【書評】 市民科学箚記ここに誕生す!! 「科学を開く 思想を創る―湘南科学史懇話会への道―」 猪野修治著(つげ書房新社 2003年)

投稿者: | 2003年4月20日

【書評】 市民科学箚記ここに誕生す!!
「科学を開く 思想を創る―湘南科学史懇話会への道―」
猪野修治著(つげ書房新社 2003年)
評者・森 元之
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文科系の学生だった私の指導教官は、自分のライフワークとして書誌学を専攻されていた。特に中国や朝鮮の古文書がテーマだった。その先生から教えて頂いたいくつかの文化的知識の中に「箚記」がある。
 あまり見慣れない文字だが「サッキ」とか「トウキ」と読む。字も「箚」をつかったり「剳」をつかったりするが、どちらもほぼ同じ意味だ。大修館書店の『大漢語林』には「サッキ―書物を読んで、得る所のある部分を収録したもの。」とある。読書ノートとして自分が要点と思ったところを抜書きしたり、それに自分の意見を書き加えたりしたもので、それだけなら、本があふれる今の日本ではたいそう珍しくもないことだろう。
 しかし、この箚記というのは文科系の学問においては非常に重要なものだ。というのは今のように本が大量生産・大量消費される時代と異なり、紙自体が貴重品だった昔は、本というものも非常に貴重なものだった。版木を使ったものもあったが、書写によって本が伝わっていくという期間が長く続いた。そうした時代には中国や朝鮮の文化人や学者は、古典とされているものを読み、そこから必要なところを抜書きしたり、それに自分の意見を書き加えた。こうしたものは当人のメモ書きという以上に、子の世代や、あるいは広く後世の学問を志す人間にとって、ある人物が古典のどういうところを抜書きしたのか、ということ自体が学問上の参考になり価値を持つようになる。つまりそれ以前の学問の蓄積をある人物が自分の視点や考え方によって編集し、自分なりの体系にまとめると、それが次の世代にとっての新たな研究対象になるということで、「箚記」というのは本があふれかえっている現代の日本人が考える読書ノート以上の存在なのである。
たとえば中国の歴史分野では趙翼という人の「二十二史箚記」というのがある。これは「史記」「漢書」からはじまって「明史」までの中国の正史二十二の問題点を整理し論考したもので名著とされている。また、日本では江戸時代に大塩平八郎の乱を起こした大塩平八郎は実は儒学者であったのだが、彼が読んだ本の抜書きがまさしく「洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート」(タチバナ教養文庫)という名前で出ている。幕末の吉田松陰にも「孟講剳記」というのがある。
 なぜ、こうした文科系の知識を長々と説明しているかと言うと、「箚記」というジャンルが今の日本では忘れ去られているが、東洋の学問世界ではとても長い歴史と重要性を持っていることを知っていただきたい、ということと同時に、私が猪野修治氏の「科学を開く 思想を創る―湘南科学史懇話会への道―」を読み終えたときの第一印象として「この本は現代日本における”市民科学分野の箚記”である」と感じたからなのである。
 猪野氏の著作は、「Ⅰ自己形成、Ⅱブラジル日系人探訪、Ⅲ科学史・科学論、Ⅳ市民運動、Ⅴ核」という構成になっている。自己の青年期を中心に、生い立ちを記したⅠでは、学問に対する憧れと彷徨の末に、みずから湘南科学史懇話会を主催するに至るまでを記している。Ⅱはブラジルに移住した親族を訪問した記録。そしてⅢからⅤまでが, 猪野氏がこれまで読んできた科学分野の本についての書評をテーマ別に分類したものである。
 現実の猪野氏を知っている人は、このⅢからⅤの部分を読むと非常に戸惑い驚くのではないかと思う。実物の猪野氏からは、かつての旧制高校のバンカラ学生がそのまま歳をとったような印象を受けるのであるが、それぞれの著作を評するときの彼の文章は借りてきたネコのようにおとなしく生真面目である。それは評している本の著者を猪野氏が尊敬したり,信頼していることも理由の一つだろう。しかしそれ以上に、「学問」や「学び」「研究する」ことそのものに対する猪野氏の素直なあこがれがあり、同時に自分が若い頃に道半ばで挫折した学問の道で生きている仲間や後輩たちを応援したいという気持ちがあるからだと思われる。
 猪野氏はどんな著作に対しても、つねに初学者のように期待と不安な気持ちを併せ持ち、一字一句を漏らさずに受け止めよう、その論旨展開と背後にある著者の思想を理解しようという誠実な気持ちでそれぞれの著作に向かっていることが彼の文章からうかがえる。
 本というと自分の考えやオリジナルな研究成果をまとめたものという認識がある人から見れば、この本は書評の寄せ集めであって、猪野氏のオリジナルな意見がそれほど多く表明されているわけではない。また自己形成の話やブラジルに移住した親族の話も、自分史としての価値はあるが、猪野氏を直接知らない人には余り意味のない部分かもしれない。本というものの固定概念があればあるほどそういう印象を強くもたれてしまう構成になっている。しかし先に示した「箚記」という視点で見直してみると、この本は非常に優れた作品に仕上がっていると言えるだろう。一見無用に思えた自己形成の部分も、「ああそうか、若いときにああいう人生を送ったことが、のちにこういう学者や研究者と出会い、彼らの著作を読破するに至ることにつながっているのだ」と納得できるのである。そうした猪野氏の個人的体験と生きた時代の中からどういう人物の著作を選び取り、どこに注目して論評したかという点がまさしく「箚記」なのである。
 したがってこの本は、次の世代が「市民科学とは何か」、「2 0 世紀の後半において市民が科学とどのように格闘したか」を知りたいときには、まず第一に読むべき入門テキストとして位置付けられる本であると思う。東洋の学問ジャンルである「箚記」という伝統を受け継いだものであると同時に、市民科学という分野の剳記として新しいジャンルを開いた最初の1 冊として、歴史の中に位置付けられる本になると確信している。

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