第12回UNESCO国際生命倫理委員会報告
開催期間:2005年12月15~17日
会場:上智大学二号館
渡部麻衣子
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昨年12月15日から17日にかけて、上智大学において、第12回ユネスコ国際生命倫理委員会(IBC)会合が開催された。これは、昨年10月19日、パリでの総会にてIBCの起草した世界生命倫理人権宣言が採択されてからはじめての、記念すべき会合であり、世界宣言を基として、今後、各国で生命倫理のあり方を模索するための出発点として位置づけることができよう。もちろん、生命倫理に関する問題については、すでに長年、各国で独自の議論がなされており、その高まりが、世界生命倫理人権宣言の採択へとつながったのである。
各国独自の議論が先行しているがゆえに、世界宣言によって提示される普遍的枠組みの意義を、各国で新たに見出すことが非常に困難となるであろうことは想像に難くない。言い換えれば、宣言は必然的にはじめから、生命倫理の普遍性と独自性との摩擦を含んでいるのである。そのため今回の会合では、この摩擦を乗り越える必要が繰り返し強調された。しかし、発表者の一人であるEspiell氏(駐仏ウルグアイ大使・国連大使・国際生命倫理委員会委員)が述べたように、文化的社会的摩擦を乗り越えて普遍的な目標を目指すことは、単一の生命倫理規範に到達することを意味しているのではない。そうではなく、各国の社会文化的背景に基づいた多様な生命倫理規範を含む、大きな傘としての普遍的枠組みが模索されなければならないのである。
おそらく、この生命倫理委員会の主張を疑問なく納得できる人は少ないであろう。その疑問の大半は、そのような普遍的枠組みに実際的な意味があるのだろうかということで占められているのではないだろうか。
生命倫理とは、まず、医療の現場で日々繰り返される「実践」である。そこで国連の提示する「普遍的枠組み」すなわち「理念」が、実際に役立つのか、という疑問は大いにあり得る。例えば、辰井氏(横浜国立大学助教授・法学)は、日本においては、脳死臓器移植は家族の同意なしには成り立ち得ないという現場の声を紹介した。このような現状において、個人の意思の尊重を普遍的倫理規範とし、その必要を説くことは、無意味ではないにしても、あまり意味のあることではないかもしれない。しかし、では女性研究者が研究のために、上司に自らの卵子を提供したという事実は、文化的文脈における自発的行為として是認してよいものであろうか。あるいは、先進国で延命のために需要される臓器を、日々の糧を得る費用のために自らの臓器を売る発展途上国の人々から調達することは、社会における需要と供給の一致を持って認められ得るものであろうか。問題は、社会文化的状況によらず普遍的に規制されるべき事項はあるのか、あるとすればそれをどのように明らかにし得るのかという点であろう。
世界生命倫理人権宣言はこれに答えるものではない。ただ、こうしたことを、国際社会で真剣に問うていかなくてはならない、と「宣言」したに過ぎない。この宣言の意味は、今後の国際社会において恒久的に模索され構築されなくてはならないものであろう。「宣言」は、言わば生まれたばかりの初々しい赤ん坊のようなものだ。
ではそれを育てる親は誰であろうか。UNESCOという機関の性質上、会議では専ら国が主体とされていたように思う。しかし、もし宣言が、発表者が繰り返し述べたように「人間の法」を目指すのであれば、主体は、個々の人間、国家における「市民」であるべきではないか。私は、会議においては国家間の社会文化的多様性のみに焦点が当たり、市民の多様性について触れられることのほとんどないことに、違和感を覚えずにはいられなかった。唯一、中国のQiu氏(中国社会科学院・哲学研究所教授)が、中国の市民間に広がる経済格差に触れ、生命倫理の問題が、市民の属する社会層によって違うということを述べた。
市民の多様性は、経済格差だけでなく、性別や障害の有無など、様々な社会的属性によって形成されている。それらの属性による差異は、国という枠組みの間の差異にのみ焦点を当てていると、ともすれば、見過ごされてしまう類のものである。さらに、国の社会文化的背景を尊重した場合、その中で一定の属性を持つ市民が虐げられていることを正当化する危険性も生まれる。その国で既得権を持つ層にとっては、文化は尊重されるべきものであろうが、虐げられている層にとって文化とは覆されるべきものであるかもしれない。したがって、各国の社会文化的背景を尊重するという名目で、国が主体となって宣言の適用を目指すことには問題があるといえる。
「文化」という国の理念ではなく、「人」を万物の尺度とするならば、むしろそこに生活する市民が主体となって、市民にとっての「宣言」の意味を構築することを目指すべきではないだろうか。もちろん、市民もまた、各自の属する国の文化や状況に影響を受ける存在である。しかし、にも拘らず、市民̶虐げられた市民は特にだが、それに限らず̶に、国という枠組みを超えた連帯を生み出す可能性のあることは、周知の通りである。それはとりもなおさず、私たち市民が「人」としての普遍性を備えていることを示しているように思う。
ここに、ぜひ、日本の市民が、世界生命倫理人権宣言の主体となるための運動を、市民科学研究室ではじめることを提言したい。その第一歩は、もちろん、宣言を読むことである。市民が宣言の主体となるには、まず宣言を読まなくてはならない。宣言の背景を知らなくてはならない。そして、自らの置かれた状況を振り返らなくてはならない。さらに多様な他の市民と対話しなくてはならない。それは、簡単な作業ではない。しかし、それは、21世紀の社会において私たち市民が主体となって生きていくためには、ぜひとも必要なことである。そして、決して不可能なことでもないだろう。Ce n’est pas impossible.(フランス語で「それは不可能ではない」)。これは、会議で繰り返されたもう一つの言葉である。そしてそれを可能にするのが市民であれば、なおよいと思う。
第12回UNESCO 国際生命倫理委員会でのセッション
【セッション1】ユネスコと生命倫理の普遍的原則:次は?
このセッションでは、世界生命倫理人権宣言は、科学技術の発展に即して、各国が自主的に生命倫理の枠組み作りに取り組むことを促すものであると確認した。世界宣言が「humanity=人類」に重きを置くとしたことは注目すべき点である。
【セッション2】生命倫理と文化的多様性の分野に関するユネスコの宣言
その他の分野と同じく、国連は生命倫理の分野においても「多様性」を重視する。しかし、多様性はどこまで認められるのかという問いへの答えは出ていない。
【セッション3】インフォームド・コンセント
抽象的議論の多かった今回の会議において、これは、唯一医療現場における具体的事象を扱ったセッションである。インフォームド・コンセントは、医師主体の父権的医療の文化を、患者主体の自己決定に基づく個人主義的医療へと変換させる要としての役割を担っている。問題は、医療における個人主義と父権主義が、西洋と東洋という文化的多様性の表れと考えることもできるという点である。ここに多様性をどこまで認めるかという問題の具体例を見ることができる。
【セッション4】社会的責任:公衆衛生とヘルスケア
生命倫理の対象は、先端医療技術だけではない。特に貧困地域の問題であり、先進国主導の生命倫理に関する議論にはあまり登場しないが、基本的医療へのアクセスや、バース・コントロール、エイズの予防などの問題もそこには含まれる。
【セッション5】生命倫理の現代的問題̶アジアの視点
西洋を起源とする生命倫理が、アジアの文脈にどのように応用され得るのか。韓国においては「自己犠牲」の、中国においては「家族主体」の、日本においては「建前と本音」の文化が、西洋的な生命倫理の導入を難しくしている。シンガポール代表は、難しさを認めた上で、まず「市民」が世界宣言を理解するところから、はじめるべきだとした。
※ユネスコ世界生命倫理人権宣言の原文は次のページで 読むことができます。