「動物実験は科学的か?」に参加して

投稿者: | 2001年3月31日

「動物実験は科学的か?」に参加して

小林一朗

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先日の土曜講座での上田さんの発表については日本では得にくい知見を紹介していただき感謝しております。都合があり先に失礼したことをお詫びします。ロジックが分かりやすく、密度も濃い発表だったと思います。

リスク論がはらむ問題については多方面から指摘したいですね。私は恩恵を受ける側と受けない側の不均衡を問題にしたいと思います。南北問題ですね。リスク評価に挙げられるメリットは先進国、金持ちが得て、デメリットは貧乏人や南の国に被せられる。評価する者にとって都合のいいリスク評価ですね。

一方的に化学物質に汚染される鯨やアザラシ、それを食べるイヌイットたちにリスク論的に見て、どう補償をしていくというのでしょう。決して償うことなどできないのに私たちのメリットが強調されている気がしますね。

民俗学的な視点から見た人間と動物、植物とのかかわりについてを含め議論したかったのですが、先に帰らねばならず残念でした。その話をし出すと論点がずれてしまうので早退してちょうどよかったかも。

私は動物実験のみならず、人間が生き物をペットにするという行為自体に人間のおごりを感じます。動物を自分の虜にしてよいという許しを誰によって私たちは得たのでしょう?もちろん、飼えば愛着も湧くし、何らかの教育効果や精神的効果があることは否定しませんが、そうしなければ心の平穏が維持できない人間社会に問題がある気がします。
多くの方には抵抗のある考え方かも知れませんが、だからこそ根の深さを感じるのです。動物寵愛の行為は尊いが、実験は悪という考えについて。どちらも他の生物に対する人間の驕りから生まれた行為です。動物には本来、人間に飼われること、不自然な生活を強いられることは不幸です。しかし、そこに”愛”が関わると物の見方が一変しやすいです。そこでイデオロギーがぶつかり合います。

自分のペットは可愛がるが家畜は食べることのおかしさ。しかも自分で絞めることはなく他人に屠殺させ、屠場を蔑視するおかしさ。また、タイや南方の島嶼国の人たちが食べていた魚を貿易の名の元に取り上げ、”グルメな猫”の餌にすることのおかしさ。しかも、缶詰は彼らが工場で作っているというのに、彼らには缶詰が与えられず日本に輸出されていることのおかしさ。
ペットロス症候群などありますので、むやみに動物を寵愛している本人から取り上げることがいいとは思わないものの、隣にいる人同士で助け合えずにペットに依存しなければならない状況があることに現代の病巣の奥深さを垣間見る気がしています。極度の動物愛護と実験による犠牲の容認は実は同じ物を別の角度から見ているのではないか、と感じます。手のひらの表と裏のようなものですね。

一部ベジタリアンによる狩猟採取民俗蔑視の考えも耳にします。菜食中心で生きることが悪いとはまったく思いませんが、生きる風土の違う他民族にまで拡張して考えるのは新たな啓蒙主義のような気がします。世界には大きな誤解があります。狩猟採取民族が環境を壊したという誤解です。現実にはアングロサクソンは小麦型の農耕民族であり、狩猟採取民族は概ね先住民族です。狩猟採取民族は自らの命を育んでくれる環境を自ら壊すなどという愚かなことは決してしない。外部からやってきた農耕民族によって壊されたのであって、啓蒙主義によって自分たちの宗教も破壊されたのですから。だから私は啓蒙主義的な考え方を受け入れることができません。(啓蒙と啓発はまったく意味合いが違いますね。)

これらは私見ですが、動物の話になるとつい黙っていられなくなります。日本という風土の中で、私たちの先祖は何を敬い、どのような世界観で生きてきたのか、現在の動物愛護にはその繋がりが感じられないのです。(動物実験に対し賛成しているわけではないです。)

縄文以来の人間-自然 との関わりや文明圏以外での同様の関わりについて振り返ってみるといかに現代が不自然になってしまっているのか見えてくるのではないかと思っています。
来週、東北の取材ついでに三内丸山遺跡まで足を延ばしてきます。縄文には21世紀にどうしても取り戻さなければならない高度な知恵が詰まっていますので、5月の土曜講座での私の発表でも触れたいと思います。
縄文に感謝しましょう。じょーもんありがとう!

 

 

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