書評『美容整形と化粧の社会学』
(谷本奈穂・著/新曜社2008年)
評者 平山満紀(江戸川大学教員 身体論・社会学)
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現代人にとって身体の外見は、アイデンティティに直結する重大事である。痩せたり、筋肉をつけたり、ピアスをする、化粧をする、髪のカラーを変える、プチ整形をする…さまざまな方法で身体を変えることで、多くの人は自分のアイデンティティを形成したり維持したりしている。
このような現状にも関わらず、現代の身体加工についての社会学的研究は、特に日本ではこれまでほとんどなされておらず、ジャーナリスティックな記述や、事実認識よりも賞賛や批判など価値評価に偏る議論がほとんどだった。その中で、理論と実証の両面から、現代の美容整形と化粧の現象を捉えて分析する本書の意義はたいへん大きい。日本での数量的調査、整形実践者へのインテンシヴインタビュー、明治以降の化粧品広告6000点余の分析をおこなった上に、付論として韓国、台湾、ドイツの整形実践者へのインタビュー調査による国際比較の分析もある。たいへんな労作だと思う。
現代人はどんな理由で身体加工一般(髪のカット、眉を整える等々)をおこなっているのだろうか?また、美容整形をしたい人はかなり多い(大学生の調査で男性24.5%、女性63.1%)のだが、どんな理由でしたいと思っているのだろうか?これらについての著者の調査は、おおかたの予想と異なる結果で、発見的価値が大きい。
身体加工一般についても、美容整形についても、男女とも「自己満足のため」「理想の自分に近づきたいから」が圧倒的に高く、これまで語られがちだった「劣等感を克服したいから」「異性にもてたいから」という理由はあまり高くないのである。最近多い、美容整形やヘアメイクなどによる変身を見せるTV番組などでは、実践前の劣等感や、異性にもてなかった体験など、不幸が強調されるが、そのストーリーは少数派のものだとわかる。現実には、外見をほめられるのに外見を変えたい人が、とくに女性には多いのである。
さらに、美容整形を経験した女性たちへのインタビューから、「自己満足」を動機の語彙として選ぶ、現代人のアイデンティティのあり方が、より詳細に捉えられて興味深い。
整形しても周囲の人たちに気づかれないという人も多いし、気づかれなくても自分が嬉しければいいという人が多数派である。また、整形前の自分の顔に違和感をもっていた、整形して違和感のない本来の顔になれた、と語る人がほとんどなのである。整形前の顔に「まぶたがかぶさって視野が狭い」「目があきにくい」などと違和感を感じ、そのために自分を好きになれずに暗い気持ちになっている、といい、整形して「今まではウソっこだったのが本当の自分になったって感じですね。」などと違和感がなくなり、すぐに整形後の顔になじんで、明るい気持ちで顔を上げて歩けるようになったなどという。外見と結びついたアイデンティティのあり方には、誰もおかしいと評価しないのに違和感を感じさせる「想像上の他者」と、本来こうあるべきだという内化したイメージである「想像上の自己」が強く働いているとわかる。
考えれば私たちはみんな、写真を撮られるとき、普段よりもよい顔や外見をしようとする。よい顔に写らなかった写真は捨てて、よい顔の自分の写真だけを残す人もいる。そうして外見についての自己像を描くのだから、誰にとっても「想像上の自己」は、現実とは異なり、多くの場合現実よりよいものだろう。
外見についてのコンプレックスが、他者から笑われる、といった現実にもとづくよりも、内面化された「想像上の他者」との自己内対話で形成されていると明らかになったのも意義深い。これによって、「劣等感」の構造自体が、従来の捉え方では違っていたともわかる。
著者はこのように、インタビューの語りから現象学的に、外見と結びついた現代人のアイデンティティのあり方を描いており、価値自由な研究の姿勢、インタビュー力、複雑な現実を読み解く分析力のどれも優れていると感じた。
さて、「想像上の自己」「想像上の他者」を支えるのは、外見や美容に関する、商品化したモノ・技術・テクノロジーであると、著者はさらに分析していく。「アイシャドウ」がよく乗るように二重まぶたにしたい、「ぴったりしたニット」が着られるように豊胸手術をしたいと、あるべき自己像がモノにあわせて作られる。のりで二重まぶたを一時的に作る「アイプチ」を高校時代に試して「二重っていいな」と自己像が作られる。映像技術はまた、身体を「部分として観察可能」なものに変え、そのことは、身体の部分を部品として加工可能なものへと、意識を変える。
ここで、近年科学論で注目される「アクター・ネットワーク理論」に著者は言及するが、市民科学研究室のメンバーも特に関心をひかれる議論かもしれない。科学のアクターは人間だけでなく、モノや技術、社会制度なども同等のアクターとして不可分にネットワークをなしている。そしてそのアクターはネットワーク上ではじめて行為を発揮するエージェンシーだという議論である。現代人のアイデンティティも、アイプチ、アイシャドウ、ファッション、雑誌メディア、整形技術などのアクターとともに生成していると言えるのであり、「メディアによって身体加工を強いられている」「技術が侵入している」と、人間だけ独立させて中心に置き、そこに技術が介入するような発想はふさわしくないと言う。これは、アイデンティティの現状を捉えるにはある程度有効な考え方だと思う。
それについてさらに評する前に、明治時代から現在までの化粧品広告の分析をみてみよう。変化として、まず1960年以降、美しさが「顔全体の造作や肌」のみから、広告の約半数が「目、唇、頬、眉」などの部分に照準するものへと変化している。つぎに明治以降一貫して「あこがれ」よりも「身近さ」の要素が強くなり、また、80年代以降に「自然性」よりも「科学、医療、テクノロジー」の要素が強くなるのである。最後の点は、80年代以降バイオテクノロジー、ハイテクノロジーなどが発達して話題になったことと関連し、化粧品広告にもバイオ技術で生産された「ヒアルロン酸」などの薬剤の名称が前面にでるようになる。
化粧品広告の変化は、美容整形への社会的関心の変化とまったく軌を一にしている。80年代以降、雑誌メディアには美容整形の記事が急増しているが、それらは身体のパーツに繰り返し関心をむけてパーツを変えることの重要性を説き、また医学書かと見まがうほど専門用語を多用し、整形がごく身近なことだと説くようになっている。
このような化粧品、美容整形の広告、雑誌記事やTV番組などに囲まれた社会環境では、人は身体の外見を意識せずにいられず、それらに囲まれての「一度試してみたい」という行為、「まぶたが重い」という感覚などとしてアイデンティティがあると著者は論じている。
現代の「見た目依存社会」の「社会的強制力」を批判することの重要性を認めつつも、それを括弧に入れることで、著者は実践者たちの意識を詳細に描くことに成功した。さて、私たちはその成果を享受しつつ、身体に対する現代人の意識の独特の偏りと、それをもたらす社会的強制力を指摘しようと思う。
まず、映像テクノロジーの発達が「目、唇、頬、眉」などのパーツへの注目をもたらし、現代人はパーツの変工にとらわれがちになるが、身体をパーツの集まりと見る身体観は、身体の本性に反した、無理の大きなものである。たとえば頭部は、気持ちが停滞して詰まると顔面部が収縮して後頭部が広がり、気持ちが発散して流れがよいと顔面部は広がり後頭部が引き締まる。顔面部が収縮する前者の場合、表情としては、眉根に皺が寄り、口は尖り、口の周りに皺が寄りやすい。顔面が広がる後者の場合、表情としては、眉根が開き口元はゆるんで皺が伸びる。こういう全体の動きを無視して眉根の皺だけを伸ばすようなことが整形手術ではおこなわれるのだが、それは、たとえある程度成功したとしても、身体の全体的なあり方から意識をそらさせる空疎な営みではないか。
評者は「活元運動」…くしゃみ、咳、発熱、寝返りなどの、不随意運動。自己治癒力の発揮であり、その運動を促すいくつかの呼吸などによって、非常に活発に発現する…をいろいろな方達と共に行ってきたが、寝返りや貧乏ゆすりのような活元運動が盛んに出たあと、みな一様に、洗われたような綺麗な顔になり、本当に美しくなる。100キロを超えた肥満体の人で活元運動を始めてから30キロくらい減量した人もいる。直接見たのではない伝聞だが、活元運動を始めるとどうしても自分の手が自分の顔にくっついてしまった人があり、それを繰り返しているうちに、非常に人相の悪かったその人が、とてもいい顔に変わったという。一方で、活元運動により、身体にとっての異物は排出されやすくなる(肺に入って炎症をおこしていた食べ物が飛び出てくるなど)が、豊胸手術で入れたシリコンが排出口をもとめて背中に回ってしまうなど、笑えるような現象も起こる。
私たちはこういう、生きた、全体としての身体を与えられているのであり、その能力や美しさから目をそらしながら、身体の部分にとらわれ、モノのように思い通りに変工できると思うのは、やはり大きく勘違いをした身体観である。
活元運動が十分出た後は、世界全体が美しく爽快に見え、自分に注意を向けるようなこだわりはなくなってしまう。それと比べると、自分への違和感、自分を変える行動にたえず注意を向けているアイデンティティのありかた自体、やはり自分という牢獄への捕らわれとも言わざるをえない。
人間はモノ、技術、社会制度のアクター・ネットワークの中に生きてアイデンティティを生成させているのが現状であるが、原理的にはそれとは別次元の、生命的なネットワークの中で生命現象をおこなっていることも決して忘れてはならないだろう。その別次元の存在基盤を考えると、やはり人間は他のアクターから独立したエージェントといえるし、「メディアによって身体加工を強いられている」「技術が侵入している」と捉えることも、なお妥当であろう。
プラスティックな…形を造る・思い通りの形に作れる・人工的な・形成外科の…身体観とそれに基づいた美容法に対置させて、生きた、全体としての身体観と活元運動に基づくような美容法を私はこれからも示していきたいとも思った。■