大川小裁判の判決をどう読むか(その2)

投稿者: | 2018年3月21日

大川小裁判の判決をどう読むか(その2)

林 衛(富山大学人間発達科学部)

▶「大川小裁判の判決をどう読むか (その1)」はこちらから

 宮城県石巻市立大川小学校では,大津波警報の情報が届いていながら,教員の指示によって巨大地震発生から50分近く児童らは校内に留まり,避難が決定的に遅れ,児童74名,教員10名が犠牲となった。激しく長い揺れから危機を察知した教員や児童,迎えに来た保護者らが裏山への避難を提案していたにもかかわらず,現場の教員集団はなぜ,避難の決断ができなかったのか。
 
 2018年1月23日に結審した国家賠償請求訴訟控訴審では,震災前にどのような備えがなされていたのか,事前対策を中心に被災原因が厳しく追究された。危機感がなかったというよりも,現場の危機感があってもそれを生かせない学校運営や教育行政の問題点が浮かび上がる。自然災害から命を守るだけでなく,教員たちの知恵を集めてよりよい協力体制を築き上げようとするのに反するかたちで,学校現場に圧力をもたらしている構造的問題が大きいのではないか。

震災発生から7年,控訴審判決を待つ石巻

 2018年3月9日金曜日午後,3.11メモリアルネットワーク第1回伝承シンポジウム「伝える力 地域を超えて 世代を超えて」が石巻専修大学の教室で開催された。同ネットワークは,各地で東日本大震災の伝承や防災活動をする団体や個人をつないで支援をしていくために誕生したばかりの組織である(「2017年11月17日に規約が承認され,活動を開始しました」と同ネットワークHP設立の経緯にある)。詰め込めば300人も入りそうな大教室には,平日にもかかわらずおよそ150人の参加があったという。最前列から振り返ると,教室の右,左,奥の壁際に立ち見の参加者もいて,盛況であるのがわかる。

 シンポジウム開催を前に,大川小学校遺族や地域住民,調査を続けている研究者やジャーナリスト何人かから,このシンポジウムの目的や位置づけについて,多様な意見を聞く機会を筆者は得ていた。参加する人にとってもしない人にとっても,注目せざるをえないシンポジウムであったのだ。原田浩・元広島平和記念資料館長による基調講演1「広島の伝承—次世代へ語り継ぐもの」に続く基調講演2に,石巻市立大川小学校事故検証委員会の室﨑益輝元委員長(現・兵庫県立大学減災復興政策研究科教授)が登壇するのが,その最大の理由だった。

 シンポジウムを主催した3.11メモリアルネットワークの運営メンバーにも大川小児童の遺族が参加している。同ネットワークの代表に選挙で選ばれた鈴木典行さんと,同ネットワーク理事で伝承企画部長の佐藤敏郎さんの二人だ。大川伝承の会共同代表でもある二人が同ネットワークに参加し,運営メンバーになったのである。2011年3月の被災以降に開催された,石巻市による大川小学校保護者説明会,遺族説明会,遺族との話しあい,大川小学校事故検証委員会などの機会に,遺族として積極的に発言し,事実の究明を求めるとともに,石巻市や同検証委員会が明らかにできなかった事実を積極的に調べ,語ってきたなかの二人が,同ネットワーク運営メンバーに入っていながら,厳しく批判してきた相手である元委員長をなぜいま石巻に呼ぶのか。室﨑元委員長は,いったいなにを語りに石巻に戻ってくるのか。驚きや注目——怒りに近い疑問,心配,嘆きもあった——には確かな理由があった。
 
 大川小裁判は2018年1月23日に仙台高等裁判所で結審, 4月26日木曜日に控訴審判決を迎えようとしている。この時期に,2011年3月から7年を期して伝承のためのシンポジウムを開催するにしても,検証委員会の元委員長をあえて呼ばなくともよいのではないか,遺族同士に対立をもたらし場合によっては深刻な分断をもたらすのではないか,と心配する人もいた。裁判の原告団には加わっていない二人のシンポジウムへのかかわり方に対する疑問の声も耳にした。裁判原告団の先頭に立つある遺族は,「室﨑さんがシンポジウムでなにをいうのか,自らの検証失敗を認め,謝罪するのか。それならばいい。そこをみたい」との見方を語ってくれた。

 富山から宮城,石巻,仙台にしばしば通い,検証委員会と裁判をみつめ,いくどか考察を発表してきた筆者もまた,室﨑元委員長が登壇するという知らせに驚きを禁じえなかった(筆者考察は例えば,市民研通信(1)〜(3),地震学会モノグラフ(4))。登壇を企画したシンポジウム主催者への疑問や心配もなるほどそうだと,理解して受けとめられた。他方,文部科学省,宮城県が指導・監視する検証の失敗について,元委員長とともにその失敗の事実を確認し,災害伝承のために検証失敗の原因や新たな検証のために必要な道筋を元委員長が具体的に述べる機会となるのであれば,意義がありえる,とも受けとめられた。それは,2014年に中途半端な検証報告が発表されたあと,筆者は元委員長が創立者の一人である日本災害復興学会に入会し,大川小検証失敗の内容と原因,検証の続きについて,同2014年(長岡でポスター(5)),2015年(東京でポスター(6),2017年(神戸で口頭(7))と同学会年会で3回発表してきたからこそだった。大川小学校事故検証委員会の報告書(8)に対する学問的反論を試みたのである。しかし,会場ではすれ違いに終わり,議論を通して元委員長から発言や考えを引き出す機会がいままで得られていなかったのだ。検証の誤りや残された課題がオープンな場で語られ,検証再出発の機会にできれば,伝承シンポジウムにふさわしいではないか,とも考えた(9)。筆者もまた,心配と期待を抱き会場に到着した一人だった。

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