「大学論・その論点」に寄せて

投稿者: | 2000年1月10日

井口和基
(井口のコメントは●部分)

<はじめに>
まずここでは、現在の日本の大学を念頭において、考えられるさまざまな問題点をかなり無造作に列挙してみます。
大学は、税金(および一部の企業からの資金)と徴収した授業料を使いながら、人材、情報、知的資源などを集約して、研究、教育、技術開発などをすすめていく場として、社会の中で大きな役割を担っています。しかし大学はこれまで、他者の支配を受けずに独立して真理を追究(学問研究)することを建前としながらも、実際は「政府セクター」や「企業セクター」の意向を優先させることで、市民社会全般に対して本来果たすべき「社会的貢献」を十分になしてこなかったとも考えられます。ここ10年ほどの間に大学院重点化や任期制導入などの「改革」がすすめられ、今「国立大学の独立行政法人化」が唱えられる状況の中で、じつは一向に見えてこないのは、大学自身が自己の社会的な存在意義をどうとらえ、それを実現するためにどんな改革を必要だと考えているのか、という根本的なビジョンです。行政側の「改革」に押し流されてしまいそうな気配がただよっているだけで、明確な自己アピールが出来ない最大の理由は、文部省や産業界の顔色をうかがってばかりいて、視線を市民に向けてこなかったこと、つまり、大学自身がかかえている問題をきちんと市民に対してさらけ出し、市民にとっても納得のできる改革をすすめようとする姿勢がなかったことにあるのではないでしょうか。

ここでは、「権威」をかざして閉じこもりがちな大学に対して、市民との対話の回路を築いていくことを前提に、よりよい社会的貢献をなしえる大学への変貌を促すために、市民の側から問題提起を行うのが目標です。
ここで示した論点をたたき台にして、議論を深め、整理して、一つは「市民の側からみた大学:改革にむけての提言」としてまとめ、かつ、できれば50人ほどの大学関係者から実際に意見寄せてもらう「アンケート」として質問項目を提示できればと思います。幅広い問題を網羅的に扱うのではなく、「市民のための科学」を実現するという観点を中心にして問題を整理し、論じたいと思います。

●これは全く素晴らしい目的です.成功することを祈ります.
<論点>
(1)大学が開かれた存在となるために、社会の他のアクター「企業」「行政」「市民」「地域自治組織」「他大学」「中等教育機関」などと恒常的にどういう新しい連携を持つべきか。あるいは既存の関係をどう改めるべきか。
●「国家」と「企業」の2極構造から,「国家」と「企業」と「市民」の3極構造へどのように転換すべきか?が問題.言い換えれば,「大学人」は「市民」とどうやって痛みを分かちあえるかということが問題.現在の状態では,「大学人」は自分の身分さえ安定していれば,社会がどうなろうが関係ない.これが一番の問題.
(2)大学の独立性を高めるために、新しい財政支援の方法を上記のアクター間の連携の中でいかに位置付けるべきか。財政、資金運用面からみた大学の「古い体質」や非効率なあり方をどう改めていけるのか。市民が直接財政的に支えることの可能性はあるか(授業料以外の方法で)。大学の独立性と生産性を高める「ファンド」や公的財政支援のあり方は何か。
●アメリカの大学では,零細中小企業のオーナーたちもさまざまな奨学金や賞金を提供している.良く学んだ学生やよくやっているスタッフを何らかの形で表彰することは彼らの動機づけのためには極めて重要である.
(3)大学の市民社会への開放度を具体的に検証できるか。図書館や教室スペースの市民向けの開放、市民の要求にみあった公開講座(カルチャーセンターではなく)、地域作りのための連携研究などの先進的な事例は何か。ある大学で実現している「先進事例」が、他の大学にも広めるようにするには、何が必要か。たとえば各大学に設置されることになる「運営諮問機関」(99年国立学校設置法・改正)に市民が参加することはできるか。
●特に,市立大学,県立大学,国立大学には,市民,県民,国民のチェックができるようになることが重要である.同時に,大学の学長,理事長へアドヴァイスできる市民による諮問機関(カウンシル)が必要である.同時に,大学裁判所(University court)を設立して,大学内の問題解決に市民代表が入れるようにすることが大事.
(4)地域経済や地域文化と結びついた大学のあり方とは何か。地方分権の動きとどう関係づけるのか。「国」との関係、地域の中での大学の独立性をどう考えるか。
●これは,大学が単に「大学」という建物の中にあると言うのではなく,「大学都市」という形で,地域に根付いてゆくことが根本的に大事である.「日立」といえば,日立製作所を意味するように,あるいは,「霞ヶ関」といえば,
官僚の場所を意味するように,日本には企業や政府については地域とその意味するところが一致するような都市がある.しかし,地域の名が大学の名を意味するような地域は未だに存在しない.欧米には,オックスフォ-ド,ケンブリッジ,スタンフォ-ド等のようにそうした地域は無数にある.同時に,ウィンブルドンといえばテニス都市である.
(5)「学問的成果の社会的還元」をどこまで検証できるのか。使われた税金の正当性をどう確かめることができるのか。何らかのチェック機構を想定できるのか。学問研究の自律性とその社会的コントロールは、どういうバランスを保つべきか。
●まず,上でも述べたように,大学が「大学都市」として存在するだけでも,社会的還元の採算は取れていると考えるべきである.次に,学問とその応用や還元は本来相容れない別個のものである.例えば,医学と病院は全く異なる目的を持つべきである.それが渾然一体となってあいまいなのが日本の大学である.これはもっと明確に区別されるべきである.そして,この区別があってはじめて,ジョンデュ-イのいう,理論(学問)と実践(応用)が意味を持つ.この時,大学にはそれぞれの「学問の場」と「その実践の場」の両方が必要であるが,日本でその両方を持つ学問は限られている.例えば,医学に対しては大学病院がその実践の場であるが,経済学の実践の場である銀行や,経営学の実践の場であるデパートやホテルは日本の大学にはない.物理学や数学の実践の場はいわゆる「研究所」である.同様に.スポーツの実践の場はそれぞれの「スタジアム」や「競技場」である.芸術では「劇場」や「映画館」などである.マスメディア学にとっては「新聞」,「テレビ」,「ラジオ」,「インターネット」などがその実践場となる.アメリカの大学はこれらすべてが存在するが,日本の大学にはほとんどないのが現状である.
(6)「大学を適切に評価する仕組み」とは何か、どうあるべきか。学術審議会の委員がそれにあたるのか。「市場の評価」とは誰が下す評価か。正当な評価は可能か。大学が行っている自己点検・評価はうまく機能するのか。第三者評価の実態は。大学間、教授間、学生による評価、国際間比較評価……など、あるいは市民による評価の可能性は。
●ロングタームでは,卒業生が「ノーベル賞」を取ったり,社会でどれほど成功したか貢献しているか,あるいはどれ程「犯罪者」を生み出したかで分る.これは10年,20年のタイムスケールになる.ショートタームでは,卒業生がどれほど社会の主要なポストを取ったかでわかる.これは2,3年のタイムスケールになる.特に,民事ではなく刑事事件の社会犯罪者を生み出した大学は公表され,避難されるべきである.たとえば,HIV薬害などの郡司氏を生み出した東大のような大学は減点されるべきである.研究費削減や予算削減という形で「報復」あるいは「罪の償い」が行われるべきである.逆に,「ノーベル賞」などや多くの賞を取った大学も公表され,「報賞」されるべきである.
(7)大学の人事・人材登用の面で、画期的な改革を断行する用意があるのか。市民から高く評価される人物を登用することは、大学の活性化につながらないか。新しい多様な人材登用の事例があればそれを分析し、その成果を検証する。大学の「人材の流動性」を問う。
●大学人事では,同じ力を持っている人なら,社会経験のある人を選ぶとか,マイノリティーを選ぶとか,大学が率先する方策を外部から大学を強要すべきである.いわゆる「純潔主義」の弊害と老害が目に付く.
(8)これまで大学人として「市民セクター」とのかかわりを持ち、「市民のための学問」を実践してきた人々の例をあげ、その事例から現在の大学の問題点をあぶりだす。また、現在そうした「市民のための学問」を志向して新しい学問のあり方を提唱している人がいれば、その人の構想を検討する。
●まず大学のいわゆる「教職員組合制度」を廃止し,改革すること.これがない限り,大学は教職組合の談合の結果,無能な職員や病気で業務出来ない人1人ですら退職させることはできない.大学の多くのダメな職員は,親方日の丸で,国と教職員組合の2枚重ねで市民の目を誤摩化してきている.多くの大学では,この教職員組合が「共産党」を意味する程政治と密着している.政教の自由という立ち場からも,政治色強い教職員組合は,廃止すべきである.代わりに,アメリカの大学教授組合のような,技能に応じた新しい組合を設立すべきである.
(9)大学人のモラル、自浄機能を高める(業者との癒着やセクハラ、研究上の怠慢などに対する厳しい処置)には何が必要か。
●これは,(3)で述べたように,大学裁判所(University court)を設立する以外にはない.アメリカの大学では,各学部代表,学生代表,軍代表,州代表などが問題になっている職員や学生の意見を聞く.日本でもこれを作るべきである.
(10)外国人講師・教授の採用や、海外留学生の採用を大幅に促進していくべきではないのか。そのための前提となる「国立大学教員=公務員」という位置付けをどう考えるべきか。海外との学生の交換をはじめ、国際的な流動性を高める工夫はどの程度なされているのか。
●基本的には,「国立大学教員=公務員」を止めるべきである.これがある限り,大学のアカデミズムは退廃し,公務員崩れして行く.大学個々が職員を個々の能力に応じた形で「プロ契約」するのが一番フェア-なやりかたである.まったく,プロ野球やJリーグと同じことである.
(11)「改革」に向けた大学相互の意思形成はうまくいっているのか。「国大協」はどうか。各学会はどうか。「行政・文部省」対「個々の大学」という構図では問題は解決しないのではないか。
●これはうまく行かない.これは,日本の「学閥」の伝統と「日本人メンタリティー」のせいである.なかなか「東大閥」を崩すのは難しい.なぜなら,すでにこの構造で利益を得る人間が多すぎるからである.これに挑戦するには,「海外の一流大学との提携」しかないだろう.
(12)研究と教育のバランスを、教わる側と教える側の両者がともに利することができるように、どう作り出していくべきか。「教養部廃止」の意味合いは何か。「よい大学教師」とは、研究者と教育者の両面の仕事をどうこなしている者なのか。大学での「教育」は、正当に評価されているのか。
●これは「研究教授」と「教育教授」の区別を行わないと不可能である.前者はオリジナルな論文を,後者はオリジナルな教科書を作ることが評価の題材にされるべきである.
(13)情報化の進展、学びの機会の多様化の中で、大学での「学問」にどのような意義付けがなされるべきなのか。大学でなければ学ぶことができないこととは何か。なぜもっと、社会人が必要に応じて学べる機会を、大学は提供しないのか。無償で学ぶことを制度的に保証することは無理なのか。「生涯学習」を大学は本気で考えているのか。
●アメリカの州立大学には「シルバー制度」があり,70歳以上は学費免除である.もちろん入試はない.入試の廃止とさまざまな免除制度が「開かれた大学」への最低限の条件である.
(14)「分数の計算もできない大学生」の存在をどう考えるか。大学生の知的能力や学ぶ気力の低下、大学の「レジャーランド化」という事態の構造的原因は何か。「学生の自治」は消滅したのか。体制に異議を唱え、知的に反抗する「自由」の場としての大学は、もう実現できないのか。
●これは特に驚くことではなく,「程度」の問題.問題は,様々なレベルに見合った大学講議を用意できるかどうかということ.小学校の算数でも,中学高校の勉強でも「初等クラス」として大学で教えればいいこと.ただしこれらは
単位には認めないで,入学条件クリアのためにすること.
(15)「市民の科学」の観点からみたときに、大学での科学技術研究、科学史・科学論研究のあり方のどこが一番問題であるのか。その問題は、大学のシステムとどうからんでいるのか。
●まず,日本で言う「大学」と欧米で言う”University”の概念は全く別物であることを認識すること.大学の定義からすべて再構築することが必要である.(井口和基「日本における大学院物理教育の問題点」(未発表)を参照#)(#なおこの論文を上田は井口さんから私信で送っていただきました。機会をみて、より多くの方に紹介しようと思います。)

 

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