本当の百姓であること

投稿者: | 1997年3月26日

本当の百姓であること

・・・研究発表「素人が読み解く科学論」に関連して・・・ 山口京子

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第79回研究発表「素人が読み解く科学論」に関連して発表者の山口さんから『百姓入門 奪ワズ汚サズ争ワズ』(筧次郎/邯鄲アートサービス/1996)という本を寄贈していただきました。大変すばらしい本でしたので、著者のことを含め山口さんに紹介文をお願いしました。

4~5年前、ある新聞の地方版に書評が出た。たしか『収集される地球』という本で、書き手は筧次郎「次の世代を守る会」代表とあった。その本にひかれたが、それ以上にその書き手にひかれた。問い合わせ、住所を聞き、すぐに手紙を書いた。

茨城県の八郷町で百姓をし、まわりの農家と無農薬野菜や米を作り都市(水戸周辺)の消費者会員に供給しているという。そして月1回(隔月の時も)程度、水戸のお寺を会場に勉強会を開き、通信を出し、年に何回かは農家と都市会員の交流会を開いている。

それにしても筧さんの軌跡は不思議だった。京都大を出てパリ大学で哲学・言語学を学び、日本に戻ってから大学の講師をし、83年から百姓暮しを始めたのだ。パリ大学で哲学・言語学を学んだというからには、構造主義をはじめフランスの思想の潮流を吸収しただろう。それは最初の著作である『ことばの無明・存在と諸存在』の中にあらわれていて、方法として構造主義を使い認識のはたらきを分析しながら、仏教の存在論を提示している。

筧さんは「今日の科学技術の矛盾はその利用の仕方のせいではなく、自然科学の認識そのものに欠陥がある」という。また、「進歩とか美という言葉など、教育やマスメディアを通じてつくりあげられた感性が根拠になっていて、その感性を失うと幻想になってしまうようなもの」と語る。

「機械の”大きな生産力”への期待は、生産という行為についての重大な誤解に基づいている神話である。人間は無からは何ひとつ生産できない。地上の一切のものは太陽から届くエネルギーを素材として生産されたのであり、永遠にその事情は変わらない。真の生産者はひとり太陽のみである。

ふつう私たちが生産と呼ぶ行為は、”太陽のエネルギーを人間に都合の良い物質に集中させ、変換する事”でしかない」として、私たちの認識の問題点を指摘する。また「仏教的な農業というものがあるとしたら、”我がもの”という想いを起こさない農業でしょう。収穫が少なくても悲しまない。豊作でも浮かれない。私が作っているという想いがない。そんな農業でしょう。」と農業の本来の在り方について述べる。今抜き書きした部分に関心を持たれる方には、是非著作の全体を読んで検討してもらいたいと思う。

食べ物や農業の問題にずっと関心を持ってきたが、それをどんなやり方で引き受けるのかについて、きちんと認識論や価値論を学ばないといけないなと思う。自分自身の欲望がこの社会でどうやって作られたのか、そのメカニズムを知ることは、自分がその欲望から抜け出すことを可能にするだろう。

そのための一つの根本的な答えがここに提示されていると感じた。農のあり方、工業社会、科学という認識などについて、目から鱗が落ちるような経験をさせてもらった。『反科学宣言・私はなぜ百姓になったか』『百姓の思想・丸い地球の暮し方』などを読んで、是非皆さんにも考えてもらいたい。

一度や二度で読み込める本ではない。私自身読めていないから上田さんに書きますといった後どうしようかと悔いた。再度読みメモを取り、以前には読めなかった所がみえたりしてうれしかった。読み手の位置や立場、価値観によっては、非現実的な本・生き方だと感じられる方がいるかもしれない。

どう感じるかによって、読み手の位置が逆照射されるだろう。
季節になると、畑のキャベツに付く青虫を一つ一つ潰していく。できるだけ機械にも頼らず、手仕事にこだわっている。昼間は百姓をしながら、夜なべをしたりや農閑期を利用して書き物をするのだという。近代栄養学では多品目の食品をとりなさいといわれているが、筧さんはそれに異を呈する。

実際の手間やひま、苦労と工夫の大きさは、現場を見なければわからないだろう。いや見ただけでわかるものでもないだろう。その疲れにしろ歓びにしろ。実際百姓をしたことのない私が筧さんの本を紹介するのは不遜だが、一人でも多くの人に筧さんとその著作を知ってほしいと思う。

一番新しい作品『百姓入門』はまだ在庫があります。入手を希望される方は山口までご連絡ください。
(0297―64―2759)

 

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