『エンハンスメント論争―身体・精神の増強と科学技術』 あとがき

投稿者: | 2007年10月2日

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『エンハンスメント論争―身体・精神の増強と科学技術』
(上田昌文+渡部麻衣子 編、社会評論社2007年)
あとがき
 私たちの社会は、意識するしないにかかわらず、人間が持つ様々な「能力」によって存立している。生命活動のための運動や感覚や消化や生殖にかかわる基本的な「能力」、さまざまな願望や欲望を満たすための体力や知力や経済力や創造力、さらには開発や支配や統治に関わる技術力や軍事力や国力など、その広がりやとらえ方はいろいろだが、少なくとも近代社会は、こうした能力を可能な限り高めて欲望の充足にあてることを基本的に是とする社会であり、私たちの価値観や”成功した人生”のイメージもそのことに大きく規定されている。高い能力を身につけることで、人は幸せになり、社会は豊かになる、と皆が信じている。
 科学技術は、実現不可能にみえた夢、充足不可能にみえた欲望ををかなえる能力を次々と私たちに付与し、そのことで私たちに新たな夢や欲望を喚起してきた。この”欲望と能力のスパイラル”の駆動力として科学技術に、今、新たな(究極的な?)局面が生じている。ロボット工学、脳科学、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術などの先端技術によって「人間が人間を改造する」ことが当たり前になる社会が到来しようとしている。エンハンスメントは、この新たな局面を包括的にとらえる概念と言えるだろう。不老不死、人体と機械が融合した超高性能のサイボーグといった、いまだSF的なイメージがつきまとうものから、遺伝子診断や遺伝子治療など生命倫理の議論が集中する生命操作技術、そしてスマート・ドラッグ(集中力を高める向精神薬)や美容整形や人工内耳や人工眼内レンズといった、国によってはすでに広く普及している技術まで、人間の身体や精神に何らかの手を意図的に加えて、その能力を増強しようとする技術全般にかかわる。
 エンハンスメント技術による人間の「変え方」如何で、人間というものの概念が大きくゆらぎ、社会に大きな変動をもたらしかねない――そのことの意味を、私たちは探りを始めたばかりだ。エンハンスメント技術で何が可能になるのか、それはどこまで許されるのか、いかにしてそれを適正に制御するか、そしてそもそも私たちは何を望むのか、といった問題を、できるだけ多様な場において広範な人々で論じ合っていくことが、今求められているのではないか。”欲望と能力のスパイラル”に巻き込まれてしまう前に、議論を起こしていかねば、と本書第1部として訳出した原著『Better Humans ?』を読んで筆者(上田)は痛切に思った。
 『Better Humans ?』を編纂したデモス(Demos)は「日常のデモクラシーのためのシンクタンク」であり、科学技術の問題を含む複数のテーマでのプロジェクトを立ち上げ、イベントの開催や出版を通じてを専門家と市民に議論を提起している。現時点で263冊に及ぶその出版物はすべて無料でウェブサイトで公開している、という徹底ぶりだ。デモスに快く翻訳の許諾をいただきこの『Better Humans ?』を訳出したのは、科学技術に関連する社会問題を市民の立場から考究し、市民と専門家がともに問題解決にあたることを促進している、NPO法人「市民科学研究室」にかかわるメンバーたちである。
この翻訳の仕事は、2年ほど前に、当時市民科学研究室の「生命操作勉強会」に所属し研究員を務めていた渡部麻衣子(現・北里大学)が原著を上田に紹介したことに端を発する。上田は、自身が特任教員を務めていた東京大学「科学技術インタープリター養成プログラム」に在籍する学生であった住田朋久、古谷美央、倉持哲義に声をかけ、合計5人の翻訳チームを作った。途中から、生命倫理分野を専攻する土屋敦が加わり、渡部、住田、上田と共に訳文のブラッシュアップを行うと同時に、第2部の日本人研究者による論考の再録の依頼にあたった。なお翻訳に関しては部分的に杉野実氏にご助力いただいた。第2部は、「前書き」で渡部が述べるように、日本でのエンハンスメント論議の出発点を示す論集になっているだろう。論文の再録をご快諾くださった著者の皆さんである、加藤尚武氏、松田純氏、金森修氏、粟屋剛氏、霜田求氏、島薗進氏には、心から感謝したい。
 市民科学研究室では、本書『エンハンスメント論争』の出版を機に、今後もこの問題を社会に広く提起するために、財団法人・未来工学研究所の和田雄志氏らと共に、「未来身体研究会」を立ち上げた。2ヶ月に1度の研究会をスタートさせている。2007年11月には、この研究会の主催で「サイボーグに未来はあるか? エンハンスメント技術の光と影」というシンポジウムを、技術開発者、生命倫理研究者、社会学者、SFアニメ脚本家などを招いて実施する(11月25日、科学技術振興機構主催の「サイエンスアゴラ2007」の中の催しの一つとして)。エンハンスメントの多様な広がりをおさえ、そこに内包される、あるいはそこから派生する複雑な問題をみすえていくための試みを、ウェブも活用しながら精力的にすすめていきたいと思う。意欲ある方々の参加を期待したい。
 最後に、翻訳にあたって貴重なアドバイスをくださり、市民科学研究室の活動にも共感と支援をいただいている社会評論社の松田健二氏に謝意を表したい。
2007年10月23日 上田昌文

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