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●子どもの健康リスク研究の新しい流れ
「子どもは小さな大人ではない」-こんな単純な事実が、様々な環境因子がどんな健康影響を子どもにもたらすかを考える上でほとんど配慮されてこなかったと言うと、ウソのように聞こえるかもしれない。しかしこれは本当である。胎児や新生児には、放射線や化学物質や電磁波などの因子に対して、大人とは異なる高い感受性や脆弱性を持つ場合があり、しかも発達の各時期でその感受性や脆弱性が大きく変動する場合があること、そしてその影響はすぐに現れるものもあれば、大人になってから現れたり、本人には現れずに次の世代に現れたりすることもある。そうしたことを示す重要な知見が、いくつかの因子について明らかになってきた。ただし現段階では、言ってみればジクソーパズルのいくつかのピースがはめ込まれたという程度に過ぎないように感じられる。すなわち、受精卵、胎芽・胎児、新生児、乳幼児、そして最終的に大人になる直前の思春期に至るまでの発達の全体をとおして、環境リスクを総合的にとらえるためのスキームができているとは、とても言えないのだ。
私は、多くの方々にこの問題の重要性を知っていただこうと、「子ども環境問題」と題した連載を2004 年から2005 年にかけての半年間、妊娠・出産・子育て支援のウェッブサイト「ベビーコム」の「エコロジー」のコーナーにおいて実施してきた1。数人の専門家へインタビュー、私自身が参加した2004 年6 月のWHO(世界保健機構)電磁波プロジェクトのワークショップ「子どもの電磁波感受性」の報告などを交えて、今後子どもの健康を考える上で欠かせない基本的なデータと最新の知見を精選して紹介してきたつもりだ。
連載を行ってみて痛感するのは、子どもを取り巻く環境の改善は遅々として進まず、アレルギーをはじめとする深刻な健康被害や気がかりな行動の異変が目立ってきているのに、こうした現状を見すえた基礎的な調査研究が日本ではまだまだ弱いことだ。しかし海外では、雑誌『小児科学』の特集補遺2 や『環境健康展望』のミニ・モノグラフ3、米国環境保護庁(EPA)の「子ども健康保護オフィスOCHP」がウェブサイトで公開しているデータや総説論文集4、あるいはWHO のChildren’s Environmental Health(CEH)のサイトに掲げられたさまざまな報告書や資料などが、いずれも最新の情報を収集分析してリスクのとらえ方を論じており、新しい単行本も相次いで出版されている。また、NPO が連携した「BE SAFE キャンペーン」5(後悔するより、今、安全を! ”better safe than sorry” の予防的アプローチを通じて子どもの健康と自然環境を守るための全国運動)が立ち上げられたりして、活発な動きがある。
私たちはまず、日本の子どもの健康の現状を多角的に調べ、欧米で熱く論じられはじめている「子どもに特異的な感受性・脆弱性をふまえたリスク論をどう作るか」という問題を、日本の専門家たちがそれぞれの知見を持ち寄って本格的に考察するよう、仕向けていかねばならないと思う。予防医学や公衆衛生学が、”子どもの未来と健康に生きる権利を守る”ために、的確な規制政策を裏打ちする総合科学(レギュラトリー・サイエンス)として力量を発揮しなければならない、と私は考えている。
●日本での取り組みを促すために-新しい連載のねらい
2005 年末になって、ようやくと言うべきか、環境省が「小児の環境保健に関する懇談会」(座長、佐藤洋・東北大大学院教授)を設置し、子どもに対応した環境リスク評価を導入する方針を固めた。6 月をめどに現在のリスク評価の問題点を整理し、今後の評価のあり方をまとめるとのことだ(2006 年1 月10 日朝日新聞報道)。これは1996 年にEPA が「小児の健康保護のための国家戦略」を発表したことや、2003 年にEU が「欧州環境・健康戦略」を策定したこと(子ども対象のモニタリングや、ダイオキシンや内分泌かく乱化学物質などの監視を進めることなどを定めている)などを受けての遅まきの対応といえるが、3 月1 日にはその懇談会の第2 回目が開かれている(このときの議論の中身はまだ環境省のウェッブサイトで公開されておらず、次回の予告もなされていない)。私たちはこの懇談会が出すであろう指針が適切なものであるかどうかを判断し、さらには日本の専門家たちに的確な対応を促すべく、「子どもの発達に与える環境の影響」に関する最新の重要な知見を手際よく学んでいく必要があるだろう。
そこで『市民科学』誌上においてしばらくの間、海外の重要文献を精選して”抄訳”することで、そうしたリクエストに応えてみたい。複数の翻訳協力者を得て、「喘息」「母乳」「人工甘味料」「エピジェネティックス」……など多岐に渡る話題を提供できるよう準備をすすめている。紙数の関係からいずれも論文の全訳の掲載は難しいが、いずれそれらの全訳をまとめて冊子にすることも予定している。ご期待ください。(上田昌文)
1 http://www.besafenet.com/platform.html 第1 回「子どもの健康と環境
の新しいとらえ方」、第2 回「子宮内環境は今・・・」、第3 回「ライフス
タイルという環境」、第4 回「子どもの脳が危ない/ 脳の発達と環境リス
ク」、第5 回「胎児・子どもの電磁波感受性」。インタビューした専門家は、
木俣肇氏(佐藤病院アレルギー科部長)、森千里氏(千葉大学大学院教授)
正木健雄氏(子どものからだと心・連絡会議議長)、黒田洋一郎氏(東京
都神経科学総合研究所)、齋藤友博氏(国立成育医療センター・研究所 成
育疫学研究室長)。
2 Brent,R.L. et al( ed.) The Vulnerbility, Sensitivity and Resiliency
of Developing Embryo, Infant, Child and Adolescent to the Effects of
Environmental Chemicals, Drugs and Physical Agents as Compared to the
Adult『Pediatrics』April 2004, Vol.113:number4
3 『 Environmental Health Perspective』mini monograph/Assessing Risks
in Children 112:238-283( 2004)、Whence Healthy Children? 112:105-112
(2004)
4 Paper Series on Children’s Health and the Environment には、
Overview of the Special Vulnerability and Health Problems of Children
(February 2003)や、Critical Periods in Development( February 2003)が
含まれる。
5 この運動は、” 学習障害協会”、” 環境健康正義センター”、” シエラ・
クラブ”、” 子どもの環境健康連合”、” 労働安全衛生協会”、” 医師と乳が
ん患者団体” など、全米各州にまたがって、数百の有力かつ多様な市民団
体によって組織されている。
神経発達に環境はどう影響するか-その新しいとらえ方(抄訳)
Michael Szpi(米国の科学ジャーナリスト、『American Scientist』前副編集長)
『環境健康展望』114 巻2 号101-107 ページ、2006 年2 月
(”New Thinking on Neurodevelopment”Environmental Health Perspectives,vol.114,no.2,pp101-107, February 2006)
訳: 杉野実+ 上田昌文
鉛の毒性がギリシア時代に報告されて以来多くの神経毒物が知られてきたが、低容量を摂取した場合の毒性については今日でも不明なことが少なくなく、現在では特に、胎児期あるいは幼少期に低容量を摂取した化学物質の神経発達への影響が注目されている。1994 年の疾病予防センター(CDC)の報告によると、アメリカの学童の17 パーセントは、行動・記憶・意欲などに影響をおよぼす障害をかかえているが、それらはみな、脳の発達における異常と関係があると考えられている。
このような障害は精神病・自殺・虐待・犯罪などと関係が深いと思われ、本誌は2001 年12 月に、アメリカにおける神経発達障害の経済的費用を、年間800 億から160 億ドルと推定した。自閉症・注意欠陥障害・学習障害などが近年急増している、と複数の研究が指摘していることにも注意すべきであろう。診断基準が変わっただけなどと言う者も少なくない一方、化学物質による環境汚染が関係していると言う科学者もいる。カリフォルニア大学のペッサー氏は、工業国に多く存在する化学物質が、生体の防御機構をすりぬけて、神経発達に関連する遺伝子に影響をおよぼす可能性を指摘する。
遺伝子の異常がたとえば自閉症をひきおこす、とペッサー氏は言うのだが、化学物質と遺伝子との関係はもちろん単純ではない。しかしあやまりを犯すならば、むしろそれらの物質の取り扱いに慎重になりすぎる方向で犯すべきであろうと、多くの科学者が言っている。
■ 身の周りの様々な神経毒物
ある種の金属や有機化合物などは以前から神経毒物として注目されていたが、近年ではそれらの胎児期ないし幼少期における低容量の摂取がおよぼす影響が、疫学を中心にしてそれを動物実験や細胞実験で補強する形で研究がすすめられている。
●鉛
鉛は児童の知能・注意力・言語能力に悪影響をおよぼすと思われる。CDC は現在、血液1 デシリットル中10マイクログラムまでという基準を定めているが、もっと厳しい基準が必要だと考えている科学者は多い。塗料や燃料を通じて摂取され骨中に蓄積された鉛が、暴力行為の増加に関連している可能性を、複数の研究が指摘している。幼少期に鉛を摂取していると、老年期になってから脳に、認知症と関連の深いアミロイド蛋白が生成されやすい、との動物実験結果もある。
●水銀
メチル水銀は汚染された水産物や大気などを通じて摂取され、特に子宮内での曝露は、精神の発達や感覚・知覚機能のさまざまな障害をひきおこしうる。その低容量摂取の影響は必ずしも明らかではないが、フェロー諸島とセーシェルでの魚食民を対象とした疫学的調査は論争をよんだ。フェロー諸島での調査では、胎児期にメチル水銀を摂取した7 歳児と14 歳児は、それぞれ認知障害や心臓疾患などの問題をかかえているとされたのに対して、セーシェルでの調査では、同様な3 歳児と9 歳児にはなんら問題はないとされた。このような違いが生じた原因はわからないが、フェロー諸島民が食べる鯨肉にふくまれていたPCB がメチル水銀と相乗効果をおこした可能性があると推測されている。母親の毛髪の分析から胎児期にメチル水銀の少量の取り込みが確認できたケースではあるが、メチル水銀摂取が幼児の認知能力をむしろ高めたという結果もある。小児用のワクチンなどにもちいられる防腐剤チメロサールはエチル水銀をふくんでいるが、この成分は、メチル水銀と同様に脳に悪影響を与えるおそれがある。チメロサールの使用と自閉症の増加との関係については、自閉症関連団体と医学研究所(IOM)のあいだで論争が続いている。メチル水銀とエチル水銀のいずれも、抗酸化ペプチドのグルタチオンを消耗させることによって、ニューロンとグリア細胞を破壊する、とする研究が最近出たが、自閉症児の脳ではグルタチオンが少ないとされているので、この結果は注目される。この研究を発表したアーカンソー大学のジェイムズ氏は、栄養改善で自閉症は治療されると主張している。
●マンガン
マンガンは必須栄養素のひとつであるが、とりすぎればパーキンソン病に似た中毒症状をひきおこす。胎児は母体から摂取されるマンガンの害から守られているというが、幼少期のマンガン摂取とパーキンソン病との関連は明らかでない。マンガンは脳の発達に影響をおよぼすと考えられ、この金属を高濃度にふくむ水を飲んでいた児童の知能が劣っていたことがバングラデシュなどで報告されているが、このような水質汚染は決してめずらしくないという。マンガンの神経作用はよくわかっていないが、ある動物実験によるとこの金属は大脳基底核(脳幹神経節)に作用して、情報伝達物質ドーパミンの放出を抑制するという。
● PCB・PBDE および殺虫剤
実際に使用されている化学合成物質のなかには、環境中に残存し動物体内に蓄積する点で注目すべきものが多い。ポリ塩化ビフェニール(PCB)は、日本や台湾での食用油汚染によって注目されたが、特に台湾では、胎児期にこれを摂取した児童のあいだで、随意運動や認知機能の発達障害がみられた。母乳をとおして摂取したPCB が発達障害をおこしているなどとする報告もある。燃焼抑制剤として使用されているポリ臭化ジフェニルエーテル(PBDE)は、血漿や母乳などの人体組織中に蓄積され、また動物実験によると、学習能力や感覚の障害や行動の変化をおこすとされている。特に北半球の胎児は、殺虫剤にもずっとさらされているとみられる。とりわけホスフィン、グリフォサイトなどの燐系の薬剤は、反射などの行動の異常をふくむ神経症状を発現すると報告されている。これらの物質は、2004 年の残留性有機汚染物条約(POP 条約)でその廃絶が目標とされているが、たとえばPCB を燃やせばフランやダイオキシンが出るといった厄介な問題もある。
■ 免疫も関係しているか?
脳の発達に悪影響をおよぼすのは神経毒物だけではない。免疫毒物や病原体にも注目が集まっている。たとえば母体の風疹への感染が、胎児の統合失調症・自閉症および発達遅滞につながるという報告がある。統合失調症については、母体のインフルエンザ、ジフテリア感染との関連も指摘されている。このような現象のおこる原因はよくわかっていないが、動物実験では、母体の免疫情報物質サイトカインが増えると、胎児の脳内でニューロンの発達が阻害されることがわかっている。この免疫系もまた神経発達障害に関連していると述べる研究者もおり、たとえば自閉症児の免疫系は特異な構成をもっているとされる。前出ペッサー氏は、エチル水銀は抗原識別細胞の情報伝達機能を変化させて、免疫反応を過剰にするのではないか、という。このような変化は中枢神経にもおよんでおり、たとえば自閉症患者においては、脳脊髄液中の抗炎症サイトカインの濃度が高いことなどが報告されている。自閉症患者においては、中枢神経の免疫をつかさどるグリア細胞も活性化しているが、そのことは胎児期に遭遇した負傷・感染・毒物曝露などが反映しているのかもしれない。この領域には未知なことが多く、こういう神経免疫反応が本当に自閉症の原因なのか、それとも逆に二次的な反応にすぎないのかもわかっていない。
■ 被曝のアセスメント(影響調査)に力を注ぐ
研究者らは問題の重要性を認識しているが、現在ますます多くの化学物質が、その神経毒性を検査されることなく登場している。国立健康研究所や環境保護庁などの機関は、神経発達と環境要因との関係についての研究を拡大しようとしている。研究の質を高めるための努力もおこなわれている。たとえば2005 年9 月にペンシルバニア州立ハ-シー医療センターでおこなわれた会合では、子宮内での化学物質被曝のアセスメントは、「遠い過去のことであり、これまで知られておらず、他の多くの物質への曝露と同時におこったため」特に困難であるが、たとえ間接的ではあってもできるだけ測定をしなおすこと(その方が対象者の思い出しに頼った聞き取り調査よりすぐれているだろう)、そして明確な仮説を研究の基礎とすること、などもそこでは推奨された。
■ 大きな課題と大きな挑戦
神経発達障害への対処は科学的な課題にとどまらない課題である。とりわけ低容量毒性が疑われる物質をどう規制するかは、医学への新しい挑戦となるだろう。病気と環境問題との関係については、一般の人々はおろか例えば小児科医でさえ、知らない人が非常に多い。公衆を教育するだけでも十分ではなく、法律もまた、増えてしまった化学物質を効果的に規制できるよう改正されなくてはならない。このような課題に関心を持つ政治家もあらわれてきてはいる。人間の脳は宇宙でもっとも複雑な構造体あり、その発生のプロセスは自然界で最もデリケートな例であるかもしれない。脳の発達と環境についてより研究がすすめばすすむほど、脳の発達に悪影響をあたえるとみられる化学物質のリストは増え続けるだろう。そのリストは健やかな脳と精神をはぐくむためにこそ生かされねばならない。
(市民科学第12号 2006年5月)