いま社会が求める、「市民科学者」とは

投稿者: | 2007年9月4日

上田昌文(NPO法人市民科学研究室・代表)

●宇井さんと再会した日のこと

 私は宇井純さんが始めた東大自主講座に直接参加した者ではないが、その流れをくむ市民団体「反公害輸出通報センター」(後に「反核パシフィックセンター東京」と改称)に所属し、その活動を通じて宇井さんの謦咳に接したことが何度かある。私自身が三菱化成(当時)のマレーシア現地合弁企業ARE社による放射性廃棄物不法投棄事件を調査していた折、その調査報告会でうかがったお話は特に印象が深い。私が市民運動に関わり始めたのは80年代の半ばからだが、その時期に日本企業は海外に大がかりに進出し、私たちは大量の物資を海外に依存するようになった。重金属汚染、森林伐採、エビ養殖などで現地の環境破壊を激化させてきたのはまさにそうした背景があったからだが、「地球環境問題」という言葉が流布する前に、何が環境破壊を引き起こすかを構造的に理解する視点を、私は宇井さんから学んだと思っている。

 それから10年以上を経た2003年、奇しくもともに発表者として居合わせることになった。それは、(財)消費生活研究所の2002年度「持続可能な社会と地球環境のための研究助成」を受けての成果報告会だった。宇井さんの研究は「酸化溝による高濃度有機物の産業排水、畜産排水等の発生処理の研究」と題されたもので、69年にオランダ留学でその技術に接して以来、大分、栃木、高知、沖縄など10カ所ほどで建設と運転をして続けてきた「酸化溝」という下水処理施設の実証実験だった。すでに94年にNHKで放送された人間大学「日本の水を考える」(後に『日本の水はよみがえるか―水と生命の危機 市民のための「環境原論」』NHK出版1996として刊行)で、日本の巨大化した流域下水道の問題(巨額の費用負担、水の浪費、処理効率の悪さなど)を解決するには新しい方向が必要だと述べ、「地域の条件に応じたいくつかの方法の組み合わせを自治体が自分の責任で探すこと、それがこの問題の答えであり、必要な技術はほとんど出そろっている」と指摘していた。それが念頭にあった私は発表を聞きながら、宇井さんが、理にかなった小規模な適性技術を現場にあわせて作り改良し普及させていくという、まさに「市民の科学」の一つの実践を具体的に粘り強く続けてられたことに改めて感銘を覚えた。

 自分の足で歩き、データを取り、それをもとに考えることの大切さを、宇井さんは常々強調していたが、当日私が発表した「携帯電話ならびに基地局がもたらしている電磁波リスクへの政策的対応に関する研究」も、国立市の住民の方々の協力を得て携帯電話基地局全部をマッピングして実測するという”足を使った”調査だった。ただ、宇井さんは水処理の専門家として長年の蓄積があったが、私は電波工学者でも疫学者でもない素人だった。その素人が素人を組織して調査にあたってきた数年の経験とそこから導いたある種の方法論があるだけだった。

 「市民の科学」は、「市民のための科学」であるとともに「市民による科学」であってもよいだろう――私の思いはそこにあった。しかしじつは東大自主講座が30年も前にその考え方を先取りしていたと言える。その意味では、私が仲間とともにここ10年ほど続けている市民科学研究室の活動も宇井さんが着手した思想的実践の一つの展開とみなせるのかもしれない。

●「市民の科学」の担い手は

 「市民の科学」を担うのは科学者や技術者に限らない。たとえば環境汚染や薬害の被害者やその被害に苦しむ人々を支援する人が、あるいは被害を受ける可能性のある人が、さらにあるいは自身は被害を直接受けないとしても社会的な不正義や不合理を見過ごせない人が、科学の専門にかかわる領域に足をふみ入れて調査をすすめ問題解決をはかろうとするとき、その人は「市民の科学」を実践することになる。
 
 ただ、市民科学は科学の素人でも実践できるが、素手ではできない。また、専門家は専門知識と技能を備えるが、おそらく問題発生の現場に足繁くでかけたり当事者の市民とかかわったりしながら、既存の研究の枠組みには収まりにくい現場の事象をじっくり見据えていくという覚悟がない限り、市民科学者たり得ない。
 
 素人には、問題意識や疑問はあってもそれを実効性のある科学的な調査としてどう展開していくかを設計することが難しいし、たとえばいざ計測を行うとなれば専門の機器やデータ解析も必要となる。また、専門家は知的には独立した存在であるはずだが、研究費を出すのは国や企業であり、スポンサーの意向に沿わないだろう研究に金はつきにくいので、そこに自ずと”体制化”する力学が働く。大学は本来、国ではなく市民によって支えられる存在であるべきだが、巨大化し複雑に細分化した科学研究の場となった大学にどう市民が介在していけるのか、ほとんど見通しが持てないままだ、と言えるだろう。宇井さんが自主講座で作りだした大学内の「解放区」は、多くの注目を浴びはしたが、日本の大学の中に波及し受け継がれていくことはなかった。

 原理的には以上のような困難を抱える「市民の科学」だが、やりようはある。宇井さんや高木仁三郎さんたちの活動が契機となって、原子力、エネルギー、薬害、干潟や流域の保護、種々の化学物質問題などの様々な領域で専門NPOが続々と誕生し、市民をサポートし政策転換を促してきたことからもそれはうかがえる。また、科学技術がらみの問題にかかわって、主に大学人として専門知を活用し、市民運動をサポートしてきた(あるいは市民運動を立ち上げた)人々も存在する。ただ、こうした専門NPOのほとんどが資金繰りや専門スタッフの確保に苦労しているし、また、そもそも専門的サポートが手薄な領域も多いため、問題が発生し被害が顕在化してから立ち上げられる多くの市民運動が、いわば”手探り”でサポートを取り付けていかねばならないことがしばしばだ。

 確かに、科学技術のあり方に対して市民の関与や発言力を高めるために、テクノロジーアセスメント、参加型手法、科学コミュニケーション……様々なアプローチが提唱され、試みられてはいる。しかし私は、市民がいかにして問題解決の主体になるかという中心軸がしっかりしてはじめて、そうしたアプローチが生きてくるという気がしてならない。まさに宇井さんが自主講座で発動させた、市民が自ら問題に気づき、必要な知を集結して学び、調査を担い、被害者や弱者の救済や支援のために連携して運動する、という主体性のダイナミズムである。これを科学の側からとらえると、(体制的な)科学を批判し、(問題解決に必要な)科学を学び、(その学んだ)科学を活用し、(政治的課題の解決の積み上げをとおして)科学を変える、ということになろう。科学を変える、というと大げさに聞こえるかもしれないが、そうではない。たとえば自主講座運動(70年~85年)と公害反対運動が、日本の環境科学の形成に大きく与ったことに誰も異論はないだろう。市民の科学にはアカデミズムの科学を変えるカがあるのだ。

 市民科学研究室の活動は、このダイナミズムに関わる一種の実験とみなせる面があるように思う。ここでは、そのダイナミズムをうまく引き出し有効に生かす条件について、活動事例を織り込みながら、考えてみる。

●「市民の科学」の要件とは

 第1は、問われていない・解かれていない重要な問いがあることを自覚すること。

 私たちが科学や技術を大いに利用している一方で、たとえばその利用の適切性、影響、他の事象との関連性といった事柄の把握がいかに不十分にしかなされていないか――その自覚が「市民の科学」の根底にあるべきだろうと私は考えている。たとえば、次のような疑問に読者はどう答えるだろうか? あるいはどのような計測や統計資料が必要になるか、ご存知だろうか?

<囲み1>
・あなたが毎日使用する携帯電話の電磁波の強さはどれくらいか
・どの暖房器具をどう使うのがあなたの部屋では一番効率がいいのか
・オール電化住宅はエネルギー効率的に”お得”なのだろうか
・自宅の家電機器などの待機電力の総計はどれくらいか
・月におよそ何リットルの水を何に使っているのか
・あなたの消費物資の上位10品目は何で、それぞれの海外依存度は
・あなたは健康診断や検査など浴びてきたX線の総量は
・あなたの体内のPCBやダイオキシンの濃度は

 これらの問いは、深く追いかけていけば、健康リスクと安全基準、環境的負荷と持続可能性、エネルギー、水、食料などの政策のあり方……といった問題に行き着く。そして場合によっては、重要なデータがなかったり不備だったり、あるいはどこかがそれを独占していたり操作していたりする、といったことに遭遇するだろう。環境や健康のリスクといった問題には、新たな発見のための科学(物理学や生物学などの基礎研究)や開発のための科学(ほとんどすべての応用研究)の枠組には収まらない、いまだ問われていない、あるいはいまだ解かれていない重要な問いがある。それは、実地にデータをとることを基本にした、状況に応じた科学知の編集と活用によって扱い得るものだ。職業科学者ではない素人でも、ある程度の素養と扱う問題に即しての学習の機会があれば、調査を担っていける理由がここにある。「市民の科学」は、科学者と市民との区別が必要でなくなる科学の営み、とみなすこともできるだろう。

 第2は、仲間との自由で開かれた討議と学びの場があり、研究成果を外にむけて発表する機会があること。
 
 私たちが10年以上も月1回のペースで様々なテーマでの公開講座(「市民科学講座」)を継続しているのは、上記の”重要な問い”を知るためでもあるが、自ら調査研究したことを発表するためでもある。以下に最近3年で取り上げたテーマを掲げたが、このうちの約半数(★)が市民科学研究室メンバーたちによる研究発表である。

<囲み2>
<最近3年間に行われた「市民科学講座」のテーマから>
(●は外部講師、★は自前チームによる発表)
●人知れず忍び寄る輸入依存型社会の恐怖~輸入コンテナ事故を考える
●障害をもった子・人のための支援機器とユニヴァーサル・デザイン
★気になる電磁波リスクの子どもへの影響~携帯電話に関するアンケートをてがかりに
●開発途上国発、持続可能な社会に向けた世界のうねり
★日本型サイエンスショップを構想する~欧州の事例から考える
★子供料理科学教室公開実験~おいしいご飯を炊く秘訣
★子どもを選んで産むという選択~出生前診断と不妊治療の現状から考える
★科学館の新しい使い方・育て方を考える ~扱いテーマ調査研究から
●人体の資源化と人体改造~今なにが問題なのか
●非電化は愉しい~”新しい豊かさ”を創るために
●環境共生住宅という選択~”まちに森をつくって住む”実践から
★次世代環境づくりと市民科学~科学メディア、食、出産医療から考える
★低線量放射線被曝のリスクを見直す~『ECRR報告書(欧州放射線リスク委員会2003年勧告)』をふまえて
●BSE 問題をとらえなおす
●急増するアトピー性皮膚炎~IT時代のストレスとハリー・ポッター
★ナノテク化粧品は安全か?
★見学会~江戸前の海と漁師町
●医療現場でのアートの試み~大阪市大学医学部附属病院小児科病棟プロジェクト「アートもクスリ」の実践から
★イギリスの科学コミュニケーション~科学館と市民参加
●ホスピスから学ぶ生き方のヒント~看取りの医療から見えてくる苦しみの意味

 自前の発表を担うのは、電磁波、低線量放射線被曝、ナノテクリスク、生命操作、科学映像研究、食の総合科学、といったそれぞれのテーマでの調査チームである。メンバーは大半が科学の素人であり、問題意識と興味関心を手がかりに、月1回の勉強会ならびにメールを通じた日常的な意見や情報の交換によって基礎体力をつけながら、1~2年ほどをかけながら特定の調査をすすめる。助成金を得て行うものもあるが、多くは会員からの会費に支えられている。調査結果は、市民講座で発表やホームページでの公開を前提にしているが、学会誌への投稿、冊子としての出版、講演や出前授業などに反映させることも少なくない。テーマに関心のある人なら誰でもメンバーになれる。大半が科学技術の専門家ではないが、調査にあたっては、利用できるツテを最大限に活用し、大学や他の専門NPOの専門家にも大いに協力を請う。企業の研究部署にインタビューに出かけることもしばしばだ。
 
 様々な経験を持つ年齢、性別、職業もいろいろな仲間がいて、互いに忌憚なく批判し励ましあえる関係にあることは、素人が自前で調査を続けていくことの何よりの支えになるし、じつは調査の質(市民性)や水準(学術性)の確保にも影響する重要な要件である。

 第3は、生活とコミュニティを基点にしたアプローチを重視すること。
 
 前述したように、科学技術はいってみれば、基礎研究と応用研究に大別され、前者の成果が後者に投入されながら、産業技術政策などとも絡んで、資本の論理に則して自律的に回転する構造を持っている。その構造の中で市民はあくまで消費者、ユーザーにとめ置かれ、意思決定からは基本的に除外されている。たとえば、「自宅の前に携帯基地局がいきなり設置されたが、健康への影響が心配だ」といった相談が市民科学研究室には多数寄せられるが、こうした国と事業者だけでどこにでも設置できるとする、他の科学技術がらみの問題でもよくみられる”生活者は蚊帳の外”の枠組みは、じつは今の述べた科学技術の回転の構造と密接なかかわりがある。
 
 では、この構造の問題点を具体的に指摘し、修正を迫ることができるのは誰か。誰をおいてもそれはまず生活者であろう。<囲み1>に例示した問いはいずれも生活と科学技術の関わりという界面で発生するものばかりであることに注目してほしい。そして、構造の転換を一気に実現することは困難だとしても、その構造に絡め取られない自律的な仕組みを作っていくことに相応しい場が、地域コミュニティであろう。
 
 たとえば、現在次第に大きなうねりとなりつつある「スローフード」「食育」は、農水産物の大規模な生産・加工・流通を前提にした科学技術システムに対する、地域コミュニティに依拠した”地産地消””手作り”の合理性の復権ととらえることができる。またたとえば家の中でごくあたりまえに行われてきた出産 (生)や看取り (死)が、高度経済成長期に急激に、病院の占有物になり変わったが、助産院や自宅での出産が見直され在宅ホスピスなどが重視される趨勢もまた、医療におけるコミュニティの再評価という面があるだろう。生活圏で歴史的に成立してきた共同性とそれと不可分に機能してきた生活技術(たとえば”味噌の手作り”などはその1例)のとらえ直しは、長い目で見たときに、科学技術の転換を促すだろう。「市民の科学」は、生活と地域コミュニティの守り抜くべき様態を見据えて、それを破壊するものに異議申し立てをし、新たな解決を提案できるものでなくてはならない。

●学習、調査、運動の有機的な連携を

 以上の3点は、同じ事柄を別の面から見たときの違った見え方というべきかもしれない。一言で述べるなら、学習と調査と運動を互いに有機的に結び合わせながら、政治的な実効力がありかつ普遍的な解決を目指すのが「市民の科学」のスタイルであろう。宇井さんは30年も前にそのスタイルを体現していた。私はその姿を心に留めながら、ここ10年ほど自分なりにささやかな模索を続けてきた。このささやかな文章が、宇井さんの後に続こうとする人たちに何らかのヒントを提供できるのなら嬉しい。■

(日本ボランティア学会・2006年度学会誌 特集「共創の文化、共生の地域」)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です