食事と健康:何がその混沌を生んだのか~佐々木敏・東京大学教授へのインタビュー 

投稿者: | 2010年11月24日

佐々木敏・東京大学教授へのインタビュー(聞き手:市民研・代表 上田昌文)
食事と健康:何がその混沌を生んだのか
~科学的な理解と実践に欠かせない基本を考える~

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◆佐々木敏さんプロフィール◆
東京大学教授(医学系研究科 公共健康医学専攻 社会予防疫学分野)。京都大学工学部資源工学科卒業。大阪大学医学部医学科卒業(医師)。大阪大学大学院医学系研究科博士課程修了(医学博士)。ルーベン大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)。国立がんセンター研究所支所臨床疫学研究部室長、独立行政法人国立健康・栄養研究所栄養所要量策定企画・運営担当リーダー、同研究所栄養疫学プログラムプラグラムリーダー、女子栄養大学栄養科学研究所客員教授、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科客員教授を経て、2007 年より現職。
専門は社会予防疫学分野で、食べ物(栄養)と健康とのつながりを疫学的に調べる「栄養疫学」という分野を中心に研究を進めている。
主な著書に『わかりやすいEBN と栄養疫学』(同文書院2005)など、国内外で論文多数。
このインタビューは2009年11月に行われたものです。今回、2011年3月に実施する予定の市民科学講座において佐々木さんをお招きしてご講演いただくことになり、この『通信』誌上でそれに先だってインタビューを掲載することにしました。3月の市民科学講座は、詳細が決まり次第、ご案内をホームページに掲載し、チラシも配布しますので、ご参加ならびに広報へのご協力、よろしくお願いします。
なお、佐々木さんの著書『わかりやすいEBNと栄養疫学』は、栄養と健康の科学的なとらえ方を、中学生でも理解できる数式しか用いずに、疫学・統計学の基本から説き起こした、じつにわかりやすい本として、市民科学研究室の「食の総合科学研究会」では必携のテキストとなっています。佐々木さんの研究室のホームページも講義録など役立つ資料が多く掲載されています。
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上田: 私たちの活動の中で、一般の人に向けて情報提供するときに、科学的なエビデンスのことで困ることがある。「何を食べたらよいか?」といった話は、説明が難しい。できるだけ科学的根拠に基づいた情報提供をしたい。それと同じような気持ちがあって、栄養疫学という分野に行かれたのか?
佐々木:(上田さんとは)逆だった。医学部は人間を調べるものだと思っていたら、ちょっと違っていた。「なぜ人間を見ずに顕微鏡をのぞいてるの?」と不思議に思い、僕は異端児かと思っていたらそうではなかった。世界では、ミクロとマクロが両輪となって進んでいた。ただ、日本では少ない人種だったというだけ。それで、留学した。
 そうこうしている間に日本にも疫学者が増え、研究自体は進んできたと思う。二次予防である早期発見・早期治療は、既存の医学の技術が比較的使える領域だ。たとえば、マンモグラフィなど。しかし、一次予防は医療を受けなくてもよいようにするのが目的なので、本来の医療や教育には取り込みにくい。そのことを、医学・医療のほうも、世間のほうもあまり考えたことがなかった、という問題がある。
 小学校の理科教育くらいから、日本の教育システムや社会構造が、学問別になっているということもあり、学問横断的、学問と学問を行ったり来たりする、統合的な学問というのが日本人はあまり得意ではなかった。そういう経緯も大きい。僕が取り組んだのは食べものだったが、食べものと言うと、「どうして医学部なんだ?」という意見がいまだに根強い。一方で、食べものを知った人が医療を知ってしまったような気分になってお話しされてしまうという問題も残されている。
 やや嫌味な言い方になるが、「食べものをよく知りましょう」「食べものにこういう栄養素が入っているから体にいいはずです」「だから食べましょう」とよく言われる。けれど、その話の中に一回も人間の顔が出てこない。人間が病気になった、防げたという事実も出てこない。病気を防げたり、治せたりしたという事実をつかんではじめて医療となる。何々が入っている、というところではまだ医療にならない。  そのあたりの混同があるために、社会に対して正しいメッセージを出せていない。
上田:誰でも予防が大事だということは分かると思うが、現実、どうやって予防しているかと言うと、生活の中で経験的に受け継がれてきた何か、で対応している。科学的に裏付けされたことが、必ずしも生かされていない、つながっていない、という感じがする。公衆衛生というところからみると、欧米では日本と状況が違っているのか?
佐々木:いや、欧米にもまじないや占いのたぐいはいっぱいあるわけで、欧米のほうがよくて日本が悪いということでもない。けれども大きく違うのは、西洋人は近代科学を信じる「癖」がある。日本人はどこかで近代科学を信じていない。技術は信じるが。近代科学的思考というものをあまり信じていない。西洋は逆で、思考に関しては信じるけれど技術には懐疑的。そこが違う。
 そもそも「予防できるか、できないか」という事実を作るのは、その人ひとりが病気になったかならないかという事実を、積み上げるしか方法がない。他には方法がない。1人1人の市民が市民社会の事実を作るという、いわばブロックが積み重なって行くことで、役に立つ事実が得られる。そういう考え方が受け入れられる社会じゃないと、疫学研究はできない。
 どうして予防医学が科学的に日本で発達し得なかったかについても、そのあたりと関係がある。民主主義、市民社会、市民というのは個の集合体として機能するものだし、集合体は個がないと成立しない。本来、個が集団に対して何をなし得るかを考えてはじめて集団が生きていける。言い換えれば、自分自身が社会に対して何ができるかということを考えて仕事をすること。日本は逆で、社会が自分に何をしてくれるか、と考えてしまい、自分でブロックを作っていくという発想は希薄だ。
 これが、日本で疫学研究が発展しなかった原因だと私は思っている。
上田:がん登録の問題は、典型的。がん登録がないから発症データの蓄積がない。結果的に、地域である種の疾病がたくさん起っていても疫学に持ち込めない。絶対に必要なのに、なぜいやがるんだろう?と思う。
佐々木: 情報はほしい、けれど情報は出したくない、自分=1という情報が社会に役に立つという気分になれないのだろう。社会というのは大きなもので、権力的に強いもので、自分は弱い立場にある。自分を足し算して集団や社会ができるのではない、と考える。自分からベクトルが出ているんじゃなくて、自分に向かっているベクトルを想像しているような気がする。私が登録しようとしまいと1万が9999になるだけで、ほとんど違いがないという発想になっちゃう。でもそんな発想をする人が積み重なると9999ではなく0になっちゃう。
上田:日本で疫学調査を大規模でやるときにはどんな障壁が?
佐々木:疫学というか、広い学問、公衆衛生学、こういう見方をするのは僕だけかもしれないが、いい言い方ではないけれど、上からのアプローチ、下からのアプローチ、両方混ぜて使う。上からと言うのは日本の古い言い方で「おかみ」ということ。これは言葉としてはよくないが、正しく言えば社会の仕組みを活用するということ。下から、それは市民からの盛り上がりを使う。その両方を使う。いくら市民が集まってこういう調査をしたいと思っても、制度的、法律的、行政的に許されなければするわけにはいかない。昔は国の調査というと、強制というか義務だった。今はそうではない。市民に権利がある。権利というとすぐ拒否のほうを考えるが、参加する権利があるということ。制度に見合ったことをする。市民が求めるものをする。それが一致したときに調査が成立する。常に両方からのアプローチが必要。
 僕が大きく期待しているのは市民の盛り上がり。扱っている対象の病気、内容によって違うが、僕は食べものを扱っているけれど、たばこ、運動、ストレス、などいろいろテーマがあり、その中では、社会制度にウェイトを置くほうがうまくいく内容もあるし、市民の盛り上がりに軸足を置いたほうがいい場合もあって、一概に言えないが、少なくとも片方だけでは無理。これからは市民からの盛り上がりが相対的に大きくなっていくだろうという感触を得ている。
上田:体にいい食べもの、体にいい栄養素、それに振り回されている。テレビの番組ひとつ、たけしの「本当は怖い家庭の医学」の3時間スペシャル「病気にならない体作り 家庭でできる!身体年齢若返りプロジェクト2009」はなかなかいい内容だった(09年9月22日放送)。栄養学的にどうこうということではなく、長寿の人たちを取材して、いろんなこういう知恵がある、というのを教えてうまく整理してある。こうした内容は科学的にはどうなのだろうということを議論したくて皆に見せている。日本ではがんが増えている、がんにならないためにはどう食べたらいいか、そういうニーズはたくさんある。ところがその人のやっていることをみると、ストレスをためる生活をしていたり、運動をしないなどという生活をしているのに、食べもののある要素だけをとらえていい悪いと言っている、みたいなことが多い。そういう状況を、その人はどう捉えているのか? 学問的アプローチから得られる個別の情報を、市民が自分の生活に引き寄せてどう生かしていくのか、なかなか自分では決め難いことも少なくないと思う。特に食べものは、「2年前はあれがいいって言ってたのにどうなったんだろうね」などという話も多い。
佐々木:「相対重要性」という考え方がある。世の中に悪いもの、危ないもの、怖いものはたくさんある。それをすべて排除したら私たちは何も食べられなくなる。これが怖いからこれを避けようと言う行動は、決してするべきではない。そうではない。AとBと怖いものを常に2つ例に出して、Aのほうが私にとって脅威であればBを許してAを許さない。「じゃあAを避けるんですね」と言うと、「ちょっと待ってください、Cというものがある。」「ではBとCはどっちが脅威か?」……そうやって一番重要なものからそうでないものまでチェックする。人間はパーフェクトではないから、僕なんかは悪いものから3つくらい避けられれば良いかな、と思っている。トップ3を避けるだけでかなり健康になるにもかかわらず、そういう発想をみんなはしない。
 目の前で危ないと言われたことは、そこで動かないで、まずは知識ポケットに入れる。順位を決めるために待っている。そして順位を決める。そこで大切なのは、自分を知ると言うこと。
 例えば僕はタバコを吸ったことがない。吸わない。たばこは危ないといわれても、僕には全く関係がないということになる。順位待ちのボックスから喫煙という言葉を捨てられる。これが自分を知るということ。
 酸化した油など何かの食品が怖いと言ったときに、自分がそれを大量に取ってしまっているなど、怖いと言えるくらいの行動を本当にしているかを、自分で調べる、あるいは専門家に調べてもらって、はっきりさせなければ意味がない。自分の行動が当てはまらなければ、その情報はどうでもいいこと。むしろ自分の行動を把握しないで「怖い」と言ってしまうことの方が怖いのです。自分が存在しない怖さは無限に広がる。それこそが一番怖いことです。
上田:電磁波リスクについても調べているが、それにあてはまるような人も見受けられる。携帯中継局がそばにあって怖い、あれをどうにかしてくれ、という人が携帯電話をがんがん使っていたりする。
 ただ食べものは種類が多いし、食習慣もある。「今できる自分の選択はなにか?」というときに、マクロビオティックに走ったり、肉食をやめるとか、そういう極端なことではなくて、「日常の中でもっと現実的な方法がとれるんじゃないか?」と考えている。

佐々木:それを考えるときにも、いったいどの病気を予防したいかによって異なる。食べものを選ぶときは、どの病気をどの順番で予防したいか、関係する食品、栄養素や物質をどれくらい習慣的に食べているのか、子供の頃まで遡るのは難しいけれど、少なくとも最近はどの程度摂っているかを調べなければならない。それは難しいことではないが、そういう調べる仕組みがないこと自体が問題だ。
 相対的重要性はここでも大切で、「あなた」の健康、「あなた」が予防したい病気を考える上で、大切な栄養素や食べ方、あるいは、問題となる食べ方や食品を順番に上げるとどうなるか。あなたのおおまかな食べ方で分けると順番はどう変わるか。そしてベスト3、ワースト3を出して、そこのところに気をつけていく。頭であげられるのは7つくらい、実行できるのは3つくらい(笑)。大切なことは「人によって違う」ということ。
 あなたからはテレビのキャスターの顔が見えているが、キャスターからはあなたは見えていない。だからキャスターはあなたに話しかけているのではないことを意識しなければならない。あなたらしい健康の保ち方には、テレビや一方的に投げかけられてくる情報は何の役にも立たない。賢くならなければいけない。
上田:健康情報をフィルターを通してみる、という考え方を、早いうちから身に付ける必要があるわけですね。
佐々木:日本の教育は、”知識の教育”であり、”知恵の教育”ではなかったと言われているが、これはかなり大きい。知識教育は自己を考えない。知恵の教育というのは自分と社会、環境など、何かとの関わりを考える。
上田:がん予防といったときに、誰にでも適用できる決まった公式を想定してはいけないが、往々にしてそういうところが落としどころと思いがち。私たちが今、中高生に伝えようとするのは、こんなことをしたらがんになりやすいということではなく、逆算の発想で考えろと言っている。身近でがんで亡くなった人がいたとすれば、それはなぜなのか?を考えるプログラム。普段していたこと、食べていたものなどを調べて、その人なりのがんになった理由を推理してあてていくという探求の仕方。それで興味をひこうと思っている。自分自身ではないが、その人になり代わってみる、というやり方をすると、先生がおっしゃったようなことに近づくのではないか、と思っている。
 ただ、疫学的な思考法、発想法を理解してもらうのに、どうしたらいいかと苦労することがけっこうある。ある街である病気が増えている場合、どうしても何かその街に固有の「原因」をその「病気が増えている」ということだけから探ろうとする。疫学というのはそうではなくて、他との比較で特異的にみえることの意味を探る、という手法だと思う。小学生で習うたし算かけ算割り算が分かっていれば、なんとか分かるもので、単純な数学を使うだけなのに、一般の人の思考の中にそれがなかなか入ってこない。そこを何とかできないか。

佐々木:疫学はそもそも数学ではなくて論理学。論理学を論理学として意識して習ったことは、僕たちの教育の中にはない。毎日の暮らしの中で、僕たちはいろんなリスクを考えながら行動している。だからいろんなリスクの事例をとりあげてどのように比較計量できるのかを話すことで、ある程度理解できるようになるのではないか。
上田:たとえば、食品では、先だって花王のエコナクッキングオイルの回収問題が起こった。「発がん性」という言葉を聞くと、それだけで過剰反応するところがあるが、じつは油脂自体について「何をどう摂取するのがよいのか」を高校の時にちゃんと習って、頭にインプットしている人はほとんどいないだろう。そんな状態なのに、エコナのことであんなに騒ぐのは若干奇異に思えた。自分が摂取している油を常々意識して、どれを選んだり、組み合わせたりすべきか、ということさえ分かっていたら、エコナはそもそも使わなくてもいい。ただ、確かに、食材のことを調べていて、油はすごく大切だと思うのだが、油を健康を決める条件としてどう評価したらよいか、なかなかわかりにくい。単純にいって、「炭水化物とたんぱく質と油」を考えたとき、油の摂り方が相当体を左右しているだろうなと思う。だが、それを何を持って証明できるのか。それぞれの栄養素が体のどの機能に関係するかは分かっている、けれども食生活の中で、脂肪酸の種類に関して偏った摂り方をしたときに、炭水化物とたんぱく質はふつうに摂っているとして、どれくらい健康が左右されるのかは、かなりやっかいだ。
佐々木:油にはふたつの働きがある。ひとつはエネルギーと言う側面。もうひとつは、細胞構成要素、人間の細胞ができる上で、油はその一要素だから、そのための油が必要。しかし、細胞構成要素となるのは油のうちのごく一部の種類。それ以外はエネルギーということで、たんぱく質でも炭水化物でも、入れ替え可能。入れ替えて自分が好きなように食べていいのだけれども、今まで人間がしたことがないような食べ方をすると問題となる。
 今までの人間は食べることによって進化してきたから、その部分はかなり重要。哺乳動物ができ、サルができ、ヒトができ、そして遺伝子がヒト用になり、それにチャレンジすると言うのは、ちょっとすごいなと。数万年の間に人がやってこなかったような食べ方をしているのをみると、これは遺伝子を超えたすごい食べ方だなあ、と思う。僕にとってバランスが悪いと言うのは、そういう食べ方。イメージとしては。
上田:そうすると、伝統的な食習慣が大切だと?
佐々木 いや、僕の言う伝統はもっと古い。4万年くらい前。我々が言っている伝統食は、人間の文化が変えたもので、生物学的には非伝統食。例えば、米とかパンとかから外皮をとり、白くすることができるようになってから、100年も経っていない。100年では人間はひとつも変わらないから、白いものを食べるというのは、人の遺伝子に対して、体を司っている構造から考えると珍しい食べ方。油について言えば、そもそも動物の皮下脂肪というのは、余ったときのエネルギーの貯蔵庫としてある。そんな皮下脂肪のついた裕福な動物は自然界にはいない。そういう動物を食べる機会は、数万年の間になかったということ。そうすると、そんな動物を食べて、そんなに脂肪がたくさん入ってきて、ということは、人間の遺伝子からみてあり得なかった。最近は、そういう動物をたくさん食べている。人という生物としてみれば、とても珍しくチャレンジングであると。
上田:そうすると、近代的に生産されている畜産やら農産物やらのかなりのものが、チャレンジングなものになっていると。
佐々木:人はひとえに飢餓から逃れたかった。そういう目標のため、生物の仕組みはほとんどが飢餓対策になっている。食べ過ぎたときの対策なんて、人間をはじめとする動物の体には用意されていない。血糖が下がり過ぎたら困るから、下がり過ぎないようにしようというホルモンはいくつもあるけれども、血糖が上がり過ぎて糖尿病になるから下げましょう、というホルモンはひとつしかない。
 それくらい、血糖が上がるなんてことは、この数万年の間なかった。そういう食べ方は経験したことがない。一方、血糖が下がるのは、日常茶飯事だった。そこを頭脳を使って解決しようとして、こんな文明を作った。だから人類という動物からみたら成功。けれども無限の成功はない。どこかで考え直さなければ。
 ぶくぶく太った家畜が売られていることが悪いのではない。飢餓から逃れるためには必要だったのだから。それを買うも買わないも自由。食べるも食べないも自由。大切なのは、それをおいしいと思う遺伝子を僕たちが変えていないこと。人は体に足りないものをおいしいと思う、だからそれを探しに行く、そういうことで命を永らえてきた。人という生物がどうやって地球上で生きてきたのか。それを考えると僕たちの体の構造がわかってくる。
 文明社会の中でどう生きるかを考えると、食べものをあまりにも変えてしまった形というのは相当チャレンジング。でも、文明として作られている食べものすべてがだめで、「原始に戻れ」というのは変だ。「飢餓になるけどいいですか? 子どもが生まれても2割か3割は1ヶ月以内に死にますけどいいですか?」と言ったら、誰でも困るだろう。十分なエネルギーと栄養を与えられるようにちゃんと食べておくべきだ。文明から得られるものは得て、逸脱しないための賢さを持とう。0か1か、1か0かの勧善懲悪にしないでほしい。伝統と言うものを近視眼的に見ないでほしい。2万年ぐらいの単位で考えてほしい。
上田:日本食がヘルシーだということで世界から注目を集める一方で、日本人の食生活はは戦後に激変し、基本を見失ってしまったのではないか。2万年からの視点でみるというのは確かに大切。けれど、50年60年でこんなに変わってしまった食事を、どう軌道修正したらいいかという発想も成り立つのではないかと思う。
佐々木:僕たちは常に「理想の食事」があると思っている。戦前と戦後とどっちが良いのか、食事の欧米化の前と後とどちらが良いかを言うと、今のほうが悪いと言いたい人が多いかもしれないが、そんなことは一切ない。欧米化が起こる前の良かった点は何か、悪かった点は何か、それは言える。けれどもどちらが良かったとは言えない。
 いまだに地球上で栄養学的に考えて究極のベストフーズ、ダイエットというのはないのではないか。どの食習慣もどこかに欠点があり、どこかに良い点がある。文化、環境、人によって違う。明らかに日本の食事も欧米化の後に良くなった点もある。悪かった点もある。それを整理をし、みんなが知ることが大切。そうすれば、悪いものは捨て、良いものは残すことができる。
上田:そういう考え方に基づいて、個人が決めていけるというのがいちばん良いと思う。ただ、また別の問題として、給食に牛乳というようなメニューをどう考えたらいいかと思っている。ごはん食に合いそうもないようなことを何年間も続ける、それはやっぱりおかしいだろう、という感覚がある。牛乳の大量摂取が将来的にどう影響するかと言うことも考えなくてはいけないと思うが。
佐々木:僕だったら次のように考える。牛乳をまずやめてみる。その分のエネルギーと栄養素が減る。そしたら悪いことが起こるか?起こらなければなくて良い。けれど、起こるからそこに置いているのだろう。その理由はなにか?を聞いて見るのはどうだろうか。
 これはごく一部の理由に過ぎないと思うけれど、牛乳というのはかなり良いたんぱく源。そして子どもたちは体が小さい割に、大人の体の大きさに比べると、たくさんのエネルギーも必要。体が成長するから、かなりのたんぱく質も必要。だからたくさんたんぱく質を食べさせたい。たんぱく質の欠乏は成長不全に直接つながるので、たんぱく質が余っているくらいにたくさん与えたい。これが飢餓からの回避。余ってるくらいにたんぱく質を食べさせたいと思うのは、生物としての親の願い。そこを削れというのは親としては信じられない。
 けれど、もちろんたんぱく質は牛乳以外にたくさんある。たくさんあると言いながら何から摂りやすいかと言うと、いちばん摂りやすいのは肉、魚、豆、この3つ。それを増やしますか?
 日本人と東アジアの人たちは他の大陸と違って、大豆でたんぱく質を摂ってきた。余談になるが、学校給食関係の人に話を聞いたとき、牛乳を豆腐に換えたら?と言ったら、なんておっしゃったと思いますか?「衛生上豆腐は出せない、冷ややっこは出せない」と。外部の者が言うのは簡単だが、解決策を探すのは大変なこと。「私たちだってやりたいですよ」と言っていた。「なぜ抗議ばかりするのか?」と言われた。そう考えると、牛乳というのは、安全。高温殺菌で雑菌を0にしている。輸送管理が簡単、コストが安い。牛乳より高くなってもいいのか、食中毒の確率が高くなってもいいのか、それと天秤にかけてほしい、そういう視点を持ってほしい、と。そういう目を僕たちは持たなければいけないんだ、と思った。ただし、今のままが良いという保証にもならない。食べものの科学はとても深く、とても広く、我々が生活している上で、正しい科学を市民全員が持っていないと、ひたすら混沌としていくだけ。
上田:何がいい、悪いの応酬になると。
佐々木:真の栄養教育というのは、「食育」で話がすむ生易しい問題ではない。もちろん、子どもに魚を切らせて、魚にさわれない子どもを減らすのは良いことだけれど、一生のレベルを考えると、本当に力を入れるべきものは何か、を考えなくは。
上田:おっしゃることは本当に共感できる。食育活動をやっているが、そのメニューが和食の良さにできるだけ注目し、理科の実験と重ねて行っているが、今の小学校、中学校で、例えば中学年にもなればたんぱく質という言葉はさすがに出てきても、それがどのように取り込まれて、体の中でどうなるかとか、そういう話はほとんど聞いていないようにみえる。自分が食べているものを、自分で把握していないままである。そういうものを変えて行くために、食べものに関してそういう見方ができるようにしたいと思っている。
佐々木 食をもっと高度に、ひとつは理科、もっと理科教材として使って欲しい。昔の悪い意味での女子教育のなごり、その延長線にある食教育ではあってはならないと思っている。食べものに感謝をしましょう。それは大切。なぜ感謝をするのか、そこには自然の原理がある。自然や社会の原理原則を理科や社会が教えてくれる。考え方の道具を算数や国語が与えてくれる。中学校の教育の中で、いろんな科目の材料として、食を使って欲しい。研究者の側の問題だが、食に関して科学として出せる情報や知識を持っている科学者は、日本にはとても少ないと思う。150年間なかったことの結果だと思う。
 理科で子どもたちに教えて分かりやすいと思うのは、「動物によって食べるものが違う」ということ。どうしてコアラはユーカリだけで生きて行けるのか。猫はどうして野菜を食べないのか。牛はどうして草ばかり食べるのか。「なぜ?」という疑問が出てきたところで、じゃあ先生の話を聞いてみましょう、と。
 もうひとつ僕たちが行っている研究がある。子どもたちの食べ方を調べて、その子に返す。きみはこんなふうに食べていたから、と。クラスの中で見せ合いっこしてもらう。友だちと自分の食べ方が違うことが分かり、そこから話が始まる。一定の基準を設けて、誰が良い、誰が悪いではなく、「あなたのここが悪い」という言い方をする。物事には丸ごとペケとかってことはあり得ないということで。
 きみはここのところがね、という見せ方をしてあげると、子どもたちは見せ合って勝手に盛り上がっている。それが自己学習。人によって食べ方が違うということが分かる。どうして僕はここが悪いって出たのかな、じゃあ、考えてみよう。野菜の食べ方が少なかった子に手を挙げさせる。きみ、昨日は食べた?と聞いたりしているうちに、だんだんと分かってくる。あ、僕はこれか、と。そこで「自分」ということを学習する。良い、悪いと言うことをあまり早く言わないのが大事。自分と人は違う。
上田:私たちも、野菜のプログラムでそういうことをやってみた。1週間お母さんにがんばってもらって、携帯写メールで食事を撮ってもらう。匿名にはしたが、自分の食事が写真でずらっと並ぶので、それはもう集中度が違う。その手法は使えますね。
佐々木:日々が教材であると。教材として認識するか、使えるようにアレンジするかは、作る我々の手腕。教材自体は日常にあると。
 研究として、各栄養素と疾患との関係を調べるための技術を持っているのがこの研究室。全国の先生がいろんな研究をしていて、そのコントロールをしている。もちろんそれを使って論文も書いているし、たとえば小学校で何か調査をするというときにお手伝いをすることもある。それもお手伝いだけではなく、研究として成り立つものとしてギブアンドテイクが成り立つようにさせてもらっている。知識が集積されるようにしている。家政学部と違うのは、入ってきても料理の匂いはしないこと(笑)。パソコンしかない。
上田:栄養学や公衆衛生の疫学が合体した学会はありますか?
佐々木:ない。だからいきなり論文を国際誌に出すしかない。教育講演などはあるが、自分たちが発表しに行く場はない。しかし、世界には公衆衛生の中の栄養学、臨床の栄養学、そういう専門誌がたくさんある。それぞれの疾患、たとえばがんの中の栄養学というのもある。しかしそれは全部海外。
上田:食の大切さを強調していくのなら、日本でも科学的裏付けが必要になる。
佐々木:50年はそういう動きがなかったので、10年20年、少数の人間がやっていても無理だろうと思っている。ただ、このタネが次の世代につながってゆけば、30年後くらいにはひょっとすると違ってくるかもしれない。
 丁寧な研究、揺るがない事実を確かめて、それをためていく。一定数たまったら、自然に社会のほうが「あそこの情報は良い」と言ってくれると思う。日本はおもしろくて、車輪の回転が変わるまでは難しいが、動きはじめて一定のスピードが出ればそこからは早い。
 アジアでは、中国や韓国を含めて、韓国のほうがずっと先進国。中国は韓国より上に行こうと準備をしている。香港とシンガポールは自分の得意技で負けるまいとしている。日本がいちばん遅い。西ヨーロッパ、東ヨーロッパを含めて、たくさんの研究が進んでいる。基本情報も集まってきている。ネットワークもでき、社会に発信しようということも世界で動きが出てきた。
 日本も、その情報をもらってうまく発信していけば、日本の例ではないけれど信用できる。動物実験ではなく、疫学研究を通して得た正確な情報ソースを一般の人に分かりやすく翻訳をし、社会発信をしていくシステムを作る。そういう活動ができないかとけっこう本気に考えている。
上田:以前に社会技術研究開発センターの助成を受けて、市民にとっての科学情報のアクセスや提供のされ方を系統的に調べた。環境と健康の問題で、グリーンファクツ (Greenfacts)というサイトがあり、最新の専門の科学情報をアドバイザリーボードが信頼度や重要度を検討し、精選した情報に階層をつけて提供している。複数の企業や各国政府からのバックアップもあるNPOだが、一社の出資が突出しないように上限の割合を決めたりしている。
佐々木:なるほど。食べもの情報に関してこのようなサイトを始めようとして企業にもちかけたことがあるが、触手を動かさない。完敗した理由がまだ解けていないが。
上田:自社の食品の栄養的価値について、やはり科学的に明快な根拠を示せないなかで、健康や栄養面について情報発信していくのは大変だし、どこまでが”宣伝”でどこからが”客観的事実”なのか、見分けがたいような情報が流通している中ではなおさらだろう、という気がする。
話がずれるが、ショッキングな話で、日本は食料廃棄が多いので、そういった余った食品をホームレスの人たちなどに配るなどする「フードバンク」の活動を日本でも広げようと、日本にも拠点を築いた米国発のNPOを先日取材した(babycomでの連載の1つとして)。協力を地元のスーパーや食品店に打診したところ、軒並み断られた。理由は、「私たちのところから出したもので食中毒が出たら、イメージダウンになるから」。欧米じゃ考えられない、変な潔癖さ。

佐々木:食中毒が1人出ることのほうが、10人が飢餓にることより怖い。自分たちの被害を怖がっていながらCSRと言っている。もっといえば、食中毒が出たら、それが悪いというヤツがいるから悪い。言ってるヤツは誰か? マスコミ? 週刊誌? それを読むのは??
上田:また最初の話に立ち戻るわけですね(笑)。
佐々木:テレビのスイッチは入りっぱなしで切れないのか? いちばん悪かったのは、スイッチを切らなかった人ではないだろうか。市民のモラル、リテラシー、意識の問題に帰結する。■

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