科学論雑談――『科学論入門』をめぐる架空対談

投稿者: | 1997年2月26日

科学論雑談――『科学論入門』をめぐる架空対談

上田昌文

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2月8日の研究発表「素人が読み解く科学論」では、13人が集い、現代の科学技術がかかえる問題点やその問題が発生するしくみについていろいろな議論を交わしました。ここでは、その時に要約して紹介した、佐々木力『科学論入門』を手がかりに、2月8日の議論を整理し、3月8日に佐々木さんをお招きして行う討論に向けて一つの素材を提供しようと思います。

2月8日の参加者の「意見・感想」は、次号に掲載されます。

UE:佐々木氏の『科学論入門』の意義は何だろう。

AKI:これまでの科学論の書物は、科学的認識の性格を考究するものと、科学技術の社会的機能を考察するものに大別されるだろう。科学史はその両方にそれぞれ関連して「科学はいかにして(認識論的にあるいは社会的に)成立したか」を問う仕事だといえる。個別の事例をふまえた歴史的分析は様々になされてきたのだろうが、それらを総合して、科学技術のこれからを(空想的にではなく)実証的に展望した仕事は、意外にも少なかったのではないか。佐々木氏の本は、これまでの先学の知見を凝縮し、歴史のエッセンスを将来の展望につなげた、希な仕事といえる。

UE:そうだね。たとえば反原子力の市民運動などに取り組みながらなかなか事態の打開を見いだせないでいる一般市民にとって、「科学史・科学論」の書物はいかなる意義を持つのか、考えてみよう。自分が直接関わることがらを、いったん”外側から”より広い文脈のなかに位置づけてみること。そうした作業が、直接の取り組みに対して新しい対処法や展望をもたらすことがあるものだ。今自分の置かれている状況を過去をさかのぼってより深く理解するために、人は歴史を勉強する。ただし、歴史家の側に現代の問題に対する鋭い関心があってはじめて、歴史家は歴史を意義ある形で構成・記述することができるし(史料の扱いなどで厳格な職人的技量が必要とされることはもちろんだけれど)、読み手の側もそれぞれの問題意識を投影させることで、歴史家の解釈(歴史は事実の羅列ではあり得ない!)を再解釈できる。逆に言うと、歴史家の側もしくは読み手の側に、現代の問題へ関心や取り組みが希薄であれば、歴史は”生きてこない”。『科学論入門』は、終章で原子力と脳死の問題を扱う。

著者は断定的な明言はしていないが、かなり明確に「反原子力」「反脳死」の立場をとっていることがわかる。読者にとって大切なのは、その立場を受け入れることではなく、著者の言う科学技術の「ディレンマ」が何に由来し、科学技術のいかなる意味での「転換」が必要であると述べているのかをふまえた上で、その立場を自分なりに検討することだろう。つまり、最終章での脳死や原子力に対する批判が、前章までの分析からどう導かれるかを見極めることだ。(第1章:「近代日本の科学技術の性格」、第2章「西欧近代科学の特性と発展」、第3章「技術とは何か、それは科学とどう関係するか?」、第4章「数学・自然科学・医学――科学の3つの典型」)

AKI:その意味では、たとえば日本の原子力政策の特異性(「核燃サイクル」推進路線への固執)を「日本の近代科学の特異性」(第1章)と関連させた分析が欲しい。また、看護術を「人間の癒しの根元的技芸」として位置づけ、それが現代や未来の科学技術に対して持つべき規範的意味合い―「科学技術はすべからく人間の苦悩を軽減するように創造され、機能すべきだ」―を説き及ぶにあたっては、人間を人体機械とみなして精緻な”キュア”を施そうとする近代医学のあり方と、看護学にみられるような患者への深い配慮をもった”ケア”のあり方とが、どう拮抗しあるいは補足しあってきたか、そしてなぜ後者がなぜ前者より優位に立つべきなのかを明確にする必要がある。でないと、脳死判定・臓器移植医療をめぐって、技術的解決(”キュア”)を指向する移植医たちと、尊厳のある死を迎えるために必要な配慮(”ケア”)が交錯しないままになり、たとえば「インフォームドコンセント」でさえ、前者が後者を言いくるめてしまうための言質として利用される可能性があるからだ。

UE:著者の言う「科学技術論の医学史モデル」は、こう解釈すればよいのだろうか。医学が近代自然科学の方法を通じて獲得された人間に関する知識の集成であると同時に、それには、人間の病を癒すことに向けて”奉仕する”ようにその知識が編成され活用されなければならないという大前提がある。ちょうどこれと同じように、(人間以外の)自然を対象とする他の科学技術についても、知識の追求や技術の開発それ自体をよしとするのではなく、広い意味での社会の”癒し”という目的に奉仕すべきである、つまり科学技術はそういう目的にかなうようにコントロールされないといけない、ということ。

AKI:その観点から考えれば、「医学史モデル」が要求する規範を大きく逸脱する可能性を、科学技術というシステムが常に構造的にかかえてしまっていることを、もっと問題にしてよいのではないか。科学技術は、内側から見れば、著者のいう「フォン・ノイマン的人物」を常に再生産するものだし、外側からみれば、資本主義経済と結びついて経済的強者が弱者を支配するときの手段となるものだ。前者について言えば、科学者自身にモラルを要求してもだめだろう。「フォン・ノイマン的人物」が称揚され、行政的な権限を委託される(そして科学者が個人としての責任を取らされることはまずない)という状態が続く中では、内側から変わる契機はうまれないだろう。また、後者について言うなら、いわゆる第三世界の大部分の地域にとって、近代西洋科学技術は、「開発」イデオロギーの強力なパートナーとして、先進国への隷属を決定的にする道具になっている。身の回りの自然と順応する手仕事(技術)とそれに伴う”知”(「具体の科学」)は駆逐され、西洋的な「合理性」、つまり経済効率を高くすることを目指した技術の使用が強制される。

UE:科学史・科学論のこれからの大きな課題の一つは、「第三世界にとって科学技術は何を意味するか」を詳しく検討することだろう。そのことを国内的に引きつけて見るためには「農業にとって科学技術とは何であるのか」を考えるとよいと思う。近代的農業の行き着いたところが、遺伝子組み替え作物や品種の一元管理支配(企業による種苗の特許・独占)であり、しかしそれと対抗する形で、伝統的農法の見直しを含む有機農法や自前の流通を開拓しようとする産直がある。そのそれぞれに科学技術はどうかかわってきたのか、行政の施策や経済メカニズムと重ねて詳細に点検すれば得るものは大きいだろう。

AKI:農業は医学と同じくらい古くからあるものだから、ちょうどこの本で紹介されている「西洋医学と伝統中国医学」の対比のように、「西洋農業と非西洋地域の農業」を対比するのも有益かもしれないね。医療が人を癒す営みなら、農業は人を養う営みだ。近代自然科学が何を欠落させ何を偏重してきたのか、この分野に即してみるといろいろなことがわかりそうだ。

UE:ところで、著者の言う「科学技術の前線配置の転換」や「技術の制度化に”インフォームドコンセント”の考えを導入すること」を行うには、市民が何らかの形で科学技術政策の意思決定に介在していかないといけないと思うが。

AKI:もちろんだ。問題はそれをどうやって実現するかだろう。1つは、科学技術批判を制度的にどう機能させるかだ。デンマークのコンセンサス会議は現時点での代表例だろう。ごく普通の市民数人が選出されて前もってあるテーマを勉強し、専門家や行政官に疑問をぶつけ、会議を重ねる。最終段階でレポートをまとめ、議会での判断材料を提供する。カネも時間もかかるやり方だが、こうしたプロセスを経ることが”インフォームドコンセント”には不可欠だ。こうした市民の立ち会いを助けるために、科学技術を推進する利害集団から独立した「専門的批判集団」の力を借りることも避けられないだろう。日本では萌芽状態でしかない「専門的批判集団」についても、NPO関連の法律的支えを確実なものとしつつ、その成長を市民が支援していく必要がある。

UE:もう一つは、科学技術のいわゆる「恩恵」とは何であったのかを見直し、私たちが科学・科学者に対して抱くイメージと態度を変えていくことだろう。これには教育が大きくかかわってくる。一言でいうと、科学技術にとって民衆とは、「経済メカニズムに組み込まれた無知な享受者」でしかない。なにしろ科学は、膨大で高度な知識の集積で専門家以外の者には近寄りがたい要塞のようなものだ。それに加えて、「科学的」という符丁は「正しさ」の証のようなものであるというイメージが、ずっと私たちに植え込まれてきた。

AKI:確かに「科学的」であることは認識のレベルで言えば、「合理性」の一つの極といえるかもしれない。ところが制度的なメカニズムとして見たとき、科学技術は暴走して大きな負の厄災をもたらす可能性を常にもっている。私たちは「科学的」というコトバを使うとき、認識のレベルと制度のレベルを同時にイメージできるようになったほうがいい。

UE:教育が”知”のイメージを、「より高度な知識をよりたくさん吸収した者が優れている」といった形で私たちに刻印する限り、科学技術の分野での専門家支配はなくならないだろう。教育そのものが「権威に対して服従する」という心性を無言の内に植え付けるシステムである限り、先に述べた、科学技術に対する批判の制度化も難しいということか。

AKI:佐々木氏が巻末で呼びかけている「人類の行く末を不安とともに見つめなにか行動しようと身構えている市民」とは、つまるところ批判精神をもってことに臨もうとする市民を意味するのだろうから。

UE:科学技術だけを特別視するわけではない。日常のあらゆる局面で批判精神を堅持することのなかから、科学技術に対する批判的な見方や姿勢が生まれてくるということだと思う。

 

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