村でみつけた生きる力

投稿者: | 1998年5月10日

第90回土曜講座(5月9日)では、フリーライターの真鍋じゅんこさん、写真家の鴇田康則さんを招いて、たくさんのスライドを映し出しながら、都会人には知られざる日本の過疎の村の今を語っていただきました。発表後の食事会の時も、参加者皆が多いに語りあった、大変充実した一日でした。ここでは真鍋さんご自身に発表の中身を改めて文章にまとめていただきました。参加者から寄せていただいた感想と一緒に掲載いたします。

村でみつけた生きる力

真鍋じゅんこ

はじめに

「よし、村へ行こう。何もない村へ」

写真家の夫と私は、一時期過疎村巡りにのめり込んでいた。アジアを旅するようになって、あまりにも自分たちが「日本」や自分の生活を語れないことにガク然としたからだ。

もちろんそれまでも、公私共々私達は旅をよくしていた。ファミリーレストランやコンビニエンスストアが、行く先々の国道をウイルスのように北上し、南下しはじめており、日本の食をはじめとする伝統を侵食する予感がした。折りしも1980年代のバブル期の真っ最中。竹下総理大臣が花咲かじいさんよろしく一億円を「ふるさと創世」と称して津々浦々にまでバラまき、キテレツな村おこしで村は騒然となり、都会人は滅亡した古代のナントカ帝国よろしく、酒池肉林の贅沢にまみれていた頃のことである。

私たちは意地になって都市文明ウイルスに侵されていない村を探しもとめた。幸い、というかその手の執念深さは夫婦共々かなり沸点が近く、他人には計り知れない趣味の世界にはまり込んでいた。曰く、リゾート地があってはいけない。ゴルフ場もいやだ。国道、鉄道も無い方が好ましく、近隣都市のベットタウン、大規模工場はいわずもかな、ダムも嫌いだが仕方がない……。

つまり立地の不便さゆえに、村が村として完結してしまうしかない、という所を求めたのだ。もちろん若い世代は、車を飛ばして町場に通勤していたり、パチンコに出向いたりするが、その辺は目をつぶる。そうした所になら、村の生活は程良く残されているに違いないと思った。

新潟県山間部の或るひとつの集落には7ー8年間毎月のように通い、人々の生活をビデオと写真に収めさせていただいた。次に北海道から沖縄までの40から50の村々を、雑誌の連載にかこつけて毎月覗いて歩いた。
東京に生まれ、高度成長期と共に育った私たちにとって、そこはエキサイティングな場所だった。村では出会った方々にさまざまなお話をうかがい、写真を撮らせていただいた。
立派なテーマがあったわけではない。ただただ面白かったのだ。

ところが10年経って振り返ってみると、私たちがしつこく追い求めていたものに、何か意味があるのかもしれない、と思うに至った。
私たちはこの間に所帯を持ち、子供が生まれ、曲がりなりにも生活者となった。すると都会のゆがみが改めて見えてくる。子どもをとりまく劣悪な環境をすっぽり村と取り替えて考えると、どうだろう、村はそれは素晴らしい場所なのだった。

もちろん村は村なりに様々な問題を抱えていて、その重みは都会の比ではないのかも知れない。しかしその辺はNHKのドキュメンタリー番組に任せておこう。かといって旅番組のように「村はのどかでみんないい人」と言い切れる自信もない。ただ都会のことは語る人は多いことだし、少しくらい「村はいいなあ」という人がいたっていいじゃない。ほめられて嫌な人もいないだろうし、郷土を振り返るわずかなきっかけになってくれれば幸いである。そして都市生活者は、環境問題だ何だのの極限に瀕して、村に学ぶべきことが大いにあるのではないか、と思う。そこで私たちが村の何に驚いたのか、をあげてみよう。

自給自足

自分達の食べ物、道具、家までも自分の手で作る。子供たちは野山で遊びながら山の木の実等のおやつを調達し、沢の水のありかを知る。

家畜の世話をし、畑を手伝い漁船に乗り込む。私と同世代の人達がこうしてその土地で生きてゆく術を、しっかりと親から伝授されている。

現在日本の自給率の低さを考えると、有事の際にはあっという間に大飢餓状態になるだろう。そんな時、自分の食いぶちは自分でまかなうことのできる人が、都会に何人居るのだろう。

村の人は季節ごとに採れたものを、塩漬け、乾燥等、さまざまな加工法で保存する。山菜、木の実、きのこ等の在り処も知り尽くしており、来年のために根こそぎには決してしない。

他所者が山菜等を根っこごと採り尽くしてしまうことを嘆いていた。そして、採った山菜を山の神様にお供えして感謝する。

離島では日用品の供給が現在でもおぼつかないため、何でも作る。沖縄の南大東島では耕作機械さえ自分達で改造してしまうため、耕作機械メーカーが、そのアイディアを盗みに来るほどだという。
もっとも自給自足には、人数制限がある。

江戸時代の完全国内自給自足状態は、厳しい人口調節の上に成り立っていたし、他所から嫁をとってはいけない等、離島や山村にも、厳しい掟があったらしい。

環境問題・リサイクル

山梨県のある村で、庭先の犬小屋の前にごっそり野菜くずをまき、犬がフンと混ぜ合わせて肥料を作っているのをみた。臭そうだが犬も労働の一端をになっている。更にその隣にドラム缶があり、半分まで詰め込まれた野菜くずの上に、ウサギが黙々とキャベツをかんでいた。エセエコロジストをあざわらうかのような究極のコンポストである。

冬場は山の落葉を大量に拾い集め牛小屋に敷く。暖かいし牛フンと混じっていい肥やしになるのだそうだ。この肥やしの素を庭の囲いの中で熟成させる。この時発生するメタンガスをパイプで引いて、カマドの火種にしていた家さえあったという。

ちなみに文京区の公園ではき集められた落ち葉は、ビニール袋に詰め込まれ、不燃ゴミとして処分されるそうだ。
食べ物のクズといえば、東京都のゴミは年間400万トン以上。うち生ゴミは37%で食糧供給量の15%、年間8兆円が無駄になっているという。昭和40年代までは、都市部の残飯で肥育させる残飯養豚が行われていたが、臭い、栄養が片寄って水ブタになる、手間がかかる、そして工場並の大規模養豚が主流になるにつれ、配合飼料肥育がメインとなり、今は残飯養豚はわずか1%になってしまい、大量の残飯はそのままゴミとなった。ちなみにブタは一日3kgのエサを食べる。豚用配合飼料は1991年の一年間で678万トンが消費され、それだけの穀物等をお豚様が喰いつぶしているわけである。犬猫も30%以上がペットフードに頼っているとみられ、国内流通量は41万トンで、2345億円の巨大市場が築かれている。飢餓にあえぐ国もあるというのに。

リサイクルその2

長野県のある村。台所には直接山の水が引かれ、塩ビパイプからこんこんと流れ出ていた。蛇口はない。排水はそのまま家の裏手の池に排出される。ごはん粒など小さな残飯は池で飼われた錦鯉が食べる。これでは合成洗剤等をたれ流す気にもなれないだろう。どこか知らない闇に流す事に慣れた私たちは、排水に心を配ることなどあっただろうか。

この池には台所以外からも山水が直接滔々と流れこんでいるので水はあっという間に浄化されるに違いない。ちなみに洗濯一回分の合成洗剤を、魚が棲める濃度に薄めるには実に32000リットルもの水が必要になるという。

ローマ・インカ帝国をはじめ、下水道の発達した都市文明はみな滅びているという。それに対して中国が今も続いているのは、4000年分のウンコを土に還元しているからだ。

肥料はもとより豚や養殖魚に喰わせ、その肉を人が喰う。私自身、ベトナムで、自分も使った池にせり出したトイレの下に広がる池の魚を御馳走され、感心するやら何やら……。

日本だって戦前までは都会人のウンコは貴重品であり、近隣の農家は金を払ってまでかき集めたものである。これを不潔といさめたのは、かのマッカーサーであり、バキュームカー発明の緒となったことも付記しておこう。

蛇足ながら、村を巡っている間に農薬漬けの農業に疑問を感じ、自然農法を営む人々にも出会ったし、有機農業をしたいが消費者とのパイプがない、と嘆く若者もいた。これなどは都会人にとって願ってもない接点であり、あらゆる意味で生活を見直す具体的なきっかけになるのでは、と思う。

コミュニケーション

村の人は優しいね、人なつこいね、なんて最初は素直に感動していた。すれ違っただけであいさつを交し、ついつい話し込んでいつの間にやらお宅に上がり込んではお茶やお昼ご飯を御馳走になっていた。なんて事がままあるからだ。しかし待てよ……。2日目、3日目になると、ちょいと怪しい気分になってくる。

「昨日、峠の茶屋におったんでしょ。」
「おととい○○さん家に行ったでしょ。あれ私の母の従弟の嫁さんの実家なんですよ。」
「……。」

村にふんわりと張り巡らされた村の情報網というクモの糸に引っかかっている自分を感じる。

村には昔、結界というものがあった。テリトリーだ。先祖代々ほとんど顔ぶれが変わることがなかった村だって少なくないだろうから他所者は目立つ。その上
「都会じゃあ、知らない人とは話をするな。と子供に教えとるそうだがそれじゃあ逆効果じゃ。わしは知らない人にこそ話しかけろ、と教えとります。」

高知の村に住む老神主の持論だ。余談ながら彼は一人で無人の神社を27社受け持ち、祭礼のたびに巡って歩いている。なるほど、これでは他所者は悪いことはできない。小学校では通りすがりの人にもあいさつをする運動を展開しているらしく、ランドセルの子供たちに大きな声で
「こんにちは」
と、呼びかけられる。神主さんの言うとおり、都会ではまず人を疑うようしつけるわけで、殺伐としてくるのも無理はない、と思った。

また、東京で2番目に人口密度の高い豊島区のアパート密集地で、古い家具が運び出されていたことがある。私が間借りしていた家の真向いだ。どうしたのかとたずねると、
「この部屋のおばあさん、一年前から姿が見えないんです。」

都会は砂漠だ、とつくづく思った。それに対し、福島県の山村で泊めてもらった旅館の大ばあちゃんは幸せだ。少々ボケがきて徘徊してしまうのだが、1時間も離れた集落から
「お宅のおばあちゃん、ここに来てるよ」
と、連絡してくれるのだそうだ。わずらわしいことはいろいろあるだろうが、村の監視網というのも悪くない、と思った。もっともこれが村八分になると酷い。昔話ではなく、実際に当人に会った事もある。ま、詳細は拙著(『ニッポンの村へゆこう』筑摩書房)を読んで下さい。

ところで旅をしていた当時は気付かなかったが大分県の市部に近い農業の町で講演させていただいた時、教えられたことがある。

行商人が村を見守る機能をになっているということだ。私たちがくっついて歩いたのは茨城で、野菜の種や苗を売る「たねやさん」だった。彼はおじいさんの代からの種屋さんであり、交通不便だが、自家用車を運転する若い人のいなさそうな深山の老人世帯を巡り、種の他、食料品や日用品を注文に応じて売り歩いていた。

そのスライドを見た大分の町役場職員は言う。

「私たちの町にも昔はそういう行商人がいたんです。一軒一軒回って村の様子を見てくれていたんですね。今も生協や移動売店の車は来ますけど、車の所まで客が出向かなくてはならずどうしても目が届かない。何か行商に代わるものがないか、と役場で話し合っていたところです。」

なるほど。都会の真ん中に母が一人で住む私たちにとっても身につまされる話だった。自治体の中にはヤクルトおばさんにその役目をになってもらっている所もあるらしい。

死生観

村に大病院はない。歯医者に通うのに車で一時間半もかかったりする。離島では雨が荒れれば船さえ出せない。実際小笠原島では「午前中に病気になれば助かるが午後では命取り」などと言われている。急病人の輸送は静岡県御前崎の海上自衛隊に依頼し、飛行挺を出してもらうのだが、有視界飛行のため夜間は飛べず翌日になってしまうからだという。(確かそうだったと思うけど、違ってたらごめんなさい。)
ともあれ119番すれば6分で救急車の飛んでくる23区内とは命の重みが違う。

そこで昔の人は民間療法にたけていた。ちょっとの疾患は自分たちで手当てをして治してしまう。たとえば奈良の山奥の民宿のおばさんの奥儀はこんな感じだ。
「もぐらの鼻血を3回なめれば、小児ぜんそくなんてコロリと治るで。」

こういう暮らしをしているせいか、村のお年寄りの中には死の仕度を整然と済ましている方がたまにいる。遺言はもとより死に装束まで仕立ててある。若い村人が別れ際に
「またおいでよー」
と手を振ってくれるのに対し、
「もうお会いすることもないでしょう」
と、深々と頭を下げられ仰天することもある。
(まあそのくせ、数年後にも元気であったりするのだが。)

村では死を私たちよりはるかに身近に感じとっているように思う。かつては家族に看取られ、村の人の手によって葬儀をあげ、悲しみを分かち合う。大家族であれば子供たちは人が年老いてゆく姿をまのあたりにし、死に対面する機会も多かったろう。葬儀屋のサービスマニュアルに従った葬式も都会のみならず村にだって浸透しはじめているだろうし、病院で息を引きとる人も少なくない。出産に至っては99.9人までが病院等の施設で行われている。生と死は家族から遠く切り離されたものとなっている。

それでも内閣総理大臣官房老人対策室の行なった、「老人の死についての意識調査」によると、「自宅での死を望む人」は90%を超え、実際の望ましい医療としては「最高の医療技術で可能な限り生きる」というよりは「余り不自然なことはせず、寿命に任せたい」が上まわり、80%となっている。ところが現実には1989年の統計では在宅死は30%以下に留まっているのが現状だ。

先ほど述べた小笠原村の母島で、私達はひとりのおばあさんを訪ねた。白髪をきれいになでつけた90才のおばあさんは、伴侶が75才で亡くなった時のことを話してくれた。
「おじいさんがね、『今何時だ』ってきくんですよ。『今は7時ですよ』というと『そうか、まだ早いな』って。それから2時間後の引き潮の時間になると、静かに息を引き取ったものですよ。」
おばあさんは自分にも余計な延命をしないよう、家族には伝え、静かにその時を待っていた。海のさざ波と共に魂が月に吸い込まれてゆく。これはもしかしたら人生最大の快楽かもしれない。

これが最新設備を備えた病院だったらどうだろう。
「あ……死ぬ……」
と、いきなり冷たい酸素マスクがあてがわれ大の大人が馬のりになって心臓マッサージを施す。激しさのあまりロッ骨が折れる。
「うぎゃー、苦しいー、助けて 死ぬー!」
離島で迎える在宅死は、いまや最高のぜいたくだったりするんだろうか。

まとめ

私の住む文京区には第三次産業、つまりサービス業従事者が76.3%、第一次産業は0%である。つまり誰も食べ物を産み出していない。

対して私たちの訪れた村々はおおよそ3分の1ずつのバランスを保っている所が多かった。
中にはサービス業が50%以上という村もあるがこれは人口が数百人単位と少なく、公務員の絶対数が大きいからだ。

勝手な憶測だがこのサービス業というのがクセ者な気がする。それはつまり
「私たちがこんな便利なことをしますから、あなたは何もしなくていいですよ」
という、人間の持つ能力を代行して奪い取ることが即ちサービスだからだ。極論すぎるかもしれないが。食事をつくってあげる、歩かなくてよいよう乗り物で運んであげる、明日のお天気を教えてあげる、病気を治してあげる、子供を産ませてあげる、死を看取ってあげる……。

何を隠そう私自身、そのサービス業の更に上澄みにたゆたう広告業に、長年携わっていた。

いかにトリックを使って必要のないものをこれがなければ生きていけないような気にさせて買わせるか、ということに腐心してきたのだ。(化粧品然り、雑誌のカタログページ然り。)

村を巡ってみて、そうしたエゲツない商法がそう全国津々浦々にまで浸透していないことにほっと胸をなでおろした。東京しか知らなかった頃は、日本はもう国土の80%以上が東京に染まってしまっているのではないか、とうがった考えを持っていたからだ。しかし実際に村から眺めると、東京はほんの針穴ほどの点でしかない。その針穴が重大事を勝手に決めてしまうのは問題だが。

話がとんだ。

つまり都会では多大な割合を占めるサービス業従事者の食いぶちを確保するため、人間の持つ能力を細分化して分担し、仕事を産み出してきた。人はこうして人としての生きる力を失わされてきた。
美しく整備された環境の中で、自分のウンコの匂いすら嗅ぎとることなく闇に葬り去る。

リサイクル流行は結構だが、その商品そのものがどんな犠牲を払ってこの世に誕生し、リサイクルのための加工にどれほどの負荷がかかり、その先どうなっていくのか私たちは知らないし見ようともしない。製紙会社が嘆いていたぞ。皆、古新聞は回収してもらうくせにしっかりとパルプ100% のトイレットペーパーを買う、と。

結局私たちは、見えない世界のほんのわずかな点の上で生きている。この点の周囲は全てコンクリートのかさぶたでおおわれた、巨大なブラックボックスだ。

私たちが村を見て驚いたのは、人間が自分の力で生き抜く能力と知恵がこれほど豊かだったのか、ということと、生まれもっての生命力だった。私の母くらいのおばさんに山歩きでは決して追いつくことはできないのだ。
それに加えてほっとするのは、人が生きてゆくかなりの部分が見渡せるからじゃないだろうか。父さん母さんの作った農作物を、母さんが調理し、家族のウンコは便所の底でちゃんと匂い、家畜は生まれて育って死んで人の口に運ばれ、天候は肌で感ずる。

もっともこれらはかつての日本のどこにでもあったあたり前の風景だろうし、ある年代以上の方々には、何がめずらしいものか、とあきれられるかもしれない。そんなのあんまりいいもんじゃないぞ、と、当の体験者たちは言うかもしれない。実のところ私自身、汲み取り便所の臭さは体にしみついているし、井戸水をキコキコ汲んでタライで洗濯する大人たちの姿を見て育った。一気にそこに帰れば環境には良いのだ、と説かれても二の足を踏むかもしれない。でも井戸水が水道水に変わった日の水のまずさを、今でも覚えている。

折りしも高度成長期、子供心に「便利さ」と引き換えに次々と失われていくものが、映っては消えた。いや子供だからこそ安易に新しくて貧しいものに飛びつく大人たちに疑問を感じたのかもしれない。

残念ながら消え去ってしまった、と思っていたものの数々が、いやそれ以上のものが日本の村に残っていたのを見て、もしかしたらまだ日本は大丈夫かもしれないと思った。

都会生活者が見習うべきは最早先進国ではなく、背後にひっそりたたずむ村の暮らしなんじゃないだろうか。

 

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