたて,申請すると言われていた。このような教授の姿勢は稀であろう。見込みで研究資金を申請した研究では,地道に継続していこうという動きは少なくなるであろう。競争にさらされる科学技術だから,過去の失敗をあれこれ考えるより見切りをつけて未来の明日に向かわねばというがごとく,ふりかえることはない。
今回は,かって,狂乱の渦の中にあったナノテクのその後をたどり,ナノテクが光とともに影を抱えることがはっきりしてきた時の産業界,科学界の対応を見ることによって,私たちの果たすべき役割を考えてみたい。
2.ブームの後のナノテクノロジー
アメリカから導入されたナノテクノロジーも,お役人,経済界,有力な専門家,科学者たちがメディアを通して21世紀の産業革命と煽り,ナノテクを巡る狂乱のようなブームが2002年を中心に起きた。この背景には,お役人と一握りの科学者たちが巨額の投資の正当性を伝えるために,納税者である市民にメディアを通して煽り立てる必要があったからだ3)。これがアメリカと同様,わが国のナノ・ハイプ(ナノの誇張)の土壌をつくったともいえる。しかし2003年後半になると,このブームも徐々に冷め,いまやほとんどのメディアがナノテクには無関心のようだ。次なる太陽光発電,省エネの科学技術政策に目がすっかり向けられているようである。
 何故,ナノテクに無関心になってしまったのだろう。答えは明解である。ナノテクに対する期待が語りつくされたにもかかわらず,それに見合う成果が市場にでていないからである。つまり,ナノテクの研究開発が従来の科学・技術を突破できるようなブレークスルーをまだ生み出していないからだ4)。
それでは,ナノテクの研究開発はもうすっかり冷えて遠ざかってしまったのであろうか。あるいは水面下で実は秘かに進んでいるのであろうか。いやむしろ,市場に着実に本物のナノテクが生かされた商品が登場しているのであろうか。この答えを探ってみよう。
3.わかりにくいナノテクコマーシャルの氾濫
 2003年10月の日経ナノテクフェアーにおけるドレクスラーの講演で印象に残った話がある。彼はアメリカでのナノ商品のコマーシャル,”こぼしてもしみがつかないナノパンツ”を例にとって語った。このパンツは,アメリカでは小さなコンピュータを組み込んであって,シミを消してしまうというふうにコマーシャルされていたという。ところが,実際は,このパンツにはナノマシンも超小型コンピュータも組み込まれておらず,ナノレベルの薄い膜で覆われているだけである。このナノ薄膜に水をはじく性質があったからだ。これは単にしかけが水をはじく薄い膜ではないか。これがナノテクの意味するものなのかというドレクスラーの問いかけであった。日本にはこのような世間のナノテクの誤解に対して問いを投げかける有力な科学者は少なかった。
わが国でも,ナノテクブームのピーク時には,ナノテクは何でも解決してくれる道具のような響きがあり,新聞紙上に見出しが躍った。そしてこれに答えるコマーシャルがアメリカをはるかに凌いで消費者の目を奪った。家電,食品,化粧品など幅広い分野にわたり,ナノのついたコマーシャルは枚挙に遑(いとま)がない。
「ナノテク加工により汗じみなどの汚れが落ちやすい,ナノ加工(超撥水・防汚加工),ナノテク除菌,ナノテク・スーパーアレルオフ,ナノチタン触媒とナノプラチナ触媒,ナノテク衛生フィルタ,ナノテクよりさらに1/10の分子の大きさ・・・」などである。
それぞれの効果は,ドレクスラーが語るナノパンツと同様,加工膜の厚さやあるいは粒子がナノサイズレベルということであろう。しかしインターネット上のコマーシャルの説明からは具体的なサイズに関する情報は読み取れない。産業界では「ナノテク」という言葉が,商品のイメージを高める力があるために広く用いられたからである。消費者にとってはいずれも科学的根拠がわかりにくいナノ商品である。そればかりか,市場にはナノクラスター水,ナノジュエリーなど筆者にはより不可解と思われるナノ製品も出現した。ナノテクの研究開発が緒についたばかりにもかかわらず,消費者にはその実態が伝わらないどころか,誤解されたままであった。
4.誇大宣伝のしっぺがえし
本来,ナノテクは,長い時を経て科学者たちが物質とは何かを探り,蓄積してきた分子の知識から導かれた仮説である。ところが,誇大宣伝により真の意味のナノテクをあやしげな意味に変えてしまったようだ。アメリカではこのような状況に対して,有力な科学者たちが舵取りをし,良識的な意見をいろいろな角度から述べ,論争する。M.ロコ,フラーレン発見者の一人としてノーベル化学賞を受賞したR.スモーリー(1943-2005),日経サイエンスでお馴染みのM.ホワイトサイズらが科学界のオピニオンリーダーとして活躍していた。例えば,彼らは,今はまだ,SF社会の中でしか存在し得ないドレクスラー流分子製造に対して公開で激しい論争を繰り広げた3)。しかし,わが国では,科学界にはナノテクの誇大宣伝に警鐘をならし,日本のナノテクの進む方向と現実を伝えるオピニオンリーダーが不在であった。
ナノテクに対する過度な期待は常にゆり戻しとしっぺ返しが必ずやってくる。ナノテクのリスク報道が始まると,たちまち,メディアの過熱も冷え始めた。当然,それに伴い,消費者のナノ商品に対する関心も冷めていった。商品の効果も実感できず,それを支える科学的根拠もはっきりしなければ,いずれ消費者は引き潮のごとく引いていくのは当然である。
一方,このブームの盛り上がりで専門家たちは研究開発費の確保に見事に成功したのである。納税者である市民にナノテクが将来すばらしい技術を生み出し,イノベーションに導いて経済効果をもたらすのだという宣伝が功を奏したのである。科学技術予算の申請書にはなんと”ナノ”の頭文字のついたタイトルが多かったことか。ナノは企業ばかりか,科学者もお金を引き寄せるネーミングとよく心得ていたにちがいない。当時,事業仕分けがあったとして,蓮舫議員がナノはどんな問題を解決してくれる科学技術なのですかと質問したら,なんと答えるのであろうか。
ところが,このような風潮の中でメディアや,それに乗ったかのように思われる市民は,実は大変怖い存在なのだ。答えをすぐに要求するからだ。あれほど大騒ぎしたのだから,はやくお金が儲かる本物のナノテクを生み出してくれと言わんばかりである。ところが,波及効果の高い筋のいい科学技術研究開発であればあるほど,時間もかかるものだが,そんなことはお役人もメディアも世間も理解していない。目的を達成するには,コストはかかるが,常に研究者,技術者のひらめきが最も大切な役目をするからである。
大型予算がついたプロジェクトのリーダーに重くのしかかったプレッシャーはいかばかりであったろうか。
5.カーボンナノチューブ研究開発
5.1 カーボンナノチューブ大型国家プロジェクト
「カーボンナノチューブ(CNT)」は昨年の文化勲章受章者飯島澄男によって1991年に発見された。わが国ではナノテクが導入された時点で,CNTがナノテクの中心に位置づけられた。CNTは炭やダイヤモンドのように炭素からでき,その並び方が特徴的で細長いらせん構造を持つ(図1)。CNTの長さは数mmオーダーと長い場合もあるが,単層CNTの直径は,1nm前後,多層CNTのそれは100 nm以下の何層にも重なった構造をもつ。「軽くて鉄より強靱」「電気を通す」など優れた性質が次々明らかにされ,『ネイチャー』『サイエンス』など一流の国際的な学術雑誌に大きく取り上げられ,世界が注目した。CNTは重金属にはない性質を備えた炭素素材であるために,電子デバイスや燃料電池への応用への期待が一気に高まったのである。
図1 単層及び多層CNTのコンピュータグラフィックス
わが国では飯島澄男率いるナノカーボン応用製品創製プロジェクト(2003-2006年度)が大型ナノテク研究開発として注目された。特に畠賢治(産総研)グループが開発したスーパーグロス法は高品質の単層CNTへの量産化にめどをたてた。
 ところで素材から製品化に至るまでに,以下に示すように,純度の高い原料づくりとその材料がもつ性質を明らかにする第一段階,溶かしたり,膜にしたりする中間処理の第二段階,さらに製品化の第三段階と,三つの過程を経る。
 材料合成       中間処理       商品化への開発技術
[純度の高い単層
CNTの合成と物性研究]
中間処理はナノテクの本領を発揮するステージである。地域の中小企業がナノ炭素材料をいかにして溶かすのかという壁にぶつかり,匙を投げた話が頻繁に伝わってきた。このプロジェクトでも,単層CNTをどのような液体に溶解するのか,あるいはCNTの配列を工夫して薄膜をいかにつくるかが求められた。しかし中間処理も製品化もその厚い壁を克服できなかった。これらの過程には,どんな商品化をつくるかを十分議論し,原料作りの川上から川下に至るまでの異分野あるいは異業種の知恵の出し合いが必要であった。しかし専門家は化学と物理が大半であり,大学型のシステムであったために,具体的な製品のアイディアが乏しかったのかもしれない5)。
川端科学技術政策担当相大臣によれば,「研究開発投資のすべてが成功するわけではない」と。その上で,「課題を必ず克服しなければならない研究開発事業」と「失敗が許される創造的な研究事業」とのバランスを強調した6)。
社会の中で着実に積み重ねられていく科学・技術は優れた研究者たちが地道で,かつ夢中になって追いかけていくものである。したがって極めて長い時間とコスト,研究人員を要するものであり,付焼刃(つけやきば)ではできない。他方,これらの科学・技術に投資された額は,市民感覚では莫大であるケースが多い。そのためには,過去に消えてしまった大型科学技術政策に関しても分析し,納税者である市民に納得のいくように説明する時代にきている。
5.2 わが国でも着実に進むCNT研究開発
 CNTの研究開発はその後,どのようになっていったであろうか。アメリカ,それに続いて日本が追いかけていたが,いまや韓国,中国,EUが猛追している。その結果,CNTの応用研究も多様となってきた4)。
近年,CNTを溶解させる泥臭い地味な実験研究の蓄積により,CNTの溶解の道筋が見えてきた。さらに単層CNTに金属と半導体の両者の性質が混合するという難題も,解決できた。産総研の生物系の田中丈史ら若い研究者が中心になってアガロースゲル電気泳動の原理により分離に導いたのである。この技術により,金属性のものは稀少金属の代替品として液晶ディスプレイや太陽電池パネル用の透明電極への利用が期待されている。また半導体性のものは透明で折り曲げることができる薄膜トランジスタや高感度のセンサーへの応用が期待される4*)。
大阪大学教授松本和彦らは,CNTチャネルによる高感度センサーを開発し,アレルギー疾患診断に応用している4*)。産総研の安積欣志らは単層CNTの電極が電圧により伸縮できるようにし,医療・福祉用途のロボットなどへの期待が高まっている4*)。東京大学工学系教授染谷隆夫らは単層CNTにより電気をよく通しかつ高い伸縮性をもつゴムをつくり,トランジスタを埋め込んで集積回路を作ることにも成功した。電子ペーパーやロボットの間接部を覆うこともできるという4*)。
しかし,世界の研究者も猛追しており,これらの研究開発はまだ市場に直結しているわけではない。
5.3 欧米と日本の企業のCNT研究開発取り組みの違い
 わが国では,現在のカーボンブラックなどの炭素材料の全使用量のうち,多層CNTは60-70トン,単層CNTは0.1トンで,あわせて全CNTの占める割合は0.1%にすぎない6)。CNTは”宇宙と地上をつなぐエレベーター”とまで誇大宣伝が激しかった分だけ,しっぺ返しも大きいのかもしれない。CNTの研究開発は地道に進んでも,製品化の見通しがなかなか立たない状況でメディアが引き,それに追い討ちをかけたのがCNTのリスクの危惧であった7)。
2003年以降,CNTのリスクに関する論文が急激に増加していった。 2008年に国立医薬品食品衛生研究所(国衛研)グループ8)およびエジンバラ大学グループ9)が多層CNTのマウスの腹腔内投与試験から中皮種を確認したとして反響を呼んだ。CNTの形状はアスベストと構造上の類似性があるために,その構造が有害性を決定するという仮説は問題となった。現在,この仮説は有力ではあるものの,研究者の間でまちまちである。また,今のところ,マウスやラットの実験段階であり,体内進入経路が現実的でないという指摘もある。
しかしこのリスクはメディアにより大きく報道された。その上,2008年2月に厚生労働省は,CNTの作業現場における環境,健康,安全に対する取り組みや危機管理をうながした。企業の目には,アスベストの二の舞を恐れたかのように映ったのかもしれない。結果的に,大企業も含め,企業のマインドは急激に冷え込んでいった。企業はブームによる消費者の熱い関心が一転して不安に変わり,商用化に重大な影響を与えると判断したようだ。
では海外のCNT製造企業はいかなる対応をしているのであろうか4*)。
EUに本拠を持つ3大CNTメーカーBayer社, Nanocyl社,Arkema社は欧州CNT工業会をつくり, EHS (環境・健康・安全)への取り組みと社会への情報発信を行っている。一方,Bayer社ではすでにスポーツ用品,風力発電用の大きな羽や自転車のフレームなどの応用に積極的に取り組んでいる。しかも日本の企業と大きく異なることは,CNTと混合して作った材料の安定性や暴露についてホームページや国際学会でその取り組みを公表していているのである。わが国の企業の秘密主義はもはや国際的に通用しない段階にきているのだ。
アメリカのDuPont社は,ナノ材料のリスク評価・管理に関する技術指針を環境NGOと共同開発し,自社で製造・使用するすべてのナノ材料に対して適用することにしている4*)。このフレームワークはだれもが閲覧・ダウンロードできるようにしてある。消費者はきちんととした情報が公開されていれば,安心するものであるという考え方が基本にある。
6.日常生活にひろがるナノテク
6.1 ナノテク産業そのものは生まれていない
今や世界最大となった「nano tech 2010」が今年2月に東京のビッグサイトで開催される。昨年はヨーロッパやアジア各国がブースをだすその中で,産総研,理研などの若手研究者による優れた成果が展示された。また,地方では大学と周辺の中小の企業が連携して産業クラスターを形成し,着実にナノ材料を中心とした技術と製品が広がっていた。これらを支えるナノスケール画像装置やナノ材料の計測機器などを開発している企業やナノ材料の製造・分散機器の産業もしっかり根をおろしていた。図2はアメリカのナノテクを先導するロコらのナノテクの未来の発展を三ステージに分けて示したものである。明らかに現在の市場は第一ステージに,さらに研究開発では第二ステージに入りつつある。
しかしアメリカの産業界側はブレークスルーとなるようなナノテク製品発表に至るシナリオが見えないばかりか,市場はリスクも懸念されるナノ材料と失望を隠さない。『ナノ・ハイプ狂騒』の著者であるベルーべは,この点に関してビジネスの世界ではナノテク産業が広い応用にまたがる収益を生み出す可能性を理解していないとし,IBMの例をあげて,長期的な研究開発の5割をナノテクに割き,ナノスケール画像装置やその計測に力を入れていると強調する。
図2 ナノテクノロジーの発展プロセスの予測
6.2 ナノテクは生活に根づき始めている
ナノテクはナノサイズの範囲で新しい機能を見出そうとする科学・技術である。ナノカーボンや金属ナノ粒子のサイズや組成を制御して極限の性質をもつ材料の実用化が進めば,省エネにつながるばかりか,生産プロセスに大きな変革をもたらすというものである。これらはオバマ大統領のグリーンニューディール政策と融合し,太陽光発電の分野などの研究開発を推進していくという。したがって,ナノテクは様々な産業の製品の改良または強化するナノテク周辺企業を生み出すのである。産総研の南信次は,最近,Web Journal10)でナノテクの基本的枠組みをスキームで表した。ナノテクという研究分野の特質としてナノテクは産業技術の幅広い基盤を成すものであるが,その研究成果が産業界・社会で最終製品として,直接目に見える形で利用されるケースは少ない。しかし幅広く活用される新技術の「縁の下の力もち」的な存在がナノテクであると強調している。現実にこのようなナノテクの広がりが日本でも認められる。
東京大学I2TAプロジェクト,Team”NanoGreen”は,その広がりを認めつつ,光と影の社会的影響の予測に挑戦している。 2009年11月8日に開催された”テクノロジー・アセスメント:未来の住宅へのナノテク利用”がそれであった。I2TAプロジェクトリーダー鈴木達治郎は,科学の潜在的可能性を信じつつ,その負の側面をどう防いでよいかという問いに対峙しているという。ナノテクが発揮する物理的及び化学的原理に基づく優れた機能を利用した住宅関連の製品を調査している。それらが「光・熱・電気などのエネルギー分野」,「水・空気・壁」,「音」や「センサー」の分野に確実に広がっている実例をつかみつつ,生活への影響と生活者の受け止め方まで考察を深めている11)。I2TAプロジェクトの今後の成果が楽しみだ。
7.ナノリスク研究
ナノ材料の毒性問題はむずかしい局面を迎えている。ナノ材料に期待される性質が逆にその毒性を上げる可能性もあり,新しい優れたナノ材料は同時にリスクの面を常に注視しなければならないからである。
まして被膜された人工ナノ材料や粒子は安定に存在する可能性も高く,その毒性は未知だ。ナノ材料はサイズ,形状など様々な因子に違いがあるために,環境及び健康への影響は材料ごとに評価される必要があるとしている。ナノ毒性研究者のコルビンも、ナノ材料製造の労働者の暴露は短期的な懸案事項とし,長期的には水,土壌を通じて生態系全体が人工ナノ材料に暴露される可能性を示唆している3)。ナノ材料のリスク評価モデルの開発は世界の急務である。わが国はナノテクの研究開発への莫大な投資とともに,リスク研究への投資も怠らない点で,先進国の役割を果たしている。
NEDOプロジェクト「ナノ粒子特性評価手法の研究開発(2006.6-2011.2)」の中間報告が中西準子プロジェクトリーダーによりなされた12)。わが国では最もポピュラーな二酸化チタン,フラーレン,CNTのリスク評価書の作成を目指している。この中間報告においては,ゴールを目指してまずナノサイズであればなにが起きるかという問いから出発している。
① ナノサイズで新しい機能があるのであれば,生体系でも新しい反応が起きるのではないか。あるいは量子効果と関係する反応があるのではないか。
② サイズが小さいことは,比表面積が大きく,粒子の数が多くなり,生体のあらゆるところに移動して反応しやすくなるのではないか。
③ サイズがウイルスに近いために,生体の中でウイルスと同じ防御反応の可能性やあるいは大量のナノ粒子によりウイルスの防御機能が破壊される可能性はないか。
④ ナノサイズ故に,生体組織との相互作用が起きやすくならないか。
⑤ 粒子の残留性はどうか。
⑥ 繊維状のものはアスベスト様の効果があるのではないか。
過去の科学者たちが経験してきたことから,粒子が小さいことから起きる可能性と,粒子が繊維状から起きる可能性の両面から捉えようとしている。実際の実験現場では,研究者たちは泥のような粉を分散し,一定の大きさにそろえ,動物実験を幾度となく繰り返し,そのリスクの再現性を得るために格闘しているにちがいない。
このプロジェクトでは,有害性試験の選択については,二軸アプローチ的方法をとっている。横軸には,ラットを用いたin vivo試験を行い,ラットについての吸入暴露の無毒性量をだすことを目的としている。縦軸はラットの気管内投与により,限られた時間,限られたデータの制約下で設定した定量式をもとに全地平を探ろうとしている。最終的にはヒトへの無毒性量を推定し,作業環境における許容暴露濃度の目安を求めようとしている。その詳細はインターネット13)で読むことができる。現在のところ,短期的に作業現場での酸化チタンに関しては許容暴露濃度の目安の値の提案,フラーレンは参考値の提案を行っている。この中間報告では,事業者が取り組みやすい暴露対策を示し,経済的な方法でリスクの低減を促している。
8.専門家不信の時代に
 ナノテク導入時は,日米欧は国を挙げてナノテクなしでは未来はないと煽り,一斉に各国,競って莫大な予算をつけ研究開発がスタートした。その中で,比較的冷静だったのが英国であった。産業革命以来,一歩先んじて進んだ技術立国は,科学技術には光とともに影を伴うことを経験してきており,いち早くナノテクのリスクに警鐘をならし,技術の光と影を管理する社会科学系研究者の養成に乗り出した。アメリカの状況は『ナノ・ハイプ狂騒』3)に詳しく書かれているが,ナノテクの光と影の管理に予算もつき,少しずつ研究も進んでいる。ドイツはどうかというと,ナノテクを研究しているドイツの化学哲学者との個人的な話の中で,「日本と同じだよ。お役人と一部の専門家が踊り,笑ってしまったよ」と冷ややかであった。しかしドイツではいくつかの酸化チタン製造メーカーが共同体をつくり,リスクの情報交換やリスク対策に力を入れ始めたことが昨年のナノテクフェアーで伝えられた。日本の酸化チタン企業も仲間に入れてもらう予定だと意気込んでいた。
ナノテク政策導入時には,莫大な研究開発予算がついた。さらに欧米とはやや遅れたものの,リスク研究とナノテクの社会受容についても予算がつき,ナノテクを推進していく先進国としての責任も果たしている。しかし先端科学技術政策の導入時には,推進派の科学者は光の面だけを強調するのではなく,予想される影の可能性も伝える必要がある。しかも議論は見えるようにしたほうがよい。現代は多くの分野で専門家不信の時代なのである。背後にメディアの影響があろうが,市民の高い意識がある。このままでは,市民は専門家に対して不信を増すばかりである。一方,科学研究は高度で複雑な段階に入り,確かな成果を出すには時間がかかる。その上,研究開発の段階でリスクの懸念が出てきたときに,専門家は市民からの信頼やコミュニケーションがなければ,長期的な研究は続けることができない。
ではナノテクを巡る専門家への信頼を増すにはどうしたらよいか私なりの意見を述べたい。
私は昨年,ナノテクについて関心の高い市民から質問を受けた。「なぜナノテク研究開発者は,研究会で一言もリスクに関して触れないのでしょう」「ナノリスク研究者はナノテクの研究開発についてどのような考え方を持っているのでしょう。推進してよいと考えているのか,それとも全面禁止を願っているのでしょうか」。この指摘は,とても重要である。決め手のブレイクスルーを示すことができないナノテク研究者,ヒトへの影響を示すにはまだ時間を要するリスク研究者。彼らが誠実な科学者であればあるほど,不確実な科学を語ることは控えるかもしれない。しかし,研究開発者もリスク研究者も社会に対して自分のナノテクに対する意見を発言しないことは,一方では,専門家の責任が問われることにもつながる。
リスク報道がでてきた頃は,ナノテク研究者から研究開発がやりにくいと嘆く声が聞かれたが,彼らがリスク情報をどのように考えているか筆者にも見えにくかった。しかし研究者はリスクを考慮しつつ,ナノテク研究開発を進めていくのであれば,技術開発の段階でリスクを防ぐアイディアもでてくるに違いない。最近,興味深いナノ粒子の成果が報じられた。京都大学古屋仲秀樹准教授と上田義勝助教らがナノサイズの二酸化マンガン粒子を固めて水素ガスを計測できるセンサーの開発に成功したのだ。フッ素樹脂などを用いた従来の方法より1/1000以下のコストで耐熱性も高いという6)。金属ナノ粒子が将来発展する可能性の高い水素自動車の安全性を担う可能性を示しているのである。
リスク研究者は,まだリスクに対する結論がでてない段階で,ナノテク研究開発推進をコメントしづらいであろう。しかし欧米もアジアもナノテクの科学・技術を産・官・学が積極的に今でも取り組む中で,彼らがナノテクの社会受容をどのように考えているのか,本当のところを知りたい。なによりも,リスク研究者と研究開発者が一堂に会し,率直に議論することによりリスクを乗り越えていく道筋を見せてほしい。研究者の夢と市民の健康を守るリスク研究者との意見交換は研究の視野をひろげ,市民も一緒に考えることができよう。最近,リスク研究者がナノテク研究開発を念頭にリスクを低減する技術への提案も生まれつつある。若い世代の専門家は世界を見ているはずだ。日本の科学界も,理系の大学・大学院教育に科学技術社会論,科学技術史を取り入れ,長期的・戦略的視点から先端技術の普及を考える若い専門家を育てる時期に来ているのではないだろうか。
9.おわりに
ナノテクを使った製品が私たちの生活に確実に入り込んでいる。したがって,専門家たちにナノテクの光と影を同時に明らかにしていくことが今,問われているのだ。それに答える動きのひとつにナノ材料の標準化の動きが世界的に加速している。標準化とは,品質,安全性,さらには試験法といった製品に関する国際的取り決めである。例えば,ナノ材料は,つくりかたや試験法によって性能もリスクの程度も異なってくるために,それらを統一的に理解し,取り決めようとするものである。日本はナノ炭素材料に力を入れている。科学的なデータに基づいてナノテクの社会受容を判断する重要な取り組みである。
しかし,市民も今,問われている。20世紀半ば以降の大量生産・大量消費の時代から抜け出し,私たち社会は新しい価値をもった世界をいかにつくるかが問われているからだ。生物多様性が失われていく自然破壊の現実を目の前にし,私たちはどのような生活の質をもって満足すべきかが問われているのである。それぞれの場面でどんな生活をしたいのか,つまりどんな技術を選び取るのか,それは私たち市民が主役となって決めることであるからだ。一方では,ナノテクは光と影の不確かさを乗り越え,ある見通しが得られるまでに,かなりの時間がかかることは間違いなさそうである。この点の理解も市民にとって重要だ。
そして市民科学研究室は専門家と市民をつなげる重要な役割が今,求められている。
引用文献
1)滝順一,日本経済新聞,2010年1月10日
2)松本三和夫著,『知の失敗と社会』,岩波書店,2002年
3)D.M.ベルーべ著『ナノ・ハイプ狂騒―アメリカのナノテク戦略―』,五島綾子監訳・熊井ひろみ翻訳,みすず書房,2009年
4)五島綾子・栁下皓男,「ブレークスルーは予測できないーナノテクノロジーの場合―」『化学経済』2009・10月号,20-28
4*)4)の文献に原著論文が記載されている。
5)a)A.Goto, T.Yagishita, and A.Takenaka, Study of R&D Progress of CNTs in Japan: Viewpoints of Nanotechnology Boom and Risk Perception,NSTI-Nanotech,1,597-600(2007);b)五島綾子,竹中厚雄,栁下皓男,日米におけるナノテクノロジーの解釈と研究開発の相違-カーボンナノチューブを事例にして-,『科学技術社会論研究』,6号,38-54(2008)
6)日本経済新聞,2010年1月11日
7)I2taグループ,多層カーボンナノチューブに関するリスク評価・管理の最近の動向,技術の社会的影響評価,TA Note 01,2009年3月
8)C.A.Poland, R.Duffin, I. Kinloch, A.Maynard, W.A.H. Wallace, A. Seaton, C.Stone, S. Brown, W. MacNee and K. Donaldson, Nature Nanotechnology, 3, 423-28(2008)
9)A. Takagi, A. Hirose, T.Nishimura, N.Fukumori, A. Ogata, N. Ohashi, S. Kitajima and J. Kanno, J. Toxicological Sci., 33, 105-16(2008)
10)南信次,ナノサイクルと二つのコヒーランス,Web Journal,102,ナノテクノロジー増刊号,2-7(2009)
11)I2taグループ,技術の社会的影響評価,TA Note 01,2009年8月
12)産総研 安全科学研究部門,中西準子,ナノ材料リスク評価書策定に際しての考え方,中間報告版,2009.10.16
13)http://www.aist-riss.jp/
参考文献
1)M.ステフィック,B.ステフィック著『ブレイク・スルー』,鈴木浩監訳,岡美幸,永田宇世共訳,みすず書房,2006年
2)五島綾子著『ブレイクスルーの科学』,日経BP社,2007年.
3)F.ダイソン著『科学の未来』はやしはじめ・はやしまさる共訳,みすず書房,2006年.
4)E.ロジャース著『イノベーションの普及』,SE社,2007年
5)中井豊著『熱狂するシステム』,ミネルバ書房,2009年
6)中西準子著,『環境リスク学』,日本評論社,2004年
7)松本三和夫著,『テクノサイエンス・リスクと社会学』,東京大学出版会,2009年
8)J. Schummer and D. Baird, Nanotechnology Chellenges, World Scientific,2006

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