第75回 研究発表 「素人が読み解く科学論」に参加して

投稿者: | 1997年3月26日

第75回 研究発表
「素人が読み解く科学論」に参加して

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今日の科学技術社会では、素人も科学技術について「無知」であってはならず、一定の知識や理解が必要である−−確かにそれは一面で真実なのだが、いつも疑問に思うのは、科学技術と私たちの関係は「素人」が専門知識を受容し、その進歩に「追いつく」という一方的なものしかないのだろうかということだ。

それとは別のかたち、つまり専門知識の理解なしに、かといってただの感情論に陥ることなく「素人」が「素人」のままで科学技術と渡り合うようなやり方はないのだろうかということだ。私が土曜講座に関心を抱き、今回の「素人が読み解く科学論」に参加してみたのも、そうしたもう一つの可能性とは何かを、いろいろな立場の人と一緒に模索できたらと考えたからだ。

そうした可能性を考える上で大切なことのひとつはおそらく、「素人」を単に「専門知識のない人」というように否定的で欠如的なイメージで考えないことだろう。

今回の土曜講座に参加して改めて実感したのは、素人と呼ばれる人もまた、それぞれの置かれている問題の脈絡(たとえば農業)の観点に立って、そこで具体的に見えてくる科学技術の問題性について様々な考えをもっている、いわば「具体的脈絡での科学技術問題のエキスパート」だということだ。いいかえれば、科学技術の問題への関わり方には、その問題が具体化している脈絡に応じて、専門的議論には吸収されないさまざまな問題の仕方、問いかけ方があるのだ。

おりしも国は、今後の科学技術政策での意思決定過程への「市民の参加」を制度化する方針を打ち出そうとしている。そうした「参加」で重要なのは、意見や判断を述べるのは素人ではなく専門家の役目なのであり、素人が第一にすべきことは、そこで与えられる問題の立て方そのものへの挑戦であり、独自の問題提起を行うことだろう。

すでに設定された問題に答えようとする限りは、結局は「ご意見拝聴しましたが…」に終始してしまうのがオチだ。なぜなら「答え」というのは、問題の立て方次第でその方向性を大きく限定されてしまうからだ。

たとえば「脳死は何か」「脳死は死か」という仕方で問題を提示されれば、その答えは必然的にテクニカル、かつ様々な考え方を一律化したものにならざるをえない。しかし問題を「私はどのように死にたいか」というものに代えれば、必ずしも医学的知識を必要とすることなく、個人一人一人が死について考えそれに従う権利と尊厳を守るような答えの方向性を拓くことになるだろう。

この例はほんの思いつきでしかないが、「素人」の創造性は、専門知識を学習することではなく、こうした「問題提起」の場面でこそ発揮するべきだろう。そうした創造的な問題
提起の作業を、土曜講座の参加者の人たちと実践できたらと願っている。
(平川秀幸)

 

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