市民科学研究室とつながりのある方々を各地をめぐりながら紹介していくインタビューのコーナーを始めます。この次にマイクが向けられるのはあなたかも。随時掲載します。どうかお楽しみに!
(構成・高重治香 編集協力・井上さやか)
●理系に入学したが
子供の頃は、自然の中で遊ぶよりも機械いじりや工作が大好きで、飛行機の模型やラジオを作って遊んでいました。そんな少年時代の影響もあったのでしょう、エンジニアを志し、工学部に進学できる東京大学の理科一類に入りました。
ところが大学の授業はわかりにくく、とても興味を持てるようなものではありませんでした。数学や物理の授業が無味乾燥に感じられ、科学や技術に対しての関心が急速に薄れていきました。科学を探求することが自分の本当にやりたいことなのかどうかわからなくなったのです。
そんな中で、科学そのものよりは科学をどうとらえるかということに興味を持ち始めました。柴谷篤弘さんの『反科学論』(みすず書房、1973年刊)を読み、科学に対する批判的な意識も芽生えていました。2年生で学部を決める際に教養学部の科学史科学哲学分科(略称:科哲)に進みました。
大学時代は自分が何をやりたいのかわからない状態で、漠然としていました。付き合った友達はほとんど文系で、理系の同級生とは意識・関心の違いがありました。当時は、今のように教養課程で技術者の倫理を学ぶ機会などもありませんでした。
●科学技術に対する社会の意識変化
80年代前半はバブル崩壊前で、科学技術に対する肯定的な雰囲気がありました。オイルショックを克服し、経済的にも発展状態にあり、世界で日本がトップに立ったという意識があったのでしょう。60 、70 年代の科学に対する反省を忘れていた時代といえるかもしれません。
楽観的だった80年代に比べ、90年代にはSTS(Science, Technology and Society、科学技術社会論)が出てきました。STS が出てくる前は「反体制」だった科学批判が、企業や政府といった「表の世界」にも関わりだしたのが90年代です。さらに2001 年にはSTS学会が設立され、現在動きは盛んになっています。
●科学の職業化の起源を探る
東大科哲に進んでから、私は科学史と科学社会学との接点のような分野を専門にしていました。科学と社会との関わりという分野において歴史を見ていく作業です。
科学が個人で行われていたときは問題はあまりなかったのが、産業化・巨大化して問題が生じてきました。それで科学の制度化の過程、特に科学の「研究」が職業となった過程を知りたくて、1 9 世紀に設立されたドイツの国立研究所について詳しく調べました。
1887年、ドイツに帝国物理技術研究所ができ、初めて物理学者が研究を職務にするようになりました。「研究者」という職業は、研究だけに没頭でき、研究のために給料が支払われるという点で、それまでの大学「教員」とは異なります。それ以降研究所は次々と設立されていきました。
最近は、科学の制度化の極端な形である科学技術動員体制の歴史を研究しています。
●福岡で失われつつあるもの
福岡に来て12年になります。福岡は変化の激しい街です。日本の縮図といえると思います。ここ10 年くらいは再開発のラッシュで、特に激しく変化しています。高度成長を10年から20年くらい遅れてやっている感じです。バブル崩壊後なのに、やっていることはまさにバブルです。私は、古きよきものとか、人情とか、そういったものが失われていくことに対する危機感を持っています。皆わかっているのに、止められない。
地方都市の特徴かもしれませんが、福岡では「お上意識」が非常に強いです。市民運動が盛んではあるけれど、あまり表立って「反対」はしません。私が関わっている団体など例外もありますが官主導の市民運動とでもいうべきものがとても多い。
しかし、下からの動きというものが起こる可能性を感じないわけではありません。地域の自治会活動などが盛んですから、そういったつながりがうまく発展していけばいいと思っています。
●環境保護運動との関わり
博多湾の和白干潟保護運動に関わっています。福岡に来てはじめて、干潟という自然の豊かさを知りました。その背景には、こちらに来てからの私の中での変化があったと思います。
今教員として働いている大学は田舎にあり、周りは山と畑だらけです。はじめはそれを「何もない」と感じていましたが、そうではなく豊かな世界があるということがわかってきました。都会にいた時には感じられなかった、微妙な季節の変化を感じられる感性が生まれてきました。自分の人生が豊かになった気がします。
●理科教育
教員になってから、理科教育についても深く考え始めました。現在の理科教育にはいろいろな問題がありますが、教員養成をしている大学なので、結果的に今ある理科教育を再生産している面があります。
現在の日本の理科教育には、西洋的な科学を教えるものだという考え方と、観察などを通じて自然を教えるのだという二つの考え方があると思います。現在はそれらが混合して雑多なものとなっていますが、私はそれをいいことだと思っています。
私は理科で俳句を扱ってもいいと思うのです。俳句に現れる日本人の自然観・感性といったものと、いわゆる西洋的な科学は共存できると思うのです。似非科学として「日本的」な要素を排除するのではなく、積極的に取り入れていくべきだ、というのが私の考えです。
自然を見るとき、西洋科学の枠組みで自然を見ることもできるし、他の見方もできる。同じものに、いろいろな意味を重ねていくことができます。教育において、一つのものを見るときにさまざまな見方ができるのだと伝えることは重要だと思います。
●二枚の名刺
現代では、科学者はすっかり組織の人間になってしまっています。ある組織に入ると、人間は組織の論理に従って動かなければならず、それが様々な問題を生みます。既存の組織を解体することはできないから仕方のないことだ、と順応していくのです。全員が組織人になるだけでは何も変わりません。
ドイツの帝国物理技術研究所ができたとき、初めは優秀な人材が集まったけれども次第に大学に人が戻っていったという経緯があります。研究所には自由がない、大学の方がいいと言って。学者としてどう生きていくかということは当時難しい問題で、自殺する人もいました。
何が社会を変える力になりうるかというと、一方で組織に入りつつ、もう一方でまったく違う活動をしている人たちの存在ではないでしょうか。桑子敏雄さんが言っているように、最近は名刺を2 枚持つ人が増えています。現在、私たちの環境保護活動に携わっているのは主婦や会社を退職した人が主です。いわば、名刺のない人々。しかし、会社や役所などの肩書きを持つような人が市民運動に関わるようになれば、運動はもっと活発になると思います。これからは、一方で組織に属しながら、一方で違うことをやる人が世の中を変えていくのだと私は思います。
●学者としての責任
多くの人々の科学に対する意識は、期待もしないかわりに批判もしない、といった感じでしょう。遠い世界の話だと思われているのかな。例えば干潟保護に関する科学の研究をやる学者はほとんどいません。お金にならないから。身近な自然について研究している人はとても少ないのです。
普段は誰も振り向かず、社会問題になって初めて皆が注目するという現状はとても危険です。例えば、有明海ではのりが取れなくなって、漁民の生活が困難になりました。のりが食べられないということは日本の食生活が脅かされる大問題だ、というわけで初めて環境問題が見直されたわけです。和白干潟の問題は、そういった意味で大きな社会問題にはなっていません。だから学者もほとんど注目しないのですが、その陰で貴重な自然が失われつつあります。
環境アセスメントなどで学者が関わる場合はあります。しかし、行政に都合の良い結果しか出しません。最近は審議会の内容が公開されつつあるとはいえ、個人名は出てきません。審議会で学者が何を言ったか、が評価されるべきなのに、全ては密室で行われている。無責任だと思います。
●環境保護運動の理論化をめざす
私は、環境保護運動に関わる過程で「空間の豊かさ」を捉えなおすべきだと考えるようになりました。環境保護を論じる際に必ず出てくるのが「鳥と人間のどっちが大事か」といった類の議論です。この議論は根本から間違っています。どちらも大事なのです。そのことをどう説明するか。
山や干潟や川など、自然が好きな人は一般に「語る」ことがあまり得意ではありません。けれども自分たちのやっていることを他の人に伝え、理解してもらうためには、自然とは環境とは何かということをきっちりと言葉で定義し、環境保護の大切さを具体的に語れるようにすることが大切だと思います。それが、保護運動をやっている人々にとっては自分がやっていることを理解するための言葉になりますし、また立場の違う他の人を納得させる言葉になります。私は、桑子さんの言う「空間の豊かさ」という概念が役に立つのではないかと考えています。
●伝えるということ
教育には、既存の知識を教える「再生産」の側面がありますが、まったく同じものが繰り返されるということはありえません。教育を受けた人は、また自分なりに発展させていくものです。私たちは、自分たちが大切だと思うことを伝えていますが、あとはそれを受け取った人たちが自分たちなりに発展させていくでしょう。