「火育」について

投稿者: | 2008年9月4日

上田昌文
 あなたは囲炉裏(いろり)を使ったことがありますか? 昭和30年代頃までの日本では、たいていのいなかの家屋には竈(かまど)、火鉢、囲炉裏がありました。部屋の中央に置かれた囲炉裏は、炊飯をはじめあらゆる煮炊きが行われ、灰の中に食材を埋めて焼くこともあたりまえでした。くべた薪の残り火を翌朝までもたせ、真っ白に見えていた囲炉裏の中の一角に息を吹きかけるともう一度炎が燃えさかる――そんな技のおかげで、家からは火が絶えることがなかったと言います。囲炉裏は、安全に部屋を照らすことのできる照明であり、衣類・食料・生木などの乾燥にも、火種にも使われました。薪を燃やすときの煙に含まれるタールの成分が建物全体の防虫性や防水性を高めていたとも考えられます。今なら炬燵を囲んでかろうじて成り立っているであろう、家族そろっての団欒の場でもありました。
 家の中の「火」に長くなじんできた私たちですが、では私たちは「火」そのものについてどれくらい知っているのでしょう? 改めて次のようなことを尋ねられると、答えに窮する人が多いのでは?
 芯を抜き取ったロウソクに火がつかないのは、なぜ? 周囲に火の気がなくても、使用済みの油を大量にたとえば新聞紙などに染みこませてゴミ箱に捨てて蓋をしておくと、自然発火することがあるのは、どうして? 木炭が煙や炎がほとんど出ないまま長時間燃え続けるのは、なぜ?……
 これらに答えるには、”燃焼”(物が酸素と結びつく際に発熱と発光をともなう激しい酸化反応)がどういう条件で起こるのかを知らなくてはなりませんが、じつは、火の使用の始まりが石器時代にまでさかのぼれるのに比べて、「火って何? 燃えるって何?」という疑問に答えられるようになったのはぐっと時代が下って18世紀なのです(「酸素」の発見が1772年)。燃焼のメカニズムの解明を手がかりに、その後、人類が様々な内燃機関を発明してエネルギー利用を大きく拡張し、工業文明を築き上げたことは周知のとおりです。今では、エアコン、床暖房、自動給湯、電球や蛍光灯、ガスレンジや IH調理器などのワンタッチの機器がかつての「火」に取って代わりました。環境汚染を理由に焚き火も容易にできません。オール電化住宅にいたっては、安全とクリーンを掲げた、完全に「火」のない生活を謳っています。今ではマッチを擦ったことのない子ども、土鍋で煮炊きをしたことのない大人は珍しくありません。しかし、「火」を生活から次々に閉め出していくという選択は、私たちにどこか違和感を抱かせないでしょうか?
 火は、火災という大きな厄災をもたらす恐れを常に秘めているものの、危険な獣と闇と寒さと飢えから人間を守ってくれるこの上ない恵みでした。厄災を阻みつつ最大限に恵みを引き出そうと、人類は長い歴史をとおして工夫に工夫を重ねてきました。竈(かまど)や暖炉や囲炉裏は家庭での、冶金や窯業(ようぎょう)は産業での、そうした工夫の結晶の一部でしょう。大きく見るならば、火を扱うことは(おそらく言語の使用と並んで)動物からヒトへの進化の大きな飛躍を生み出した最大の要因かもしれません。エネルギーの革命(身体の力以外に外部のエネルギーを自ら制御して利用すること)と食の革命(ほとんどどんな物でも食べれるように調理すること)が火によってもたらされたからです。厄災と恩恵の間の緊張は独特の精神性を火に付与します。どんな民族にも火にまつわる神話があり、宗教的なシンボルや祭儀・神事のいたるところに火が登場します。オリンピックの聖火などはさしずめその最も身近な例でしょうか(「聖火を “電気”に替えてしまえ」とは誰も言わない理由を考えてください)。
 その意味では、火を身近に感じ、その扱いを覚えることは、いわば人類の進化史を、自分の人生の中でなぞることなのです。火に接し、火を扱ってこそ、火にまつわる様々な精神的・文化的な事象を感得する道もひらけます。キャンドルの灯が醸し出すロマンチックな幻想性、焚き火や暖炉を囲んでの安らぎと心の通い合い、各地に残る火祭りに見られる昂揚感……これらは、誰もが火を前にして感じる共通の感覚・情感であり、私たちの身体に奥深く埋め込まれ長く長く受け継がれてきた反応のように思えます。これを絶やしてはならない――「火育」が求められる理由はここにあります。
 火事、火傷のリスクをゼロにしようと、子どもを火から遠ざける行為は、じつはそれとひきかえに、火を知らない・扱えない人を生み出し、ひいては火の文化を否定する、というもっと大きなリスクを招く行為だと言えるのではないでしょうか。■
(上田昌文/キャリア・マムの連載「地球をもてなそう!」のコラムを改編)

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