【書評】 『もう牛を食べても安心か』

投稿者: | 2004年9月4日

評者:上田昌文
福岡伸一 著
『もう牛を食べても安全か』
(文春新書 2004)
 米国産牛肉輸入の再開に向けて日米政府間の交渉が続いている。両政府は安全度の高い若い牛から牛肉貿易を再開することで基本合意しており、現在は牛の成育月齢の確認方法をめぐり専門家同士の詰めがなされている、と報じられている。全頭検査を「非科学的」だとし「輸出再開は、常識を伴った科学を基に決められるべきだ」と”科学”を振りかざす米国の姿勢が、じつは露骨なくらいに”政治的”であることは、誰の目にも明らかだろうが、ではBSE(狂牛病)のリスクをどうとらえて対処していくことが科学的なのか、と問われれば、おそらく大半の人々は答に窮するだろう。だが、ここにその判断の糧を与える簡潔ながら明快な一書が現れた。
 この本には著者が分子生物学の研究者だからこそ持ちえる説得力がある。「生命体と環境との間の絶え間のない分子の流れと平衡(生命体はその流れの中の作られる緩い”結び目”)」という原理を礎にして考察の網の目を張り、研究の現場に身を置く者の臨場感を随所ににじませている。
 現代の生命像にコペルニクス的転換をもたらした「動的平衡」の概念は、今では忘れられた生化学者シェーンハイマーが創りあげたものだ。著者は「なぜヒトはタンパク質を食べ続けなければならないのか」「消化するときに何が起こっているのか」という、ものを食べることの根本的な意味と仕組みを、シャエーンハイマー復権の意図も込めつつ、動的平衡から説き起こす。そこから鮮やかに導かれるのは、”できるだけ遠いところのものを食べよ”(カニバリズムの禁忌)の教えの合理性であり、狂牛病がいかにして消化機構をすり抜けたかの推理である。英国では、生後間もない時期の本来ならば母乳で育つはずの子牛に、肉骨粉を水で溶いた代替飼料を与えていた。生物はその発達の過程で最も侵襲を受けやすくなる時期があり(「脆弱性の窓」)、その時期に子牛たちが一斉に病原体の侵攻を受けたと考えると、英国での発病牛の発症分布がよく説明できる。
 「動的平衡」による生命の連鎖、ならびに発達プロセスにおける「脆弱性の窓」の存在――この2つの概念が力を発揮するのは何も狂牛病問題に限らない。臓器移植がなぜ生物学的には非常な”蛮行”なのか、遺伝子組み換え食品の評価を「実質的同等性」(成分や急性の毒性を比較すると非組み換え食品と何ら変わらない)を根拠にすることはなぜ誤りなのか、赤ちゃんの離乳のタイミングを前倒しにすることが食物アレルギーやアトピーの引き金になりえるのではないか、といった問題が射程に入ってくる。
 全頭検査に対する著者の立場は明確である。精製あるいは人工合成した異常プリオンタンパク質を他の個体に接種しても発病しないことが端的に示しているように、プリオン仮説は完全であるとはとても言えない。感染ルートや(米国も含めて)汚染の規模も不明のままである。病原体の性質から考えて特定部位にだけ病原体が限局されるという見方を崩す実験データも現れてきている。最終章で著者が展開する「全頭検査は十分に科学的である」ことの論拠は、今だからこそ多くの人に注目されるべきだろう。
 プルシナー(プリオン仮説提唱でノーベル受賞)の計算高い野心を描いたポートレイトポート、病原体検出方法の分かりやすい解説、「狂牛病」を「BSE」と言い換えることへの違和感への表明など、読み応えのあるエピソードやコラムも見逃せない。清新なスタイルの科学評論の登場を歓迎したい。■
(上田昌文、『週刊読書人』所収)

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