書評 『六ヶ所村ラプソディー ドキュメンタリー現在進行形』

投稿者: | 2009年4月8日

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書評
『六ヶ所村ラプソディー ドキュメンタリー現在進行形』
(鎌仲ひとみ+<対談>ノーマ・フィールド、影書房 2008年11月)
評者:上田昌文(NPO法人市民科学研究室)
鎌仲ひとみはしたたかな映像作家だ。その扱うテーマは、対峙する相手の大きさに怯んでしまいそうな、現代社会の資本と権力に関わる中核的な問題ばかりである(『エンデの遺言』が環境と金融、『ヒバクシャ』が世界各地の核被害、『六ヶ所村ラプソディー』が再処理工場に焦点をあてた原子力問題、現在制作中の『ミツバチの羽音と地球の回転』(仮題)ではスウェーデンのエネルギー政策など持続可能な社会のあり方)。ほとんど徒手空拳とでも言うべきその撮り方は、一貫して、現地に飛び込んで語り合いを重ね、その渦中で問題をどうとらえるかを見定めていく、というもの。政治的対立が引き続く中に身をおいての双方への取材には、拒否や不信がつきつけられることがある。扱う事柄が高度に専門的で容易に理解できない場合もある。しかし鎌仲は一素人、一市民としてそれらに向かい、自身が学び読み解いていったプロセスをも時に織り込みながら、「これはあなた自身のの問題でもあるのですよ」と観る者に映像を差し出すのだ。そのしたたかさはどこから来るか。それを知る手がかりがこの本にはある。
本書の後半におさめられた、鎌仲との対談で、ノーマ・フィールドは「この映画(『六ヶ所村ラプソディー』)は完璧な資本主義批判になっている」、それに続けて「そう言っても何も伝わらないが、観た後からそうだと理解する」と述べている。私はこの意見に賛成する。
古くはチャップリンの『モダン・タイムス』から『ザ・コーポレーション』『ダーウィンの悪夢』『いのちの食べかた』『女工哀歌』といった近作にいたるまで、フィクションであるかドキュメンタリーであるかを問わず、資本主義のもつ苛烈なまでの非人間性や破壊的側面を描き出し批判した映画作品の系譜を作ることができるだろう。この系譜に、鎌仲ひとみの作品をどう位置づけることができるだろうか。自身の映画で何を描くべきかを模索する中で、小川プロの「三里塚シリーズ」全編を観て感得したものを、鎌仲は感動的に語っているが(「第三章 問題を見つめる視点」)、確かに彼女の作品には、小川紳介、土本典明といったドキュメンタリー映画監督の仕事と連なる「地下水脈」を見出すことができる。フィールドは対談の冒頭、『六ヶ所村ラプソディー』を「エモーショナルだ」と表明しているが、それは、鎌仲がカメラに収めた六ヶ所村の人々の語りとたたずまいが、核燃とともに(あるいはそれに反対して)生きることのただならぬ重みを滲ませていたからだと思う。その重みは、むつ小川原開発以来、国策に翻弄され続けてきた中にあって、命あるものをどう守り引き継ぐかの選択の重みであり、追い詰められた人々の思いに目をそらし続けてきた、エネルギーの大消費地の人々の責任の重みに通じる。
鎌仲作品が観た人に「私は何をすべきか」と考えさせる力が強いことは、彼女のこのような映像作りの方法の直接の反映だと思うが、それだけでは2006年の公開以来、草の根ネットワークと口コミだけで広まって全国で500回に迫る自主上映会が開かれたことは説明できないだろう。「いかに政治的なものとか教育的なものから自由になるか」をドキュメンタリーの要件とし、映画制作の経過をも公にさらし(『六ヶ所村通信』ビデオレター)、「政治的でなく生きることはできない」現実を観る人自身で”発見”することを促す――その姿勢が共感を呼んだに違いない。
メディアが世の中を動かす新しいスタイルの一つが、ここに生まれつつあるのかもしれない。多くの人に、その中間報告である本書を手にしていただきたいと思う。■
           『週刊読書人』2009年2月27日号より転載

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