連載「生命へのまなざしと科学」(14)タバコ、マイカー、ケータイ

投稿者: | 2004年6月14日

上田昌文

●モノと技術が私たちの意識を変える

私たちは普段の生活で数え切れないほどたくさんのモノや技術を使っています。その中には、生活の中であまりにあたりまえになってしまったが故に、改めてその存在を意識することがほとんどない、といったものも少なくありません。

たとえばTVです。目の前にあるわけではないモノを、あたかもそうであるかのように見せる技術は、絵画に端を発して写真や映画を経てTVに至り、完全にありふれたものになりました。時間や空間の制約を超越して映像が自由に飛び交う様を、もう誰も不思議には思わなくなっています。顕微鏡や望遠鏡の発明が人間の視覚機能の拡張として位置づけられることがありますが、TVがもたらした視覚経験の変容とその日常化は、自然や生命に対する私たちの感じ方やとらえ方にも影響を与える、もっと複雑で、著しく社会的な現象だといえるでしょう。

“生命へのまなざし”と科学の関係を考える際に決定的に重要な視点の一つは、技術やモノの浸透は私たちの生活を変え、そのことをとおして私たちの意識を変える、という視点です。そして、この変化は必ずしも初めに予期されたとおりの結果を生むとは限らないし、誰にとっても一律に利益や便益をもたらすわけではない――という事情があるので、場合によっては、そのモノや技術の生成や受容のあり方を、社会全体で検討しチェックしていかねばなりません。人々のニーズに応じて普及するようになった技術や商品も、使い方によっては社会に大きなリスクや悪影響をもたらしかねないのです。

ここでは、あまりにも安易に普及してしまったが故に、”自己への配慮”と”他者への配慮”という、私たちの”生命へのまなざし”と深くかかわることがらに、きわどい問題を投げかけている典型的な3つのモノを取り上げます。この3つをとおして、モノや技術のもつ社会性(それを使うことの社会的な意味)を浮き彫りにすることができます。その3つとは、タバコ、自動車、携帯電話です。

●何ゆえこの3つが問題か

この3つが私たちの日常生活にどれほど浸透しているかは日々目にするところですが、まず日本での普及の度合いを確認しておきましょう。クルマ 7341万台(2001年、原付を含めると9000万台ほど)、携帯とPHSで8713万台(契約数2004年4月)、喫煙率は男性52.0%女性14.7%(2001年、先進国の中で国民一人あたりの消費量は日本がトップ)です。メーカーの販売戦略のせいもありますが、ユーザー・消費者にとって特別な意識を喚起する商品になっている点も見落とせません(タバコと”大人っぽさ”、クルマと”ステイタス”、ケータイと”かっこよさ”)。クルマもケータイも可動性がポイントですが、タバコも携帯し移動しながら吸うのはあたりまえになっています(歩きタバコ)。毎日頻繁に使ったり嗜んだりすることがまれでないという点でも類似性があります。そのため、この3つを常用するために生活費がかさんでいる人は少なくないと思われます。

この3つはいずれも巨大な市場を形成していて、環境や健康やライフスタイルなどへの影響も甚大です。それらの影響に配慮した対応がメーカーにも消費者にも強く求められる点でも共通していると私は考えます。さらに言うなら、いやしくも環境問題への取り組みを口にするような人は、もっと厳しくこの3つと自分との関わりを意識し律していく必要があるだろうと思えるのです。

●公共空間の私物化

この3つが、周囲の人々、とりわけこれらを使用しない人たちに対して独特の不快感を与えるのはどうしてでしょうか。それにはいくつかの理由がありそうです。

まず、ところかまわずいきなり公共的空間を私物化してしまうこと。

喫煙室を設けたり分煙したりするのは、健康上の理由が大きいですが、生存にあまりにも不可欠であるがゆえそもそも共有するのがあたりまえになっている「空気」を、自分の都合で勝手に汚してしまうことへの嫌悪感が、その根底にあります。

電話は本来的に個人使用のためのものである以上、話し声が周りの不特定な人々の耳に露骨に入らないようにするのが、公共空間の使い方としてまっとうだと言えるでしょう(家庭やオフィス内の固定電話、限定されたスペースでの公衆電話)。ケータイは公共空間にいきなり私的空間を持ち込みます。”繋がること”の私的都合あるいは欲望を優先させるその行為が、傍若無人のデリカシーのなさを露呈させていて、いかにも不快なのです。それは公共性の強い空間であればあるほど、一般にその不快感は高まります。劇場や会議場でのケータイ禁止は当然の措置です。ただこのへんの受け止め方の個人差が大きいのもまた事実であり、誰にでも合意できる実効性のあるルールを作るのはなかなか難しいのです。例えば「優先席付近では電源オフ、それ以外ではマナーモード」という電車内での告知は、ケータイ使用者とそれを不快に思う者の両方を立てようとした妥協の産物ですが、実際は優先席の前でメールを打っている人はいくらでもいるので、有名無実と化しています。電波はもともと公共性の高い目的において使用が認められるものですが(電波法)、ケータイの著しい普及は、「公」と「私」の境界を曖昧にし、この法的な原則をなし崩しにしています。

自動車が車道のみを走っている限りは、道路そのものが「私的使用を前提にした公共空間」ですから問題は発生しないように思えるかもしれませんが、現実にはマイカーをはじめ宅配便のトラックなどが入り込めそうなどんな道路にも入ってきます。日本では戦後一貫してクルマのための道路建設が拡張に継ぐ拡張を重ねてきましたから、あらゆる道路でクルマが優先され歩行者が肩身の狭い思いをすることがあたりまえになってしまったのです。クルマの危険を気にせず子どもたちが自由に遊べる道路や空き地――これも一種の公共空間と言うべきでしょう――がどれほど急速に減ってしまったかは、恐ろしいほどです。

●危害・リスクの観点から

不快感はこれら3つが実際にもたらしている危害やリスクとも関係しています。

タバコの有害性が定説となってすでに40年以上たちます。200種類以上の有害物質(そのうち約60種類は発癌性物質で、中にはダイオキシンや放射性物質のポロニウムも含まれる)を吸い続けることの健康ダメージはすさまじく、年間で世界全体で490万人、日本では約10万人(うち肺癌で5万5000 人)がタバコで死亡しています。また、タバコによる健康被害のために余分にかかる医療費は年間1兆円を超えています。そればかりではありません。タバコの葉を生産して輸出にあてている国では、その葉の乾燥に大量の薪を燃料として使うのですが、このために毎年長野県2つ分に相当する森が消失しています(熱帯林破壊の1割以上)。実害が明らかであるにもかかわらず、何ゆえこれほどまでに日本社会はタバコに寛容なのかが、むしろ問われねばなりません。2003年 2月のWHO(世界保健機構)「煙草規制枠組条約」の交渉で、日本政府は「マイルドやライトなどの商品名を認めてほしい」「自動販売機を禁止しないでほしい」などと国際世論に逆行する主張をしました。政府がタバコ規制に踏み込めないのは、そこからの膨大な税収を得ているからです。

ケータイがもたらす危害には個人情報がらみのことがらと電磁波の人体影響に関することがらとに大別できるでしょう。前者は”出会い系サイト”の問題が典型の一つであり、「いつでもどこでもだれとでも繋がれる」の特性が犯罪に利用されるわけです。キャッシュカードや定期券、オール電化住宅の遠隔操作などの機能をケータイに集中すればするほど、起きるだろう犯罪の深刻さは増すものと想像できます。電磁波が脳腫瘍を引き起こすかどうかなどについては未だ科学的に明確な結論が出ているわけではありませんが、少なくとも子どもの脳へのダメージについては「大丈夫だ」と言い切れるものではなさそうだ、と多くの研究者が危惧の声をあげはじめています。端末に比べて微弱ではあるものの、携帯電話基地局の周辺に住む人々は四六時中被曝することは避けられません。

日本は欧米に比べてクルマの過密性が3倍以上で、世界でも指折りのクルマ過剰社会ですが、交通事故(年間1万人ほどの死者、100万人近い負傷者)、大気汚染(窒素酸化物排出量は東京都では7割ほどがクルマから)、温暖化(運輸部門で排出される二酸化炭素の約90%がクルマから)と、どれをとってもその深刻さや規模の大きさが目立ちます。これに加えて、その被害の実態を数量として把握しにくい騒音、道路建設をめぐる紛争、遊び場の喪失などに伴う精神的苦痛も大きいと思われます。クルマの普及によって、人々の利便性が向上し移動の自由が拡大したのは本当でしょう。しかし交通手段があまりにクルマに偏重してしまったために、交通手段の利用にかかわる地域間の格差が広がり、子どもや障害者など移動の自由を制約された人々がより不自由を被るようになるという逆説的な事態も起きています。一人一人ができるだけマイカーの利用を減らし、社会全体で公共交通の上手な利用を高めていかない限り、改善はまったく望めそうにありません。

●私個人の選択

私は、タバコは吸わず、自動車(免許も含めて)や携帯電話を持っていません。もちろこのことで自分が”免罪”されるなどと考えているわけではありませんが、この3つについて「非使用者」であることを意識的に続けてみると、私なりの「線引き」の理由がはっきりしてきます。それは、「”持たない”自分が “持つ側”からこんなにも苦痛を与えられていると感じるものを、どうして自分が持つことができようか?」というものです。

毎朝窓を開ける度に排ガスの匂いが部屋の中に漂ってくると、絶望的な気持ちになります。高速道路の沿道に住み長年喘息などの病気に苦しんできた人々に比べると、私の悩みなど微々たるものではあるでしょう。しかし「誰にいったい何の権利があって朝の新鮮な空気を奪ってよいということになるのだろうか」という思いは消えません。いくら便利であるとはいえ、クルマが危険と健康被害をまきちらす一種の欠陥商品であること免れないでしょう。利用するにはそれなりの”覚悟”がいるはずなのです。

いつでもどこでもかかってくる携帯電話の煩わしさに、人はどこまで順応するようになるのでしょうか? もしひっきりなしに電話の横槍が入るとすれば、多分その人は集中して何かを深く考えたり感じたり創造したりすることはできなくなるでしょう。これは人間の精神が崩壊していく兆しではないのか――大げさに聞こえるかもしれませんが、時々ふとそのように思えて恐ろしくなるのです。
健康の破壊と引き換えに税金をあてこむような行為は明らかに犯罪行為ですが、タバコに関して言うなら、国は恥じることなくこれをすすめています。喫煙する中高生の7割が自動販売機を利用しているという事実を知りながら、タバコ自販機(現在63万台)を撤去することすらしないのです。見てみ見ぬふりをする――大人が自分の社会的責任に頬かむりを決め込むような臆病さが蔓延する社会に、はたして希望が持てるでしょうか?

さて、あなたはどんな選択をしておられるのでしょう?■

(『ひとりから』2004年6月第22号)

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