連載「科学技術コミュニケーションを問う」第10回(最終回) サイエンス・コミュニケータ再考

投稿者: | 2010年7月25日

科学(Science)とはなにかという問いに答えることは容易ではない。というのは,ヨーロッパでは,科学は元来「知識を愛する」という意味をもった言葉で,「哲学」と同じように使われていたからである。しかし,コーヒーを味わいながら一流の科学者を囲み,科学のおもしろさを語り合うサイエンス・カフェは,元来,科学とは知識を愛することだったのだと確かに思い起こさせてくれる。
サイエンス・カフェに象徴されるサイエンス・コミュニケーションが各地で活発になってきた。その目的もやりかたも様々だ。理科離れを食い止めようと,実験を通して科学のおもしろさを伝える,あるいは最先端の科学を映像で伝えるなど多彩である。
しかし,なにか物足りなさも残る。科学離れの背後にある根本的課題が置き去りにされた感があるからである。ここにこそ,サイエンス・コミュニケータの役割があると期待されるはずであるが,その存在も見えにくい。最終回はサイエンス・コミュニケーションを担うべきコミュニケータの役割を考えてみたい。
1.サイエンス・コミュニケーションの目的は理科離れ防止?

我が国では,サイエンス・コミュニケーションは理科離れ対策が主な目的のようだ。国の助成金を背景に,国の政策的期待と市民参加がうまく効果を発揮し,理科離れが止まる。すると,科学研究が加速され,これにより技術開発が促進される。その結果,産業の国際競争力が高まるという流れである(1)。ある有望な科学技術政策を推し進めようとする人たちとそれを支持する科学者たちは,揃って「技術革新の成否が国家の存亡を左右し,それを推進すべきだ」と力強く語るのもこの流れだ。科学技術創造立国を目指す国側の発想である。
 理科離れ対策としてサイエンス・コミュニケーションの普及が好ましくないと思っている人はいまい。都心の塾では理科離れ対策として実験を通して,理科に興味を子供たちにもたせようとする企画が最近目立って多い。受験塾がいち早く反応を示したのだ。
2.サイエンス・コミュニケータが見えない

現在は,技術と経済は切っても切れない関係にある。莫大な国家予算がついた科学技術政策に様々な人が集まり,すぐそこにまでイノベーションが来ている錯覚を与えるほど,メディアは煽りたてる。科学・技術と社会が絡み合う姿は,一層複雑になりつつあり,市民が利害を超えて理解すべき課題は益々多くなってきた。ナノテクノロジーや足利事件などいくつか紹介してきた事例がそうだ。科学・技術と社会の境界領域にある答えがみえにくい課題にサイエンス・コミュニケータの役割が求められているはずだ。しかしその存在と役割がどうも見えない。
3.確かな知が伝わらない現実

自然科学の世界には二つの知がある。実験と観察を繰り返し,仮説をたてその吟味を重ねて理論となった確かな知がまず挙げられる。もう一つは未知の部分の解明が時々刻々と進められている “作動中”の科学知である。科学が細分化され,明日には塗り替えられるかもしれない最先端の知識を競い合う領域である。
確かな科学知とは一体何かと具体的に問われれば,高校や中学の教科書に示された知がそれに相当すると答えるのが妥当である。科学リテラシーの向上には,確かな科学知の理解が必要だ。そのためには,中学,特に高校の教科書のレベルの内容の理解が大切になってくる。ところが,高校の理科の教科書には多くの課題が山積している。その一端をご紹介し,サイエンス・コミュニケータの役割を考えてみたい。
3.1 高校の理科の教科書への不安

―学ぶ動機が見えない理科の教科書―
高齢出産の増加や少子化を背景に,一昨年,人気歌手の「羊水は腐る」という発言が波紋を呼んだことがある。しかし,動物学専門の東大准教授松田良一氏はこの発言の背景に日本の高校では羊水はほとんど教えられていないと指摘した。日本の高校では生物教科書や保健指導においても語られていないが,海外の生物教科書にはいずれも羊水について分かりやすく説明されている。この内容は,一昨年,東京大学科学技術インタープリタープログラムの講義の中で語られたものである。松田氏は世界中の高校の生物教科書を詳細に比較検討し,日本の生物教科書が高校生に学ぶ動機を持たせていないことを指摘している。松田氏の警鐘は世界各国の生物教科書の内容の精査に基づいているので説得力がある。我が国では,性に関心が高い思春期の高校生がヒトではなく,ウニやカエルの基本的発生から学ぶという。一方,諸外国の生物教科書は胎児や出産場面の写真まで載せてヒトの受精、妊娠、出産から出発した生命の発生を科学的に教える。日本では,ヒトの誕生のプロセスは学習指導要領の範囲外であるからだ。松田氏によると,諸外国の生物教科書は日常生活での安全・安心に関するノウハウを確実に次世代に伝えようという意識が込められていることを強調した。例えば,欧米では,神経伝達の基礎的知識はドラッグによる中毒から入っていくが,日本の理科教育は健康について科学的知識と考え方を伝える場として機能していない。
 その上,諸外国の教科書の内容量は日本の三倍もあり太刀打ちできない。筆者も現役のときはイギリスやスイスに出かける機会があると,化学関連の教科書を購入した。環境問題や食品問題など日常生活が挿絵入りで満載され,理論の部分が分かりやすいからだ。理科の教科書の中身は思春期の高校生の興味ある課題から出発することが潜在的に優れた資質を持つ高校生をひきつけるという意思が伝わってくる。
一方,高校一年生の科学リテラシーを調べるOECD(経済協力開発機構)のPISA(学習到達度調査)では,日本は以前に比べ順位を下げる傾向がある。OECDによる科学リテラシーは,ヒトが生きるための知識と技能であり,食の選択から環境政策に至るまで科学技術に関する”意思決定”を行うための基礎的素養であるとする(2)。
PISA調査からはもっと深刻な日本の課題が見えてくる。科学に関する本や雑誌、新聞記事を読んだり,「理科が将来役立つ」と考えたりする高校生の割合がほとんど最下位なのである。ここにも理科を学ぶ動機の低さがうかがわれる。
教科書づくりの背景にあるものは極めて根が深い構造的な問題がありそうだ。例えば,松田氏によると,生物の教科書づくりに関わる教授陣に医学,薬学,農学など多彩な分野の専門家も参加できれば,内容も変わっていくであろう。開かれた教科書づくりが必要だというのだ。

―高校と大学との密な連携―
しかしアメリカでも分厚い教科書を使って限られた時間内ですべてが教えられるわけではないはずだ。どういう工夫があるのだろう。生物教科書の前半を学んだ高校生がさらに興味を持てば,後半の上級の生物学を学び,五段階の三以上の評価が得られれば,大学において生物学の単位を取得できるシステムがあるからだ。このシステムの実施には,理科の高校教師にかなりの力量が問われるだけでなく,高校と大学をうまく連携させなければならない。

―高校の現場の理科の先生の声に耳を傾けよう―
 現場の教員は理科離れをどのようにみているのであろうか。筆者は都内の大学付属高校の理科教育に携わる先生に直接インタビューに行ったことがある。高校の現場で熱心に取り組んでいる先生方は,文部科学省や教育委員会の縛りが大きく,もう少し教員の自主性を尊重してほしいと強調されていた。現在,東京工業大学梶雅範准教授主催の化学史研究会において原書講読に参加させていただいているが,同じ勉強仲間の高校の物理の先生の教育に対する情熱に驚かされる。例えば,「科学史にこそ理科教育を魅力的にするヒントがたくさんあり,授業に取り入れたい」と語る。

―高校生に見えない理系の学生の将来―
昨今,大学が力をいれるオープンキャンパスでは,理系学部に参加した高校生が戸惑いを隠せないという。大学の教授陣は,「我が研究室に入れば国際的に評価されている研究に参加できる」などと紹介するばかりで,卒業後にどんな道が開かれるのかが高校生には伝わってこないという。なんとかして研究室に優れた学生を確保したいという大学教員側と参加した高校生の間に大きなずれがあるのだ。
今の高校生はすでに厳しい現実を知っている。高校生ともなれば,大学の研究者の道はなかなか開かれていないことぐらいは十分承知している。博士課程を卒業しても企業が中々採用してくれない高学歴プアの報道も見逃していない。高校生にとって現実に理系の大学あるいは大学院を卒業しても具体的な職業が見えなければ,両親や身近に目に見えるサービス業や金融業などの職業をイメージし,文系に行ってしまうという。

―国際化学オリンピックから見えるもの― 
国際化学オリンピックが我が国でも開かられることもあり,日本科学ジャーナリスト会議で国際化学オリンピック実行委員長の東大教授渡辺正氏のお話を伺う機会があった。かって,国がノーベル賞受賞者30人以上を目指すとした政策が頭を横切り,違和感を覚えつつの参加であった。ところが,渡辺氏のお話しを伺っていて国際化学オリンピックの参加(3)には,化学教育のグローバル化という大きな意義があることに気がついた。
昨年のイギリスで開かれた国際化学オリンピックの参加では,日本の高校生が実験や理論的知識あるいは応用力を発揮しメダルを獲得し,日本の高校生の実力が証明された。しかし,もっと大きな収穫が得られていた。協力参加した高校教員や大学教員が各国の化学教育の実態をじかに見ることになり,日本の高校の化学教育に何が足りないのかを知る機会であったからだ。渡辺氏は,日本の化学教育の課題は化学の教科書にあるとし,先進国のそれに比べ,理論的な基礎部分が丁寧にしかも高度に記述されていないと具体的な事例で示していた。受験の化学は,やみくもに化合物の暗記が強要され,高校生に嫌われがちである。一方,大学の基礎教育の化学は欧米では「物理化学入門」と位置づけられているが,この点が日本の大学では十分理解されていない傾向にあり,土台づくりの基本が危惧される時がある。しかし現職の教授である渡辺氏は「日本の化学の教科書問題の取り組みと自らの教育・研究の本業の両立はむずかしい」と率直に語る。東大の教授陣の声さえやすやすと届かないらしい。この問題に構造的な根の深さがうかがわれた。

―理科離れとコミュニケータの役割―
国の意図する理科離れの防止には,教科書をめぐる質的,構造的な課題,大学受験制度や大学と高校の理科教育の密な連携など課題が多い。根本的な問題に立ち返って考える必要があるが,誰がこの問題に取り組むべきか。教育は極めてエネルギーが必要な仕事で,世間で想像する以上に現場の先生方はもろもろのことに忙殺されているのが実態だ。理科離れを防止し,科学リテラシーをあげるにはどこが問題であるか明らかにする必要がある。そのためには,まずは現場で頑張っている専門家である教員の声に耳を傾け,市民の関心を喚起する必要があるのではないか。理科離れの課題を整理し,包括的にとらえなおし,政策につなげる役割がサイエンス・コミュニケータに求められている。
3.2 熱力学の確かな知で環境問題を包括的に考える

『二つの文化と科学革命』の著者として著名な英国の科学史家スノーに「熱力学の第二法則を知らないのは、シェークスピアの作品を読んだことのないようなものだ」(4)と言わしめたほど,この法則は自然の仕組みを見事に説明する。エントロピー増大の法則と呼ばれ,19世紀に蒸気機関の効率を図るために生まれた基本的な自然の法則である。この世のさまざまな現象は何故起きるのかという問いに対して,科学者が試行錯誤して得た抽象化された答えといえる。すなわち「いかなる変化も,エネルギーと物質が無秩序の方向へと,無目的に崩壊していく結果である」と。このように表現されると,難しく思えるかもしれないが,これは,日常,様々な場面で観察される。
例えば,水の入ったコップに赤インキを一滴たらすと,自然に水の中へひろがって均一になる。これはインキの色素分子が無秩序に自発的にばらばらになった結果である。しかしこの散らばった色素分子をもとの状態にもどすには高度な機器とエネルギーが必要だ。ましてコップのレベルではなく,もっと広い空間に散らばってしまったときにはその回収は途方もないエネルギーを使うことは容易に理解できるだろう。環境汚染は熱力学第二法則にしたがって汚染物質が空間に自発的に拡がってしまったことを意味する。
2000年に「循環型社会形成推進基本法」が公布された。産業革命まではヒトが使ったものを自然が浄化して循環できていたが,20世紀後半になると大量生産・大量消費・大量廃棄が進み,循環はできず,捨て場所ももはやなくなってきた。その末の法律であった。しかし,現実には省エネ,薄型など様々な機能満載の新型家電が買い替えられる。あたかも技術が環境問題を解決できるといわんばかりに,世界中の資源が掘り尽くされていく。その結果,貴重な資源は熱力学第二法則にしたがって散乱し,回収にはさらなるエネルギーが必要なのだ。
環境思想家松野弘氏の警鐘は重い。「地球環境危機といわれる今日の深刻な環境問題を解決していくためのこれまでの政府や企業の方策をみると,環境問題にある,<大量生産―大量消費―大量廃棄>型の社会経済システムを生態系の持続性を前提としたエコロジー的な観点から再検討することなく,環境技術的に対応していくことが最優先の課題となっているのが現状である」と(5)。
科学者が長い歴史の中で蓄積してきた自然の法則から私たちは逃げることはできない。したがって,持続性社会を目指すのであれば,①発生抑制,②再使用など節度ある物質的要求も求められている。熱力学第二法則はできるだけ身近の地域で使ったものを廃棄し,回収することが少ないエネルギーで資源回復を図ることができるのだと教えてくれる。大量生産・大量消費・大量廃棄の社会の仕組みを変え,廃棄したものは地域で処分する仕組みを模索しない限り、持続性社会が遠のく。このような地球環境問題を理解するには,基本的な自然の法則に基づいて包括的に眺めることが必要だ。
ナノテクノロジーも実は,材料のサイズを小さくし,新しい機能を見出す科学技術である。最小限の貴重な材料を使い,持続性社会構築の根本的な実現の一翼を担う科学技術として期待されていた。しかしこのような意識をもって取り組む専門家集団の影が薄い。
サイエンス・コミュニケータは,技術と社会の領域の課題を掘り下げ,橋渡しをする異分野横断的な専門家集団であるが,コミュニケータ自身が,これから社会が向かう方向をどのように考えていくかが常に問われている。そこでこのシリーズで取り上げてきた『沈黙の春』(6)の著者,レイチェル・カーソンに再び戻り,サイエンス・コミュニケータのありかたを考えてみたい。

4.レイチェル・カーソンにみるサイエンス・コミュニケータ再考

カーソンの『沈黙の春』が1962年に出版されるやいなや,市民は一夜にして農薬への見方を変えたといわれている(7)。すでに多くの市民が大量のDDTのような農薬散布によるじわじわと変化していく生態系に気がついていたからであった。
 『沈黙の春』には,このような農薬の大量散布が及ぼした生態系への影響が当時の学術論文,報告書に基づき描かれている。それは食物連鎖・生物濃縮により拡がり,最終的にヒトの発がんの可能性を示唆したものである。さらに大量散布により害虫に耐性が生まれ,意図した害虫の絶滅が不可能であることにまで及んでいる。この書物は科学的見解とともにその背景にある社会的要因にまで言及し,カーソンの生命観,自然観が語られていた。
『沈黙の春』出版以前から米国魚類・野生生物局の専門家たちが農薬大量散布の生態系の影響の報告書などですでに公表していたが,彼らは社会を動かすことはできなかった。『沈黙の春』は農薬産業界に感情的な反応を引き起こした一方,科学界はDDTなどの有害性はまだ不確実な段階として無視する傾向にあった。ところが,『沈黙の春』は,市民と時の権力者ケネディ大統領に確かに届いたのであった。この理由として,カーソンの役割はバラバラな変化の速い一群のデータをまとめて,一般の人々を啓蒙するだけでなく権力者にも働きかけるための明快な報告書を書き上げたことだったと評価されている(7)。科学の細分化が進む中,全体を把握し,優れた表現力により社会を動かしたのである。この点こそがサイエンス・コミュニケータの役割として注目すべき点である。
 『沈黙の春』出版から10年後に,アメリカ社会においてDDTなどの有機系塩素化合物の農薬が規制され,科学界では生態系での化学物質の影響の研究は盛り上がっていった。
そしてさらに25年後の1987年に科学界,政策立案者,農薬産業界の専門家たちがシンポジウムを開き,『沈黙の春』を検証した。カーソンが提起した論点をとりあげ,過去,現在,未来にわたる指摘の妥当性に関して検証し,『サイレント・スプリング再訪』(7)としてアメリカ化学会から1987年に出版した。その結論は,概ねは間違っていなかったとされた。アメリカには専門家たちに『沈黙の春』を再検証する姿勢があったのだ。

図1にはDDTとリスクをキーワードとして発表された学術論文数を,Scirusのkey word 検索によりプロットした。1990年以降急激に論文数は増加している。DDTの食物連鎖・生物濃縮や発がん関係,環境ホルモンなどの研究論文も同様に90年以降増加し,今も研究が続いている。カーソンは自然の化学物質を浄化する力には限界があり,生態系に食物連鎖・生物濃縮が起こるというパラダイム・シフトを世に広めた人であるが,『沈黙の春』出版以降,それほど論文は増加していない。しかし,あるレベル以下なら安全でそれを超えたら危険という考え方が崩れ,リスクの概念にパラダイム・シフトし,1980年代に入り,リスク研究を政策決定に積極的に使おうという動きや90年以降の分析手段の急激な進歩がリスク研究を加速させたのである(8)。図1の規制されたDDTのヒト及び生態系との相互作用に関する研究は,現在も続く不確実性の高い研究であるが,専門家たちによる基盤研究の継続がリスクの未来予測を高めていくのである。
現在の視点で半世紀前に出版された『沈黙の春』を再び捉えると,カーソンの考え方は仮説であり,問題提起であったことが伺える。しかしこの問題提起が市民と時の権力者に届くことにより社会を変えたのだ。その後,農薬産業界は猛烈なスピードで農薬の概念を変え,役割を終えたものは速やかに分解する農薬を目指し,研究開発に向かった。そればかりか,昆虫ホルモンやフェロモンを利用した新しい防除,遺伝子組み換え植物などへと多様な拡がりを示した。また社会には有機農業のイノベーションも生まれた。一方,行政は発がん性を中心に農薬のリスク規制に進み,科学界はいまなおヒトを含め生態系への影響の研究を続けている。そして何より,カーソンの『沈黙の春』は環境思想の起点となり,今も受け継がれている。
カーソンは,不確実性が高く,作動中の科学技術と社会の界面で発生する課題として農薬に絞って著作にした。ここで取り上げたものは何が正解であるかがあらかじめわからない,かつ影響が巨大で,誰でも当事者になりうることを示した事例であった。彼女は研究機関に所属しない生態学者であったが,包括的に農薬の問題をとらえ,サイエンス・コミュニケータの役割を果たしたのである。その背景には彼女が経済的に独立した立場を築き,大きな権力に対して中立であったからだ。ここで,中立という意味は,科学的事実を重視し,不確実な科学の場合は,無理に結論を導かないことだと筆者は考える。さらにいうと,サイエンス・コミュニケータとしてどのような哲学や価値観をもっているかということが大切な点である。
しかし個々のサイエンス・コミュニケータがカーソンのように優れた文才や洞察力を同時に発揮することはかなりむずかしい。その場合,どうしたらよいのであろうか。複数の異分野の専門家たちが知恵をだしあう専門家集団をつくることが肝要ではないだろうか。現在はこのような専門家集団は我が国では極めて数が少ないが,i2TA(Innovation and Institutionalization of Technology Assessment in Japan)は,異分野横断的な専門家集団として技術と社会の領域の課題を取り上げ,技術の将来の社会的影響を予測しようと試みている(9)。中でも,米国に大きく後れを取ってきた医薬品開発に関する問題提起は,注目に値する。基礎研究から臨床試験,審査・承認,社会導入に至るまでの要因を丁寧に分析し,様々な分野の専門家のサイエンス・コミュニケータの活躍の可能性を示唆している。
5.サイエンス・コミュニケータに期待される役割

 市民科学研究室は,本来のコミュニケータの目標を掲げる数少ないNPO法人である。代表者の上田昌文氏が力を入れている研究の一つとして環境中の電磁波の研究がある。ここ10年で携帯電話,インターネットはもはや生活に欠かせない道具となり,多くの人は身の回りに電波が飛び交っていることを実感し,不安もよぎるであろう。上田氏は2000年以来,大学やその関係者とチームを組み,環境中の電磁波の測定さらには人体への影響の調査を進めてきた(10)。携帯電話の電磁波のリスクを中心に,身のまわりの電磁波を実際に計測しながら,世界中でなされている人体影響研究を広くレビューし,政策提言を行なうことを目指している。この研究調査は,カーソンの『沈黙の春』と同様に問題提起をしているのだ。微弱な電磁波の人体への影響の研究は不確実性が高く,解明には長い時が必要であろう。しかし,これは政策立案者ばかりでなく,電磁波防御の観点から産業界にも今後大きく影響を及ぼすばかりか,環境中の電磁波リスク研究者の層を厚くする役割を果たすにちがいない。

以上,理科離れ防止を目指して出発したサイエンス・コミュニケーションが科学と社会の境界領域に根ざす根本的な問題に立ち返る時期に来ている。今後,活躍が期待されるサイエンス・コミュニケータは市民・産・官・学をつなげるばかりか,社会に知的エネルギーを喚起する知的集団であってほしい。【了】

引用文献
1) 松本三和夫著,『テクノ・サイエンスリスクと社会学』東京大学出版会,2009年
2) 松田良一,”「羊水は教えられているか」高校生物教科書の国際比較”,2008年5月8日科学技術インタープリタープログラム
3) 米澤宣行,ICh041 国際化学オリンピックイギリス大会を終えて,『化学経済』,2009・9月号,26
4) P.アトキンス著,『ガリレオの指』早川書房,2004年
5) 松野弘著,『環境思想とはなにか』ちくま新書,2009年
6) R.カーソン著,『沈黙の春』青樹簗一訳,新潮社,1987年
7) G.J.マルコ,R.M.ホリングワース,W.ダーラム編著,波多野博行監訳,『「サイレント・スプリング」再訪』,化学同人,1991年
8) 中西準子著,『環境リスク学』日本評論社,2004年
9) a) 吉沢剛,「日本におけるテクノロジーアセスメント―概念と歴史の再構築」,『社会技術研究論文集』,6,42(2009)
b) http://www.i2ta.org/
10)a) https://www.shiminkagaku.org/04/electromagnetic/
b) https://www.shiminkagaku.org/about/works05c.html
【五島 綾子(サイエンス・ライター)】

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