高野雅夫
今日、国立大学は、独立行政法人化への圧力が高くなったことをうけて、「自己改革」を行おうとしている。しかしながら、この改革において「市民のための科学」を実現しようとする課題意識は、各大学の執行部にはまったくといっていいほどない。
基礎科学と大学の「説明責任」が声高に論じられているにもかかわらず、である。なぜそうなのか。そこにある構造問題をとらえて、変革の急所を明らかにしなければ、国立大学において「市民のための科学」を実現するための道筋は見えてこない。国立大学の内部にいて、私が気がついているのは、以下のような構造問題である。
1)官僚主導の大学「改革」
国立大学には、「大学の自治」があるにもかかわらず、文部省のコントロールが貫徹している。公務員の定員削減への対抗策として、国立大学は、組織「改革」を行って、その際に「純増」ポストを得て、削減されたポストをカバーするという手法をとっており、そのために、「改革」が常態化している。「改革」は文部省の意向に反するものは認められず、大学側はむしろその意向をみずからくんだ「改革」案を提示し、文部省がそれを認めるという力関係になっている。そのような「改革」のほとんどは、十分なアカデミックプランなしに行われている。文部省にも大学側が提出するアカデミックプランをチェックする能力はない。また、そのような「改革」プランが市民に公表されることもなく、文部省と大学側の密室の協議で「改革」は進行する。
そのような「改革」の中には、ひどいものでは、看板だけつけかえて中身は変わらないというようなものもある。このような「改革」が常態化して大学は荒廃する。
2)「専門家の専門家による専門家のための科学」
一方で、末端の研究者がやっているのは、「専門家の専門家による専門家のための科学」である。まず、研究費は申請書を書いて、専門家による評価・審査を受け、採択されてはじめておりてくる。研究結果は論文として専門ジャーナルに投稿される。投稿された論文は専門家によって審査され、認められてはじめて公表されることになる。論文は専門家のために書かれるもので、専門外の人の理解を助けるようなイントロダクションがつくことはない。専門ジャーナルに採択された論文の数の多い人ほど、研究費ももらいやすくなっていて、この構造はますます強められる。
専門家(ただし、ちょっとでも違う分野ではもう「しろうと」である)の集合は、学会をつくり、学術審議会という圧力団体を形成して、国家(文部省)と日常的に交渉している。予算を「とってきて」使うことが自己目的化している官僚機構と、「専門家の専門家による専門家のための科学」をやっている科学者集団とは、利害が一致する。(アリとアリマキの関係みたいなものか?)
ここに「市民のための」という論理が入り込む余地はない。
3)「科学技術創造立国」=「国益」のための基礎科学の振興
「科学技術基本法」は「新産業の創設につながる基礎科学」「国際社会の中で日本がリーダーシップを発揮することにつながる基礎科学」という二つの柱に投資しましょう、というものだというのが私の見方である。どちらも、「国益のための基礎科学」である(「応用科学」でない点がこれまでとちがう)。これは、明治の「富国強兵」「殖産興業」以来ずっと続く、日本の国家が科学へ期待するもののパターンである。
「専門家の専門家による専門家のための科学」は、これまで、「国益」とも矛盾しなかったと思われる。その振興は、国家にとっては一種の「泳がせ政策」で、100の「無駄」のなかから1の「役に立つ成果」があがればよい、そのことが経済と国家の発展にとって本質的に重要だ、という認識に基づいているものと思われる。
国立大学は創設以来、「国益」のための基礎科学研究と教育を目標にかかげて来た。「市民のための科学」という目標が掲げられたことはなかったし、今もない。このままいけば、これからもない。
では、どこに変革の急所があるか?私に明快なビジョンはない。少なくとも、以下のような点を検討する必要があるだろう。
1)大学「改革」の情報公開と市民によるチェック
官僚機構と「専門家の専門家による専門家のための科学」者集団が密室で科学政策を立案し実行しているのに対して、市民の武器は情報公開しかないと思われる。「市民のための科学」を実現するには、大学改革プランの公開と市民によるチェックが行える制度の裏付けがなければならない。市民の側にも、大学側が提出するあさはかなアカデミックプランのぼろを見抜く力が必要とされる。
もちろん、今日どこの大学でも行われている「外部評価」の場に市民が参加できるようにすることに意味はある。しかしながら、結果の評価ではなく、設定する目標をチェックする方が重要で、そのためには、改革プランの段階でチェックできることが本質的に重要なのではなかろうか。
2)「専門家の専門家による専門家のための科学」の空洞化
「専門家の専門家による専門家のための科学」に没頭している研究者に、「市民のための科学が重要だ」といっても馬の耳に念仏である。そういう科学者の「啓蒙」は不可能に近い。しかしながら、そういう科学はあるところまでいくと、空洞化する。例えば、ある分野では博士課程を修了する段階でも、研究の最前線までは到達できなかったりする。そういう状況では、若い研究者は「何のために」研究をやるのか、と自問自答せざるを得なくなる。そもそも、ハナのきく学生なら、そういう分野には進まないだろう。あるいは、巨大なプロジェクトの歯車としてしか、研究に参加できなかったりする。そういう状況でも意欲を持ちつづけられるのは、ごく一部の人間ではないか。少なくとも私には無理だ。
今日、特定の分野に限らず、科学全体が空洞化の傾向をみせているのではなかろうか。そうすると、科学者は「何のための」科学か、と問わざるを得ず、その時には、一つの有力な答えとして「市民のための」という答えがありうる。(もちろん別の答えもありうる。)
3)大学教育の空洞化
これまで大学教育は「専門家の専門家による専門家のための科学」をやっている科学者が「duty」として片手間にやってきたか、「専門家の専門家による専門家のため
の科学」をやりたいと思いつつ、教育の「duty」を背負わされ、「差別されている」と感じている教官が担ってきた。
しかしながら、「分数ができない学生」が目の前に立ちあらわれることによって、これまでの大学教育は破綻する。片手間やいやいややっているようでは授業がなりたたない。
また、相当前から、社会は大学卒業生に、大学での専門教育の知識や技術を問わなくなっている。そういうものは、企業や役所の中で役にたたないからである。「専門家の専門家による専門家のための科学」をやっている科学者が行う大学教育は、社会の要求とはかけ離れてしまった。
一方で、国立大学の「リストラ」=スクラップの圧力が高まるなかで、国立大学がみずからの存在を正当化する論理は「大学・大学院教育を担っている」という一点に収斂されつつある。ここに、誰のための教育か、と大学教官が問わざるを得ない状況がでてきている。その一つの有力な答えとして「市民のための」という答えがありうる。(もちろん別の答えもありうる。)
4)やりがいのある研究・教育課題を提案すること
空洞化した科学と教育の現場で、教官も学生もかなりの程度、やる気を失っている。ここに、大学の荒廃がある。理学系の分野では、教官は、あなたの研究が「何の役にたつの?」と聞かれて、「何の役にもたちません」と答えるのが半ば常識になっている。そういうことに学生が意欲をもって取り組むわけがないのであって、やりがいのある研究・教育課題を具体的に構想することが求められている。直接、実利的なことに役立つのではなく、それでもはっきりと誰かの「役にたてる」実感をもてることが、基礎科学を生き生きとすすめていく上での栄養であると私は思う。私はそのような課題を探索中である。