「メタボ」――何が問題なのか?
柿原 泰(市民科学研究室理事)
このところ「メタボ」というのがある種の流行語になっている。身の回りでも、この春先ころに、「最近メタボ気味だから、頑張ってやせなくちゃ!」といった類の会話がしばしば飛び交っていた。今年(2008年)の春から(俗にメタボ健診とも言われる)「特定健康診査・特定保健指導」の制度が始まり、職場などでの健診の項目が変わって、腹囲を測るなどすることが知られていたからだろう。(男性85センチ、女性90センチ以上なら要注意、という数値を覚えてしまった人も多いだろう)
では、「メタボ」とは何のことか。簡単に確認しておくと、「メタボ」とはメタボリック・シンドロームの略で、直訳すると代謝症候群のこと。動脈硬化性の病気になるリスクに関して、とくに内臓脂肪の蓄積(腹囲の数値)に注目して、高血糖や高血圧などをそれぞれ単独の要因としてではなく、それらが組み合わさるとより相乗的に高リスクになるという考え方をとっている。メタボ健診では、40~74歳の健康保険加入者に対する健診・指導の実施を健康保険組合などに義務づける仕組みを作った。というのも、保健指導の実績のあがらない健康保険組合などには負担金を増やすというペナルティが課されるというわけだ。メタボ予備軍に対して早め早めに健康指導を行うことで予防することで医療費の削減につながる、というのが大義名分である。
内臓脂肪を減らすための対策としては、適度な運動とバランスのよい食生活への改善ということで、それを聞けば、ある意味当たり前のことではないか、と思ってしまうだろう。いまちょうど所用で来ているアメリカでこの原稿を書いているが、街中で行き交うアメリカの人たちのあの巨大な体躯を見ると、素朴な感想として、メタボ対策をしたほうがいいのでは、と思わなくもない。
表:メタボリックシンドロームの診断基準(厚生労働省のHP:http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/metabo02/kiso/check/index.htmlより)
しかし、そんな素朴な感想でとどめるのは危ないことだ。この「メタボ」については、いろいろと問題点が指摘されてきている。ここでは、そうした問題点のうち、いくつかをごく簡単に取り上げたい。
まず、挙げられるのは、メタボの診断基準は妥当なのか、という点だ。日本の基準は表に掲げたが、これは世界共通のものではなく、国際的な基準(WHOやアメリカなどの基準)とは異なっている。科学的・医学的観点から日本の基準の問題点への指摘は多いようだ。例えば、大櫛陽一『メタボの罠』(角川SSC新書、2007年)がある。基準となっている項目の選択、あげられている数値などの根拠が実はそれほどしっかりしたものではないとされ、基準が作られる過程自体が疑われているし、あるいは保健指導の手間がかかるのを見越して結局薬剤依存へ誘導することになるのでは、といった制度への疑問も出ている。(『科学』2008年6月号でも特集「科学としてのメタボリック・シンドローム」が組まれているので、参照されたい)
こうした科学的なところでの問題がかりになかったとしても、より深刻に考えておいたほうがよいと思う問題点を挙げておきたい。「メタボ」ということばは、イメージとして腹の出た体型を見せ、腹囲の数値というわかりやすさ、さらにことばも「メタボ」と略されることによって、広く受け入れられるようになった。この「メタボ」ということばが流行する前の流れを思い出しておきたい。それは、大きくいうと、2000年から始まった「健康日本21」、そして2002年の健康増進法という流れであろう。憲法では、健康で文化的な最低限度の生活を営む「権利」を有するとされていたのに対し、健康増進法では、国民の責務として健康の増進に努めることが定められた。この違いは大きい。
では、「健康が義務となる」社会とはどういうものか。それを考えるとき、20世紀前半のナチスの社会を捉え返してみることが必要で、優れた科学史の知見が参考になるだろう。例えば、米本昌平『遺伝管理社会』(弘文堂、1989年)は、優生学の歴史をたどるなかで、ナチスに「健康が義務となる社会」の姿を見出しているし、また、ロバート・プロクター『健康帝国ナチス』(草思社、2003年)は、ナチスがユダヤ人の大量虐殺を犯したと同時に、食生活改善運動、禁煙運動、ガン研究を推進するなど健康志向であったこと、そしてそれらが矛盾していたわけではないことを描いている。
「メタボ」が流行語となっている現在の状況をどう見るべきか、そうした別の視点から見てみることも大切ではないだろうか。