藤田康元
はじめに
書店の自然科学書の棚で、私はある種の本をしばしば目撃する。それは、『宇宙は語りつくされたか?』『宇宙はどこまでわかっているか』『宇宙の謎はどこまで解けたか』『宇宙の発見』『ビッグバンの発見』…などといった似たような題名の書物である。
ここにあげたのは、実際私が購入して所有している本だが、どれも現代宇宙論の一般向け解説書である。この手の本は少なくともここ数年、絶えずバージョンアップを繰り返しながら再生産され続けている。このように類書が氾濫するのであるから、宇宙論はよっぽど広く一般に関心を持たれているのであろう。
人はなぜ宇宙論にかくも関心を持つのであろうか?本稿はこの問いから出発する。しかしこの問いは、ストレートな解答を導くためのものではない。そもそも、すべての人が宇宙論に関心を持つわけではないし、関心を持つように見える人々の間でもその在り方は多様であるはずだ。あたかもすべての人が宇宙論にひかれており、そのことには必然的意味があるかのように解釈することは危険である。
私の関心は、そのような解釈の存在も含めて一つの社会現象として近年の宇宙論ブームを批判することにある。そこには、宇宙へのこだわりにはあたかも必然性があるかのように思わせる言説が溢れている。それは、宇宙に過剰な意味を付与する「宇宙イデオロギー」といえる。
かつての私は宇宙論に執着する宇宙イデオロギーの虜であった。よって、本稿では、単に第三者的に宇宙論ブームを批判するのではなく、自分自身への反省を積極的に取り込んだ批判を行うことにする。それにより、私ははなぜ宇宙論に関心を持ったのか、なぜ宇宙にこだわったのかという問いに対するいくらかの答えは得られるであろう。
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