「Bending Science研究会」より翻訳とエッセイ
市民研 「Bending Science 研究会」メンバーによるエッセイ(その1)
経済学における数学の誤用
杉野実
pdfはこちら→csijnewsletter_028_bendingscience_sugino2.pdf
Bending Science研究会で何か書いてみようという話が出たとき、真っ先に思い浮かんだのは、研究会メンバーの中で、私がほぼ唯一の文系出身ではないかということでした。理系にも関心があるからこそ、同研究会や、あるいは市民科学研究室にも関与しているのですけど、「理系も理解できる文系研究者」ならではの素材を考えたとき、思い出したのが経済学のことです。数学的な「外観をまとい」、文系も理系もひきつける何かをもつのが経済学ではないでしょうか。ここでは「科学の歪曲」の趣旨を尊重し、単に「でたらめな研究をしている」のではなく、教育やイデオロギーや政策を通じて、現実の社会にも重大な悪影響がおよんでいると思われる例を、とりあげることにします。
経済学を大学で学ばれた方も、少なくはないことでしょう...いや、「理系比率」が高い市民研では、それほどでもないのかな?ではその「少ないかもしれぬ」経済学士の方におたずねしますが、理論経済学が現実社会をうまく説明すると思われますか。その「理論の現実適合性」、いやむしろ「無矛盾性」をつきつめた結果、学界に受け入れられず「半生を棒にふった」方の例が、たとえば「消費選好場と相対性」と題するサイトにみられます。理論的な背景から説明しましょう。「人がどういう組み合わせでものを買うか」考えたとき、財x, yの数量をx軸・y軸とする座標平面を想定し、そこにひかれる直線である「予算線」が、買い手の好みを反映した「無差別曲線」と接するところで組み合わせが決まる、とするのが現代のミクロ経済学です。ミクロ経済学は結局それしかいっていないのですが、「同じ財の過去の購入量に影響されて現在の購入量がかわる」という(もっともらしい)仮定をもちこんで、新味を出そうとした大学教授がいました。ところがそこで、ある大学院生が疑問をもったのですね。「効用」つまり財からえられる満足感は、現在の理論では直接計測できないことになっているのに、それが数量的に比較されることを、教授の理論は前提しているではないか、と。教授は疑問には答えず、はじめは逃げ回り、遂にはパワハラそのものの言動で、院生を大学から追い出しにかかりました。この事件があったのが1960年代。ところが元大学院生であるこの方のサイトは、現在でも閲覧できます。研究教育の場たる大学で何がおこなわれているか、疑問をもつのは私だけでないでしょう。
さきに紹介したのは(パワハラなど大学内部の問題を別にすれば)、いわばミクロ経済学の「表面で」変なことがおこったとみられる事例ですが、ミクロ経済学は実は、もっとずっと根本的なところでも矛盾をかかえています。「数学的な外観をまとった」理論の内実はどのようなものか、そういう理論が「社会理論として」どういう問題をかかえているのか、少しつっこんでみてみましょう。
具体的には、「市場経済の効率性」を論証するとされる、「一般均衡解の存在証明」をとりあげます。その種の理論が登場したことで経済学も精密科学になったと、講義などできいた方もおられるでしょう。市橋勝「一般均衡理論と選択公理」(『社会文化研究』26号、2000年)がまとめるところによると、理論経済学における一般均衡解の存在証明は、経済学者ドブリューの、さらには数学者角谷・ブラウアーの「不動点定理」を前提としており、またそれらの定理は、考えている「ユークリッド空間」上での「コンパクト集合」の存在を前提にしています。数学的な術語の意味はわからなくてもかまいません。ここで重要なのは、コンパクト集合の存在がさらに前提にするのが、「無限にあるものの中から要素を選ぶことができる」とする「選択公理」だということです。無限は無限でも「実数の集合」のような「連続無限」だ、といえば事態の深刻さがおわかりでしょうか。しかし本当の深刻さは、「最初から均衡解が存在する世界を構成しようとした」ところにこそあると、私は考えています。「市場経済はすばらしい」という結論を保証してくれる数学を選んだ、というのが実情ではないかと思います。
ここまで2段落にわたってミクロ経済学を批判してきましたが、それではかつてケインズというスターを生み出した、マクロ経済学の方の実情はどうでしょうか。ここでも格好の、といいますか、じっくり検討しなければならない事例がみられます。ジョン・パーキンス『エコノミック・ヒットマン』(東洋経済新報社)という、いろいろな意味で「おもしろい」本があります。著者が奉職していたのは、「民間」コンサルティング会社とはいいながら、実態は完全にアメリカ政府の意にそって、発展途上国の政府を、経済的に「従属させる」ことを目的とした機関。そのおもな方法は、「はじめから返せないとわかりきっている」金を貸して、借金で「首が回らなく」させることでした。そんな借金をするほど相手国政府もばかじゃない?そのとおりですが、「成長に必要なインフラ建設のため」といえば、だまされる政府も出てくる、そしてそこでも数学が悪用されたと、パーキンスはいうのですね。
具体的には、「状態推移の確率を行列で表示した」マルコフ連鎖過程を組み込んだモデルを作り、「投資をすれば成長する」ストーリーをもっともらしくみせたとか。数学的モデルを正面から批判するには、それなりの知性と、さらに「時間的余裕」も必要になると、他の評者たちもいっている、この点は重要です。でも...「経済的従属」の物語にリアリティがあるかと問われたら、それも「五分五分」じゃないですかね。「数学を使って人をだますとはけしからん」というのなら、「世界を支配するアメリカ」みたいな言説もまた、単純に信じこまないように注意すべきではないかと、私は考えるのです。
科学に数学を応用するのは、「真実をあきらかにする」ためであると、普通は考えます。たとえば物理学で「ある関数の積分が特定の場合にだけ解析的にえられる」ことが、「ある量が不連続的な値をとる」ことに対応しているといわれれば、(少なくとも私は)感動します。経済学において問題なのは、数学がときとして、逆に「真実をかくす」というか、むしろ「ある人にとって都合のよい理論を、他の人に信じさせるために」使用されることです。それを見破るのに必要なのは、やっぱり社会認識の方かもしれませんね。■