写図表あり
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書評
『超人類へ!バイオとサイボーグの技術がひらく衝撃の近未来社会』
(原題:More Than Human)
ラメズ・ナム(著)、西尾 香苗(訳) 河出書房新社 (2006)
評者:渡部麻衣子
(北里大学大学院医療系研究科臨床遺伝医学講座 特別研究員)
能力増強技術の衝撃
たしかに、衝撃である。ラムズ・ナメは、その著『超人類へ!バイオとサイボーグの技術がひらく衝撃の近未来(More Than Human)』で、一歩間違えば荒唐無稽のサイエンス・フィクションと取られかねない先端の能力増強(エンハンスメント)技術を、具体的かつ肯定的に紹介することに成功している。
たとえば、遺伝子改変技術。これは、特定の働きを持つ遺伝子を細胞内に人為的に入れる技術で、ボイヤー(世界初のバイオテクノロジー企業ジェネンテック創設)とコーエン(1986年ノーベル賞受賞)が、1973年に大腸菌への外来遺伝子導入に成功したことに端を発する。この技術は、ウイルスに遺伝子を人為的に細胞内に運ばせる技術によって、高等生物への応用が可能になった。すでに1990年に、免疫不全を引き起こす遺伝子疾患であるADA欠損症の治療に、米国医薬食品局(FDA)および国立保健研究所(NIH)からの承認をうけて利用され成功をおさめている。この事実から、読者は遺伝子改変技術を現実的で有用な技術として認識する。そして、同じ技術が、赤血球の生産を促進し、血中の酸素運搬能力を高めて耐久力を向上させるために使われることを、さもありなんと受け止めることができる。
赤血球の生産を促進するEPOという物質は、正規には貧血症の患者に処方されるが、アスリートの能力増強にも利用される。現在は薬剤として投与されているが、EPO生成遺伝子の細胞へ挿入することで赤血球の生産を向上させることが可能なことが、サルとマウスを使った実験で確認されている。人間の能力増強まではあと一歩か。
ナメが言うように、遺伝子治療のはじまりから20年にも満たないことを考えると、「この分野の発展によってこれから何が可能になるか」(45頁)期待感がたしかに高まる。美容目的でこの技術を使いたいかどうかは別として。
能力増強技術に対する批判への反論
しかしこの著書の目的は、こうした先端技術の紹介にのみあるのではない。ナメの目的はむしろ、能力増強技術に対して存在する強い批判に反論することにある。そしてこの反論こそ、この著書において注意して読まれるべき箇所と言える。
能力増強技術に対してこれまでなされてきた批判には、「優生学」と同一視して批判する主張、「格差を増大する」という主張、「人間の自然な状態に反する」という主張がある。これら一つ一つにナメは反論する。
たとえば、遺伝子操作を優生学と同一視し、これを全面的に禁止すべきだとする主張には、次のように反論する。
「人間の能力増強をめぐる議論で、遺伝的能力増強テクニックを禁止しようとしているのは、国家が人々の遺伝子を管理すえきだと主張する人々だけなのだ。一方、能力増強を擁護する人々は、個人やそれぞれの家族の選択について議論している。これは国家による管理とは対象的である。」(190頁)
選択の自由は、ナメがこの著書の中で繰り返し擁護する理念である。さらにナメは、「政府とは、個人の権利を守るために設立されるものであり、制限するためのものではない。」(13頁)として、能力増強技術を政府が禁止することに反対する。
ナメは、能力増強技術が「格差を増大する」という批判に反論する際にも、政府による禁止に反対する主張を唱える。その理由は、以下のように示される。
「禁止すれば闇のマーケットができて、必要以上に値がつり上げられ、能力増強プロセスは実際以上に高価なものになり、ますます貧富の差を分けることになる。」(12頁)
そして、「人間の自然な状態に反する」という主張に対しては、二つの反論を行っている。第一に、今は当たり前で有用な技術とされているものも、それらが発表された当時は、同じ主張によって非難されたということを、種痘や無痛分娩を例にあげて示す。第二に、自らの能力を増強したいという欲求自体が人間にとって自然なものであると主張する。
「結局、自分自身を強化・増強しようとする道の探求は、人類の持って生まれた特徴なのである(中略)自分を理解し改善しようという探索を積極的に進めても、人間性に疑問を突きつけることにはならない。それこそ人間性の再確認にほかならないのだから。」(16頁)
ラムズ・ナメへの疑問
ナメの主張に反対することは難しいように思える。たしかに、新しい技術は、人にそれを利用する選択肢を与えるのであって、強制するのではない。技術を禁止する方が、それを利用しないことを人に強制している。またたしかに、闇市場が生まれれば、技術の希少価値は高まる。そして、人には自分自身をよりよくしたいという欲求があるということは否定し難い。猛毒のボトックスを顔の皺の伸ばすためだけに使っているのだから、筋肉を増やすためだけに遺伝子改変技術を使う人がいてもおかしくはない。
ただひとつ、ナメの言うように一部の専門家によって技術が全面的に禁止されることが民主主義に反するとしても、技術を自由に受け入れることもまた、民主主義に沿う行為とは言えないという点を指摘しておきたい。技術を開発するのも一部の専門家である。新しい技術を自由に受け入れるということは、技術についてのこの専門家らの「決定」を受け入れることと同じである。能力増強技術について民主的な決定を行うためには、どこかの時点で、受け入れるか否かについての社会的な議論が行われる必要があるだろう。著書の中の「能力増強の規制を変える」と題した項目で解説される技術の承認過程は、この議論を行うのに最適な時点のように思われる。
批判的に読む
ただし、ナメ自身は、「規制の変更」を技術を受け入れることを前提として提言している。ナメの主張は決して中立ではない。それは、最後の一文に顕著だ。
「私たちは、もしそうしたいと思うならば、新しい種類の生命を生み出す種子となれるのだ。(中略)思うに、史上、これ以上に美しい使命、特権的な地位を与えられた種はほかにはいない。」(263頁)
自由な選択肢の一つにすぎないはずの技術が、最後には種の使命の手段にされている。極めて危うい論理である。この論理では、技術を選択しない個人は、種としての「美しい使命」を放棄することにならないか。ここで、国ではなく社会が、技術増強を強制する基礎付けがなされていると批判することも可能だ。なぜこのような論理を持ち出すのかといえば、能力増強技術への賛同者を一人でも多く増やしたいからだろう。『超人類へ!』は能力増強技術の宣伝本なのだ。
しかし、そのことを念頭において批判的に読めば、この本は読者に、能力増強技術を社会に受け入れることについて、具体的に検討するための良いたたき台を与えてくれるだろう。■