生命科学は市民社会をどう変えるのか ~『優生学と人間社会』を手がかりに(その1)

投稿者: | 2001年3月31日

生命科学は市民社会をどう変えるのか
~『優生学と人間社会』を手がかりに(その1)

上田昌文

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『優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(米本昌平、松原洋子、木勝島(ぬでじま)次郎、市野川容孝 共著、講談社現代新書2000)という重要な書物を手がかりに、生命科学の進展が社会にどんな変化や影響をもたらしつつあるのかを考えてみます(紙数の関係で2回に分けます)。なおこの文章の前半「はじめに--遺伝子主義時代の到来」の部分は、上田が雑誌『クーヨン』(クレヨンハウス社)2001年3月号に執筆した文章を手直したものであることを予めお断りしておきます。また、土曜講座では年内に「生命科学と市民」という名の研究プロジェクトを発足する予定ですが、ここで扱った優生思想の問題をはじめ、ユニークな角度から生命科学と社会の諸問題を扱っている研究者の方々を招いて、シンポジウムならびに連続講座を行なうことを予定しています。関心のある方は、是非ご連絡ください。ともにプロジェクトを立案してまいりましょう。

●はじめに--遺伝子主義時代の到来
あなたの元に一通のパンフレットが届く。「あなたの細胞を当社にお送りくだされば、当社ではそこからDNA抽出・精製して100倍に増やして、永久に保管いたします。そうすれば、(1)遺伝子からあなたの成功や才能や美貌や業績を分析でき、(2)親族の身元が確認でき、(3)あなたの遺伝子を増殖して頒布でき、そして将来には(4)もう一度あなた自身を再生することができるでしょう」……。
冗談とも本当とも判断しかねるこのサービスは、米国のバイオテクノロジー関連のベンチャー企業「インモータル・ジーンズ社」(”不死の遺伝子”社)が、実際に35ドルの手数料で請負っているものです。(『遺伝子神話をぶっとばせ』ルース・ハッバード&イライジャ・ウォールド著、東京書籍2000年、443ページ)
21世紀は、遺伝子の研究を軸にして爆発的に進展するバイオテクノロジーが、医療や農業をはじめ、人間の身体・生命にかかわるあらゆる領域に、ますます大きな影響をもたらす時代になりそうです。しかし、遺伝子について基本のところの理解を間違えると、「遺伝子決定論・遺伝子万能主義」とでもいうべきイデオロギーに取り込まれてしまうことになりかねませんし、技術の波に飲まれているうちに、これまでの人間観や生き方が著しく変質した「遺伝子管理社会」の到来を許してしまうかもしれません。いや遠い将来の話ではなくここ数年のうちに、あなたが健康診断を受けるとき、あなたの血液を調べて得られた詳細な遺伝子データをコンピュータで解析して、医者はあなたが将来かかるだろう病気のリストと罹患の確率をグラフで示しながら、治療と予防のメニューの選択をあなたに迫ってくるようになるかもしれません。遺伝子に関する知識に基づいて医療を施し、健康や生き方を設計していくことがあたりまえになる時代が、もうすぐそこまで来ているのです。

細胞の核の中にはDNA分子があって、その中のいくつもの領域が、それぞれに特定の順序や長さでアミノ酸を配列させるメッセージを含んでいます(そのメッセージはDNA分子中に含まれる「塩基」という部分の並び具合で規定されているので、DNAの「塩基配列」と呼ばれます)。指定どおりにアミノ酸がつながることで個々のメッセージに対応した蛋白質が合成されます。蛋白質は生体を構成している基本的な物質であるばかりか、生体内のあらゆる化学反応を起こす触媒となるなど、多彩な機能を担っています。さらにDNAには蛋白質の合成の時期や速さを調節する機能をもった部分もあります。
遺伝子とは、こうしたメッセージや機能に着目した場合のDNA分子の特定「区画」を意味します。そんなDNA分子の連なりにすぎない遺伝子が、人間の行動、態度、才能、病気になる体質などを”決めて”しまうのかどうかは、そう簡単に言えないはずなのですが、遺伝子にはこうしたことを可能にする何か神秘的な力があるように多くの人が思い込んでいるようです。生殖や遺伝という生物であることの最も普遍的で基本的なしくみを自身にかかえていながら、その精確なメカニズムを知ることは難しいので(たとえば「自分の背の高さ」が何によって決まるのか、説明できますか?)、遺伝子を持ち出してわかった気になろうとする傾向が、もともと私たちにあるような気がします。しかし、遺伝子の働きを少し勉強すればわかるように、人間の活動・行為のすべてにどこかしら遺伝子が関係するのは 本当だとしても、遺伝子がわかれば人間のことがわかるなどという乱暴な話は決して成り立ちません。
「ヒトゲノム計画」によって、全部で約30億対あるといわれるヒトのDNAの全部の塩基配列がほぼ解読されたと発表されました(2000年6月26日)。この成果を受けて、そのDNA上にそれぞれどんな機能を持った遺伝子を特定することができるかという一種の情報解読作業が加速していくことになります。様々な病気や体質の原因が遺伝子情報を手がかりに究明され、病気の予知・診断・治療が飛躍的に進歩する、などという見通しが語られています。

しかしここでも注意が必要です。遺伝子は外部との複雑な相互作用をしながら働くものであるし、生命活動の中には遺伝子の影響を受けない要因(たとえば環境的要因)によって決まっているものがたくさんあるため、現実には「いつ、どの程度発症するか」といった病気の予知は非常に難しく、特定の遺伝子情報に対応した治療法もほとんど確立していません。確かに今後、遺伝子の研究が進めば、膨大な遺伝子データベースを活用しつつ個々人の遺伝情報の差異を足がかりにして、生体内の生化学的反応の個人差を予測してその個人に適合した薬の設計や調合が可能になるかもしれません(「ゲノム創薬」)。また、米本氏が「これらの知見が人間の知能や行動と結びつけられるとき、本来は生物学の外側にあるはずの特定の価値観が混入しやすい」と危惧する(『優生学と人間社会』268ページ)領域、つまり脳神経系でも、そのメカニズムに対するの遺伝子レベルの知見にもとづいて、様々な精神疾患などへの新しい治療法が開発されるかもしれません。

しかしこうした遺伝子研究にもとづく”先進的な”治療法の開発を追求することは、本来あるべき医療の姿や健康のとらえ方をゆがめてしまう恐れが充分にあります。遺伝子に偏重した病気の捉え方が社会に広がることで、本来ならばもっと力が注がれてよい対策が軽視されてしまうのです。
私たちの多くは、身体のことを医者任せ、薬任せにしてしまって、「自分の生活や経験に即して自分なりに筋の通ったやり方で自分の心身のことを考察してみる」という、本来の意味で「科学的」と言えそうな態度を放棄しているのではないでしょうか。自分の身体のことは誰よりも自分が知っているはずなのに、その自分に固有の経験的な知を自身で深めずに、専門家の知に自身を委ねてしまうのです(自身の知を深めることではじめて専門知をどう活かせばよいかが見えてくるはずなのですが……)。そしてそうすることで、マスとしてみた場合、医療や医学・薬学研究に膨大な金が注ぎこまれることになり、研究それ自身は金がありさえすれば自己増殖的に細分化し肥大化する傾向がありますから、その結果専門知がますます幅を利かせるようになります。我々を不健康にし我々に危害をもたらす大きな要因である、酒、タバコ、不自然な生活習慣、ストレス、交通事故、有害化学物質や放射能による汚染などへの適切な対処を政策的に打ち出したり誘導したりすることで前進できることは多々ありながら、遺伝子研究を極めることで”画期的治療法”を追求しようとするような生物医学的な医療を偏重するのは、社会全体としてみると大きな不合理を生んでいると言えないでしょうか。医療に頼らざるをえない者が不当な負担を被ることのない状況を作っていく必要がある一方で、医療に過度に頼らない自分や社会をどうしたら作っていけるのかという視点を持ちつづける必要もあります。

さらに「障害」というものをどうとらえるかという点でも、遺伝子研究の進展は新しい局面を私たちに突きつけています。
日本でも急速に普及している技術に、妊娠中の母親の血液を採取して胎児がダウン症であるかどうかを検出する出生前診断(母体血清マーカーテスト)がありますが、この種の検査を着床前の段階で行う「受精卵の遺伝子診断」も米国ですでに実施されています。体から取り出した卵子と精子を体外受精させ、その受精卵に遺伝子診断を行い、「正常な」受精卵だけを選別して子宮に戻して、障害をもつ恐れのある子どもが生まれるのを予め防ぐ、というものです。これには、母体にかける負担(ホルモン剤投与や多胎妊娠の危険)の問題や、遺伝子が詳しくわかればそれだけたくさんの検査法が開発され、検査する側がますます儲かるという一面もあります。

恐ろしいのは、いのちの選別という技術的解決が、「障害」に対する私たちの想像力を鈍らせ、「障害=行く末の不幸=排除すべきもの」という傲慢な決めつけを社会に浸透させてしまうことです。遺伝学が「人類を改良し、健全なる子孫を残す」ことに熱を上げ、国家が断種や抹殺を正当化した歴史があったことを、私たちは忘れるわけにいきません。
より健やかにより長く生きたいという欲望の存在自体は、誰にも否定できないことなのでしょう。しかしだからといって、技術の力を強めてその欲望を無制限に満たしていくという選択は、はたして正しい選択なのでしょうか? そしてそうした金のかかる選択を皆が取れるようには決してならない--富める者と貧しい者の間の命の線引きが露骨になる事態が、技術の進展によって引き寄せられてきているのではないでしょうか?
バイオの力を借りた「スーパーボディ」や「パーフェクトベビー」などが歓迎される社会をあなたは本当に望みますか? もっと別の社会を選び取らねばならないと、私は思うのですが、ではその別の社会とはどんな社会なのか?

●優生思想の歴史を振り返ることの意義
先ほど私は、「遺伝学が”人類を改良し、健全なる子孫を残す”ことに熱を上げ、国家が断種や抹殺を正当化した歴史を忘れるわけにはいかない」と述べましたが、では私たちはその歴史についてどれほど正確に把握しているのでしょうか?「断種」(強制不妊手術)や「抹殺」という言葉を聞いて、ナチスの優生政策--つまり大規模な断種と安楽死をもたらしたヒトラーの政策を思い浮かべるのだろうと思います。中にはホロコーストに到るユダヤ人への人種差別と政治的迫害とこの優生政策を同一視していらっしゃる方もいるかもしれません。
しかし『優生学と人間社会』が教えるのは、そうした漠然とした概念的理解では、歴史を正しくとらえていることにならないし、今私たちの間で進行している事態を見据えることも難しい、という点です。
たとえば論理的に考えても、優生学と抹殺はある意味で背反しあうものであるはずです。市野川氏が言うように、「優生学は、”低価値者”とされた人が生まれないようにするために、遺伝の仕組みを解明し、またそのための技術を開発しようとする。もしそうした人びとを生後、殺害というかたちで淘汰することが許されてしまうのなら、優生学はその存理由を失ってしまうのである。」(103ページ)
また、「安楽死計画の犠牲者にはユダヤ系ドイツ人も含まれていた。しかし、その犠牲者の多くが生粋のドイツ人だったという事実は残る。安楽死計画は反ユダヤ主義ではけっして説明がつかないのである。」(106ページ)という指摘や、第三章「北欧--福祉国家と優生学」で群述されている、ナチスのような残忍な政治的迫害がないような国においても、ナチスと類似した優生政策が実施されていたという事実を受けとめて、私たちが抱きがちな一面的なイメージを歴史的事実に即して改め、優生思想がどのように形を変えて生き延びる”ダイナミズム”をもっているのかをつかみだす必要があるのです。

たとえば、松原洋子氏は、日本において戦時中に成立した国民優生法よりも戦後の優生保護法の方が「優生」に関する規定が強化されていることを明らかにしています。この事実は、国家による思想統制が著しかった戦時中と民主化した戦後という対比からでは容易に想像できないことです。1995年に突如として優生保護法から優生条項をはずして母体保護法に様変わりしたという法律改正に、ほとんどの国民が注目しなかったということからも推測できるように、私たちが優生保護法に示された思想をさしたる疑問を抱かずに受け入れてきたという経緯は、私たちがなにより厳しく向き合わねばならないことがらだと思われます。経済成長推進のための国の人口資質向上対策、厚生省のとってきた重度心身障害児収容のための施設の大量拡充、先天異常の遺伝学とからんだ障害者対策としての発生予防研究プログラム、母子保健教育によって指導されてきた「優生結婚」や「不幸な子どもを生まないための運動」……等々。松原氏が精緻に跡付ける歴史から浮かび上がってくるのは、「福祉」のコスト軽減などをも含んだ、経済的生産性を上げるという目標には、驚くほど従順な国民の姿です。そして、その従順さが「日本では、優保護法のもとで、総計84万5000件(1949-1996)の不妊手術が公式統計上報告されている。中絶件数と任意あるいは強制による不妊手術の件数はいずれも1950年代半ばから60年代頃までがピークであった。」(172ページ)という記述に示されているような、優生保護法を根拠にした痛みを伴った選択をかくも多くの人々に強いてきたのだ、というなんともやりきれない印象です。松原氏は先の記述に続けて、「この数字の意味を日本の戦後史の中で検証する本格的作業は、まだ行なわれていない。」と注釈していますが、私たちが優生社会に生きてきたことの意味をこの数字から汲み取るような視野を獲得しない限り、遺伝子主義時代に胚胎している新しい優生思想にも的確に立ち向かっていくことができないのではないでしょうか。

●自己決定という名の陥穽(その1)
『優生学と人間社会』には、この新しい優生思想を見据えていくためのいくつかの手がかりを見出すことができます。たとえば、「自己決定」がその一つです。
インフォームド・コンセントの普及によって、医療を受ける側の患者が治療の選択を医者と話し合いながら判断していけるほどに”賢い患者”になることが大切だ、という言い方がなされるようになりました。しかしたとえば先に述べた出生前診断を受けるか受けないかといった場合の「自己決定」とは、何を意味するのでしょうか?
その診断を前にした女性が下す決断は、社会の中での自分や家族、障害者が置かれている状況をその人なりに引き被ってなされるものに違いありません。「もし障害をもった子供が生まれたら……」という憂慮は決して個人に由来して個人の中で完結する問題ではありません。しかしあくまで生む・生まないの決定と責任は個人に委ねられます。こうした状況にみられる、自己決定に根ざした優生学を「レッセ・フェール(放任主義)優生学」と松原氏は名づけています。次回はこの問題を入り口にして、「健康」という概念にとって社会と個人はどう関係付けられるのかという点を探ってみたいと思います。(続く)

 

 

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