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書評
川端裕人『エピデミック』(角川書店2007年11月)
評者:角田季美枝
川端裕人さんの著作はフィクション、ノンフィクションともだいたい読んでいるほうだが、この本は個人的には”小説”としてはあまりおもしろさを感じなかった。とくに登場人物の動かしかたが、大手新聞社の記者以外、どちらかといえばステレオタイプ的なのだ(だから逆に映画にできそうではあるのだが)。ストーリー的には、科学と政治の関係、異なる専門性の相違、専門家と素人のギャップという科学技術論にまつわる焦点があちこちで交差している。リスク論のテキストとして読むことも可能だ。とはいえ、このような内容は既に他の小説や市民運動の主張や政策研究論文などでも多く指摘されているので、目新しくはない。しかし本書のおもしろさはそういう点ではないように思う。少なくとも私がおもしろく読んだ点はそういうところではない。一言でいえば「疫学」の特質を小説の形で読むことができたことがおもしろかったのだ。
まずはどのような内容なのか、詳細に紹介したり結論をいってしまうと、これから読もうという方にはおもしろくないので、ごく簡単にまとめておこう。
ジャンル的には近未来のSF。東京近郊のある街で短期間に未知の「病気」が広まった。重症患者が飛躍的に増え、死者も続出する状況になっても、感染源をつきとめることができない。感染源をつきとめるために現地にはりつく国立集団感染予防管理センター実地疫学隊の隊員たちが、10日間(驚異的な短さ!)で感染源をつきとめていくプロセスに、科学、政治、マスメディアのアクターがからむ。住民の不安や恐怖なども交差していく。自然科学といっても医学、疫学のスタンスやアプローチの違いがあること、感染症に対する政治力学、国と自治体の焦点の当て方の違い、科学報道とはどうあるべきなのかなど、さまざまに盛り込まれている。未知のウイルス由来の疾病の感染源をつきとめるという内容からいえば、ミステリーともいえるだろう。川端さんの小説の中でも最多のページ数を誇るが、展開がスピーディで、かつ疫学の専門的な知識も師弟関係を通じて伝えられたり、疫学のエキスパートが素人の記者や保健所職員に語るという方法を駆使しているので、読者に疫学の知識がなくても理解しやすくなっている。
この小説のおもしろさを以下の3点にまとめておきたい。
①「人間も生態系の一員」という観点を疫学から明確に強調している点
生態系の捉え方が「人間」を核にしてマクロ、ミクロ双方から交わるところに「疫学」のまなざしがある。
「人間も生態系の一員」「感染症は生態系の問題」というフレーズが要所要所に出てくるが、たとえば、以下のようである。
「例えば、海。黒々とした水中には無数のウイルスが存在しており、ある試算によれば炭素量換算でおよそ2億トンの現存量(バイオマス)を持つ。海中のウイルスの核酸鎖をすべて直線にしてつなげば、1000万光年の長さになることを示した者もいる。地球はウイルスの惑星であり、本来、生態系の重要なメンバーであるものを病気の原因としてのみ捉えるのは事態を歪めることになる。・・・・・・ウイルスは生態系の構成員であり、また、ある種のウイルスにとって人間とは生存の場、つまり『環境』だ。ウイルスは文明という繭の中で安穏とする人間を、生態系に対して剥き出しにする。」(p.163)
また、団感染予防管理センター実地疫学隊の隊員のかつての「師匠」が現地にのりこんだ時、まずとった行動は歩いて地勢を眺めまわることだった。
「山と海が間近に接した、空と海の狭間の世界がこの半島だ。感染症対策の観点からいうと、それは大きな意味を持つ。・・・・・・この半島のように生態系の中に見事なまでに『剥き出し』の場所は、すなわちエピにとっての敵対的最前線なのだ」(pp.162-163)
人間の特性を「意味を求める生き物」として生態系の中に楔を打ち込むような位置づけを示すのも(ウイルスに限らないが、未知を未知のままにしておくことを不安に感じるという特性が人間にあるということ)、この点の強調であるように思われる。
②疫学のエキスパートの思考回路、行動様式を見せる点
疫学のエキスパートの行動を通して、疫学とはどういう学問なのかを雄弁に示されている。シンボリックな言葉の選択が印象に残る。いわく、「元栓をしめる」ために、現象を「場所・人・時間」の三条件から、統計学を使って可能性を消去していくのである。SARS、H7型トリインフルエンザ、H7型の新型鳥インフルエンザ、コウモリが媒介する未知のウイルス、人から人への感染、空気感染・・・・・・・仮説を立てては検証してつぶし、次の仮説をまた検証し、を繰り返して、網をしぼりこんでいく。
とくに、疫学で使用されるツールであるオッズ比の説明が鍵である。終局のオッズ比の割り出しを使って感染源を突き止めるプロセス(pp.472-478)は、息をのむような緊迫感がある。
オッズ比とは、本書では「病気になった人の群と病気になっていない人の群」の比較とされ(p.264)、曝露、非曝露と症例、非症例の2×2表で計算される(別表)。オッズは英語の辞典をひくと、「可能性、見込み、確率」という日本語があてられている。ただ、オッズ比が高い数字を示すだけではそれが「真の要因」なのか「交絡要因(コンファウンダー;見かけのものである可能性)」なのかまでわからない。本書では以下のように非常にわかりやすい説明がある。
「数学の上では、発熱した子どもと接触することがリスクであることを示しているけれど、それが見かけの上だけということはあり得る。例えば、子どもがいる家によくあるものが感染源で、子どもも大人もそこから感染していたら? その場合、子どもを遠ざけただけでは、有効な対策にならないでしょう。こういう時、『発熱した子ども』は一見、リスクに思えるけど、実は真の原因ではなく交絡要因だったことになるわけ」(p.267)
■オッズ比を計算する際の2×2表
曝 露 非 曝 露 計
症 例
非症例
③エピデミックの生態学的意味の追求がある点
この点は、①の「感染症が生態系の問題」という点を、さらにつきつめようという方向性を見せているように思われる。「つきつめ方」を日本語としてどうまとめるのが一番適しているのかなかなか思いつかないが、さしあたり「象徴的」としておきたい。本書でこの点を一番表している言葉が「リヴァイアサン」である。
リヴァイアサンは、旧約聖書ヨブ記に登場する海の怪物で、「神をのぞきこの世で最強のもの」とされる存在である。
本書で危篤状態まで達して生還した者はわずか2人しかいないが、そのうちの1人(小児科医)はナチュラリストとしてもフィールド・ノートをつくっており、浜で座礁したクジラを見つけて「死せるリヴァイアサンに捧げる」と記録をつけていた。現地で感染源を探すなかでクジラが座礁した浜に足を運んだ国立集団感染予防管理センター実地疫学隊の隊員、隊員をかつて指導した教官、記者、保健所職員が、フィールド・ノートの「リヴァイアサン」という言葉に触発されて、ホッブスやリヴァイアサンと命名されたコンピュータウイルスなどの会話をするくだりがある(pp.213-215)。
リヴァイアサンは、ヨブ記では世の中の秩序を破壊する陸の怪物ビヒモスに対決する存在として書かれているが、「ウイルスと人間の関係はまさにそれ」(p.214)と、疫学のエキスパートを無秩序あるいは反秩序の力であるウイルスの対抗権力として位置づけているのである。
ただ、ウイルスが無秩序の象徴であり、隊員をリヴァイアサンと単純に解釈していいのかどうかできるのかどうか。人間もウイルスも生態系の一部なら、リヴァイアサンとはいったい誰(何)なのか。感染症を無秩序あるいは反秩序と安易に断定していいのだろうか。本書では明確に断言していないように感じられる。
ディープ・エコロジストからは、人間のほうが無秩序あるいは半秩序をもたらしているのではないかという主張も予測できる。そのような主張の象徴的存在(ブルーという少年)も登場するし、彼の行動の一部が紹介される章は「ハーメルンの笛吹き」という、ドイツの史実にもとづいた民話のタイトルが付けられている。この少年は入院あるいは発症した親の子どもたちを救い出して子どもだけで集団生活を送っていたのだが(結局のところ、子どもたちはその集団から「もとの」社会に戻るのだが)、子どもをどこへ連れて行きたかったのだろうか。その点はふみこんだ語りがないのである。
最後にもうひとこと。この本を読んで疫学的思考について理解する人が増えれば、近未来、本当に未知のウイルスによる重篤な感染症が多発し、死者が出たとしても、不安になる人は少なくなるのであろうか? この問いがなかなか頭を離れない。
(注)本書の引用のうち、原書にあるルビで漢字の読み仮名にあたるものは省かせていただきました。