市民科学研究室がめざすこと

投稿者: | 2008年9月4日

上田昌文(市民科学研究室・代表)
 市民科学研究室は、、現在まで代表を務める私が、東京・自由が丘で定期的に利用できる活動スペースを得て1992年7月に始めることとなった科学と社会を考える土曜講座が母体となっています。拠点はその後、西新宿、さらに本郷に移りましたが、この月1回の市民向けの講座に集った人たちの何人かが核となり、次第に組織的な運営がなされるようになました。2003年からは名称を市民科学研究室に改め、2005年からはNPO法人化して現在にいたっています。
 
 発足時は、欧米で生まれたSTS(科学技術社会)という取り組みが日本に紹介され始めたばかりの頃だったと思います。ただ、そんな事情とは無関係に、 1980年代の半ば頃から、当時学生であった私自身は、日本企業によるアジアでの”公害輸出”や核・原子力問題にかかわる市民運動に足をつっこみ、宇井純さん(1932~2006)の謦咳に接したり、同じく高木仁三郎さん(1938~2000)ら原子力資料室のスタッフの方々とも共に活動する機会があったり、という具合でしたから、「科学技術をどうにかして自分なりにとらえなおして、世の中の問題の解決に役立ててみたい」という気持ちは、一方で生物学の専門家をめざす途につきながらも、自分の中で醸成していたのだと思います。大学で科学史や技術論や社会学を学び直すという選択もあり得たのでしょうが、それにはどことなく違和感を覚えていました。「一人の市民として、取り組み方そのものも皆で一緒に考えながら、いろいろなことを試し、その結果をみてまた考えて作り直していく……」というようなスタイルが必要で、それを可能にするのは、専門的知識・技能のあるなしよりも問題意識の共有をこそ重視する、小さな規模での開かれた議論と共同作業ではなかろうか、という直覚が私にはありました。
 
 10人も集まれば手狭になる小さな部屋での”講座”を出発点にしたこの活動は、今年で16年目を迎えましたが、さてその当時の直観はどれくらいに時勢を見はるかすものだったのでしょうか。
 
 市民科学研究室という小さな規模のNPOは、専門分化が著しくその全貌をとらえるのがますます困難になってきている科学技術を、どうにかひと掴みにしてとらえようと模索してきたと言えますが、これはある意味では無謀な試みです。個々のプロジェクトや調査研究チームがそれなりの成果を上げても、NPO全体として結局何をやっているのか、今ひとつ伝わりにくく、具体的には会員や支援者の増加もいまだにままならない状態が続いているのは、その無謀さがもたらすネガティブな一面でしょう。でもたとえば研究会に参加してみればたちどころにわかるように、世代や男女や立場の違いを超えて、活発で刺激的な議論が交わされ、「まだ気づかれていなかったり、十分に議論されていない重要な問題をとりあげ、科学技術と市民とのあるべき姿を思い描きつつ、自ら考案したアプローチで解決に向けて動き出す」ことの現場が、確かにそこに存在するのを感じていただけるでしょう。
 
 「何のための、誰のための学問研究か?」「専門家でない者にも専門的なことがかかわる事態を変えていく力があるはずだが、それはどう発揮できるのか?」「技術の進歩に翻弄されない、でも技術の進歩を頭ごなしに否定するのでもない、より賢いつきあい方や育て方はできないだろうか?」……市民科学研究室のめざすものは、こう表現してみれば、ごく単純で明快であることがわかります。ただ、こうした課題を実現する決まった手はずがあるわけではなく、誰かに答を出してもらえるわけでもない、という点がやっかいなのです。そのやっかいなことに、あえて挑もうとするところに、私は、21世紀を生きる市民の真骨頂があると思っています。根源的な問いを手放さず、仲間と一緒に歩みをすすめること自体を楽しみながら、よりよく社会を変える主体たり得ている市民――これからも市民科学研究室のささやかな歩みをとおして、仲間とともに、そうした市民の一人であることをめざしたいと、私は願っています。■
(『市民科学研究室 年次報告書2008』より)

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