プロフィール・リレーエッセイ第6回 薬害エイズとの関わり

投稿者: | 1997年4月26日

プロフィール・リレーエッセイ第6回

薬害エイズとの関わり

江川守利

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このコーナーでは、回り持ちで土曜講座に関わる人々の自己紹介をします。土曜講座ホームページにも「会員紹介」欄があります。

私がHIV訴訟の支援団体である「支える会」に入会したのは、1995年3月27日の東京HIV訴訟の結審集会である。それ以来、いろいろな薬害エイズに関する活動に参加してきたが、この活動に参加した理由は、支える会入会2年位前からの自分の仕事との関わりにある。ここでは、支える会入会前の自分の仕事と入会後の活動について振り返ってみたい。

私は、ずいぶんと転職歴のある男だが、1993年当時は法律を中心とした資格予備校の会社で、研修教材の作成や企業向けの法律情報の収集の仕事をしていた。そのころエイズ対策について企業もかなり関心が高く、私も仕事で企業のエイズ対策に関する研修教材や企業向けセミナーを企画したりしていた。資料収集のため厚生省やエイズ予防財団へ行ったりしていた。資料収集していくうちにエイズに対する差別や偏見がかなり根深いことを感じたりしていたが、残念ながら薬害エイズの問題については知ることができなかった。

私が薬害エイズの問題に出会ったのは、製造物責任法立法化の働きを調査しているときであった。製造物責任法の議論は長年なされてきたが1993年頃から立法化の動きは加速化しその年の暮れには、所轄官庁であった経済企画庁が国民生活審議会の製造物責任法に関する最終答申を発表した。私は経済企画庁の担当者を講師に企業向けセミナー企画・実行に携わった。この時のセミナーには企業の法務担当者もかなり集まり、その中に製薬企業の法務担当者もいたことをよく覚えている。

また、調査のため通商産業省、農林水産省、厚生省と走り回り、国会にも国会議員のインタビューにいったり、製造物責任法の国会審議で最後にもめた「血液製剤を製造物の範囲にいれるか」の問題では、血液製剤調査機構や医薬品副作用被害救済・研究振興基金や製薬企業担当者に会ったりもしていた。こういった仕事の中で、私は徐々に薬害エイズの問題に出会っていくことになったのである。

薬害エイズの活動へ入る最大のきっかけは、1995年3月11日の「科学と社会を考える土曜講座」の「薬害エイズを理解するために」と題する研究発表会である。その時の講座は実に具体的に歴史をふまえながらわかりやすく説明された。エイズと血液製剤との関係がこの講座で明解に理解でき、この運動へ入っていくことになるのである。

この講座の少し後、川田悦子さんの講演会が土曜講座の主催であり、被害の実態を聞いたとき、活動の原点はここから出発しなければならないと感じ、同年3月27日の結審集会に参加し、「支える会」に入会したのである。以来、支える会を中心に活動をすることになる。

支える会に入会して最初のころは、支える会の勉強会で薬害エイズの全体的な問題を学んだり、集会準備の手伝いをしたりしていた。私が入会した頃は、川田龍平君が実名公表した頃で徐々に薬害エイズの問題が知れ渡る頃であったが、まだまだ、現在のように薬害エイズといえば一般市民にわかる時期ではなかった。おのずと、支える会の活動は、薬害エイズの問題を社会に知ってもらう広報活動が主になっていた。私は内向的な人間で、人前に出るのは苦手であるが、支える会の活動は参加した一人一人が主役で参加者全員がイベントの実行委員になって動かしていくので、私もずいぶんお尻をひっぱたかれた。

・1995年7月24日「あやまってよ95人間の鎖」(厚生省前)
・同年10月7日総決起集会(九段会館)
・同年12月12日全国統一行動「一億二千万人の人間の鎖、日本中で大騒ぎ」(厚生省前)
・1996年2月14日~16日座り込み(厚生省前)
・同年3月14日被告企業統一要請行動(市ヶ谷バクスター前)
・同年3月29日和解報告集会「胸を張れ・仲間たち」(東商ホール)
・同年6月16日和解報告集会「薬害エイズ・新たなる旅立ち」(日比谷公会堂)

等様々な集会や要請行動に参加してきた。

この薬害エイズの市民運動の広がりの要因は、若い世代の人達がこの問題を自分達の問題として捉え行動したことにある。自分達の問題として全国各地に様々の地域活動が展開されたが、私の住む新宿区でも1995年9月29日、新宿区議会において「薬害エイズ被害救済に関する意見書」が決議され、この頃から私も新宿において地域活動の企画を始めるようになった。

はじめは、思うように動かず、東京HIV訴訟弁護団の弁護士さんや支える会の事務局、下町の会等のお力をおかりして、ようやく、1996年8月29日、「薬害エイズを考える新宿区民の会」(後に「薬害エイズを考える山の手の会」と改称)の発足にこぎつけた。この会は、和解成立後、世間が薬害エイズは解決した様な風潮の中、この問題はまだ終わっていないこと、また、なぜこの問題が起こったのかを、地域の中で、参加者の身近なところから考えてゆく会である。

今では、月1回のペーズで、原告の方も一緒になって活発な議論をしながら勉強会を行っている。
薬害エイズの問題を通して、私は、大きく二つのことを学んでいる。

ひとつは、いくら知識があっても問題意識がなければ問題の本質がなにも見えないこと、そして、もうひとつは、いくら問題意識をもっても行動しなければ問題の解決には向かわないこと、である。

私は、まだまだ、薬害エイズに関して知識も少ないし、活動も始めたばかりである。しかし、活動することによって、問題解決の糸口は少しずつ見えてきている。薬害エイズの私の活動は、まさにこれからである。

ところで、最後に1冊の本を紹介しておきたい。
『つくられたAIDSパニック疑惑のエイズ予防法』(菊池治/HIV訴訟を支える会協力/桐書房1993)である。

96年の和解成立後、世間では薬害エイズの問題は刑事裁判の進行で終わりに近づいた感じがあるが、いまだ多くの感染被害者が名前を名乗れない現実がある。
その現実を生んだ原因の一つともいえる「エイズ予防法」は、その成立から10年目を迎えようとしている。本書は「エイズ予防法」の成立過程とその問題点を述べている。

どのようにしてこの法律が成立したのか、またこの法律を成立させた国会に対してどうすればよいのかを、私たちは考える必要があると思う。

「エイズ予防法」の事例を成立過程から把握しておくことは、土曜講座が今後「科学技術基本法」に取り組んでいくうえで大きなヒントを提供することになるのではないかと思う。

 

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