写図表あり
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【書評】
医療生協さいたま看護部編集委員会編著
『地域とともに、産み・育み・看とる』
コープ出版 2007年12月
評者:尾内隆之(立教大学教員)
市民活動に関心を持つ読者の皆さんならご存知のことと思うが、医療機関の中には「医療生協」という形のものがある。生協法にもとづく住民(組合員)の自主組織として、生活協同組合が病院などを所有・運営するもので、医療のあり方を考える上で非常に示唆を与えてくれると評者は考えている。本書は、看護師のしごとを通してその実情を垣間見せてくれる、貴重な一冊である。
折しも「医療崩壊」という言葉がメディアで盛んに取り上げられ、日本の医療体制が満足できるものでないどころか、先行き現状を維持できるかどうかという不安さえ広がっている。産科医や小児科医といった診療科において、あるいは過疎地域において顕著な医師不足。病院勤務医の過酷な勤務状況。公立病院の膨大な経営赤字……。挙げればきりがないが、ではいったいどうしたらよいのかという出口はなかなか見えてこない。そうした問題の深刻化をもたらした要因に、政府の医療制度改革の欠陥や、医療機関が直面する経済環境、あるいは医療関係者の姿勢といった、医療のいわば「供給」側の問題があることは間違いない。しかし要因の一端に、医療を受ける側が医療とどのような関わり方をするか、という「需要」側の問題もおおいにあるように思われる。評者が「医療生協」というかたちに関心を持ち、そこで日々営まれている医療のあり方に魅かれるのはそのためだ。医療生協も「生活協同組合」である以上、その基盤は、医療の受け手である組合員が単なる受診者ではなく、健康な暮らしを築くための取り組みに「主体的」に関わることだからである。
実際に本書で描かれているのは、「医療生協さいたま」ではたらく看護師の皆さんのこれまでの体験を通して、その現場で日々行われている「ケア」のありようである。本書を編むにあたり医療生協さいたま看護部の皆さんが考えたのは、「看護師たちや看護現場の現実の姿を伝える」ことであり、「看護師たちが語る事実を、客観的に伝えることで、『自画自賛』ではない、私たちの等身大の姿を言語化・文章化」して、看護とは何かをともに考え、医療者と受診者との「共同の絆」を深めたいということだという(本書「発刊にあたって」より)。その意味では、基本的には看護師の視点から描写されているが、読み進めるうちにそこに見えてくるのは、「看護師=医療の担い手=医療の主体」という図式ではなくて、むしろ患者(とその家族)こそが主体的に関わる、あるいは関わるようになっていくそのプロセスに、ぴったりと寄り添い支える看護師と関係職員の姿である。医療を「共同の絆」によって進めるということの意味が、非常によく理解できるはずである。
ではなぜ、看護師の視点なのか。最近では医療を語る際に、しばしばcureとcareとが対比される。もちろん、医療全体が「充実したケア」を目指すようになっている今日、この二分法をことさら強調する意味は薄いだろうが、それでも医師の第一義的な役割が患者に的確な治療(cure)を施すことであるとすれば、その医師を補佐しつつ患者を24時間支える看護師の仕事の本領が、まさに「ケア」にこそあるのは確かだ。そしてより良いケアの実現は、看護師が医師と患者との間をどのように橋渡しするか、また医師よりもずっと身近に接する看護師自身が患者とどのような関係を築くか、という「関係性」の問題にかかっている。単なるcureからcareの充実へ、という流れの中で看護師の役割はますます重くなっているし、だからこそ医療の受ける側も看護師の現場の姿をよく理解し、「関係」の一方の当事者としての身構えを学んでおくべきだろう。
さて本書の内容は、第1章から第4章までは、それぞれある看護師が体験した患者との関わり方の具体的事例が紹介されており、第5章ではそこに描かれた「関わり方」を支える医療生協さいたまの「文化」が考察される。
第1章で描かれるのは、あるガン患者を看とった看護師の経験。患者の人生の最期を充実したものにするために、担当看護師だけでなくチーム全体として、何をすべきか、何ができるのかを真摯に話し合い、力を尽くす。医療の目的が治療であるとはいっても、「看取り」も避けて通れない。その一つの理想の形をここに見ることができる。
第2章には、障がいを持った子どもの「産み」と「育み」に直面した夫婦に、しっかりと寄り添う若い看護師の姿がある。ここでも、まず当事者である夫婦こそが自ら子育ての「主役」として現実を引き受けていけるよう、押し付けず、けっして叱咤せず、粘り強く向き合う看護師の姿が印象的である。
第3章では、ホームレス男性の治療、退院、自立と社会復帰への取り組み。こうした例は決して多いものではないが、いったん地域のコミュニティというものから切り離されてしまった人を、人との「関係」の中にもどすということが、いかに難しいものであるかを実感させられる。この患者さんを取り巻く人々の努力には、ほんとうに頭が下がるばかりだ。
第4章は、過疎地での自宅療養とターミナルケアを支えた先進的な訪問看護の取り組み。今でこそ、介護問題をきっかけに在宅医療体制の整備ということが議論されているが、医療生協さいたまはこの点でも先進的な取り組みをしてきたという。またそうした制度面の問題以上に、ここでは具体的な描写を通して、在宅医療という難題に患者の家族が前向きに取り組んでいる姿が印象的である。もちろん看護師のサポートあればこそなのだが、当の看護師の方が、医療者としての自分ではなく家族の方が「医療の主体」となっている姿に感銘を受け、病院の中においても実は同じ方向を考えていくべきではないかと述懐していることが、たいへん示唆的である。
以上の事例のいずれにおいても、看護師の皆さんの仕事は確かに実を結んでおり、評者は強く胸を打たれた。そしてだいじなことは、その「成功」が看護師個々人の善意やパーソナリティのみに基づいているのではないことだ。この医療現場のソサエティにそなわる「文化」こそが重要で、それは5章で述べられるのだが、患者の言葉や行動への透徹した「まなざし」を生み出している。例えば、看護師に対して荒っぽい態度をとる患者に対しても、それを患者個人の性格・人柄といったものに帰着させて終わりにするのではなく、患者のこれまでの人生や生活の背景、病気に対する戸惑いの心理など、そうした行動をとらせる事情があるのだと考え、患者の表面的な言動の奥にあるものをとらえようと努める。このスタンスを保ちづけることは、看護師も一人の人である以上たいへんなことのはずだが、患者との「共同の絆」をさがすその努力にはほんとうに敬意を表すばかりである。
もちろん、編者らが冒頭に述べていたように、本書は単なる成功譚ではない。例えば第3章に登場する元ホームレスの男性は、いまだ自立と社会復帰を果たしたとは言い難い状況にあることが語られる。コミュニティとの関係という点でも、まだ一筋の光が見えたという程度である。そこで「反省」として出されているのが、医療生協の財産とも言える地域の組合員のネットワークを十分に活用しなかった点である。そして医療生協さいたまの皆さんは、そうした反省を着実に次のステップにつなげていかれることと思う。
ところで本書の発刊には、こうした看護の現場の生き生きとしたドラマにふれることで、看護という仕事を理解し、看護を志す若い人が増えてほしいという願いもあるという。ただ、評者の感じたところを率直に言えば、これほどの真摯な努力の継続が求められることを知ったとき、やはり大変だなぁと敬遠してしまうようにも思う。いや、もちろんそうした受け止め方は、ことがらの半分しか見ていない。なぜなら、どの看護師もけっして一人で孤独に仕事に向き合わされているのではないからだ。一つには、病院内での同僚とのつながり、病院外の関係者との連携など、充実した「ピア・コミュニケーション」に支えられている。もう一つより重要に思えたのは、繰り返しになるがやはり患者の家族による有形無形の協力と共同である。それはまさに、医療生協さいたま看護部の「文化」とも財産とも言えるものであろう。一人ひとりの命を支える努力が、医療生協さいたまの「文化」としてどのように育まれ、伝えられてきたかが、第5章で掘り下げられている。その詳細はぜひご自身でお読みいただくとして、その「文化」を伝えてきたのが看護師の皆さん(もちろん看護師以外の職員のみなさんも含め)同士の「協同」であり、またそれにサポートされて自ら絆を深めていく患者とその家族であることは間違いない。
それをやや堅苦しく言えば、医療生協の『患者の権利章典』が掲げる「平等な医療」と「医療における民主主義」というものになるのだろう。こうした表現は、現在ではやや時代がかった仰行なものに感じなくもないが、言い回しをもとにイデオロギー的な予断を与えるのではなく、その意味するところを素直に見つめ直すことが、危機に瀕した日本の医療にとってあらためて必要だと思う。ここで見つめ直す「主体」として評者が思い浮かべているのは、医療従事者よりも、医療を利用する側である。一般論として、医療機関や医療者にも改善してもらいたい点はあろうが、実は医療を利用する側の知恵と工夫と、何よりも自分自身の医療への関わり方に対する真摯な「まなざし」が、日本の医療において大きく欠けていると思われる。
最近は、救急車をタクシー代わりにしているといった話も耳にする。それは極端だとしても、例えば都市部の小児科の夜間救急外来には患者があふれている。家で安静にしている方が幼い子どもにはよほど望ましい程度の症状でも、親が自分の不安を解消したいがために深夜の病院に殺到する。そのようすから、私たちは考えねばならないことがあるはずだ。ある町では、疲弊する小児科医を助けようと、ムダな小児科診療を減らすための親たちの自発的な取り組みが始まっているという。「平等な医療」とはなにか、それを実現するために誰が何をする必要があるのか。医療者に要求する前に、受診者として私たちが振り返るべき点もまた多いはずだ。
最後に本書について一つ欲を言えば、医療生協の基盤である「組合員」の地域組織の活動が、本書からはさほど浮かび上がってこない点が惜しまれる。もっとも第4章の在宅看護の例では、地域の組合員がつくる「班」がどれほど患者の家族の支えとなったかが述べられていたが、第3章での「反省点」を見ても、そうした場以外の日常的な組合員の役割は希薄になっているのだろうかと感じた。食品の共同購入から始まった生協活動は、もともと「班」をつくっての集団活動だったのが、今では個々人の家に直接商品を配送する「個配」が中心になってきており、生協も曲がり角に来ていると言われる。ましてや医療機関の場合、医療機関と受診者はそれぞれ別箇につながりを持つのがふつうで、「受診者の集団活動」というのは多くの人にとってイメージしにくいだろう。次はぜひ、そうした「共同」の営みの姿を多くの人たちに紹介してもらえればと希望したい。いや、それは忙しい医療現場の皆さんに頼るのではなく、市民活動に携る私たち読み手の側からアプローチして、知っていくべきなのであろう。そのための入り口としても、本書を多くの人に読んでほしいと強く感じている。■