「市民科学」を活性化するための3つの要件

投稿者: | 2019年5月3日

「市民科学」を活性化するための3つの要件

上田昌文(NPO法人市民科学研究室・代表理事)

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※この原稿は高木学校開校20周年記念企画「市民科学への道」(2018年12月15日(土) 日本科学未来館 7階 イノベーションホール)に「高木学校関係者で、現在各分野で活動している方」の一人として筆者が行った報告をもとに、高木学校発行の『報告集』に寄せて書いた原稿を、転載したものです。原題は「高木学校による「市民科学」のアプローチが力を発揮するために」です。

市民科学とは何でしょうか?

それは端的に言って、活動としては確かに存在するけれど、社会に定着する概念としては形成途上にあるものです。とりあえず私は、「市民科学のあり方を議論しつつ、関心の高い一般市民を引き込んで学習の場を創り、実効性のある市民調査を実施していく組織的活動」くらいに考えていますが、今、欧米では様々な活動を含む「Citizen Science」を政策的にも支援しようとする動きが欧州委員会や各国の政府機関でもみられるようになってきました(※)。

※顕著な動きとしては、欧州規模での研究と技術革新を支援する「フレームワーク・プログラム」でもその第7 期の一環として「Horizon 2020」がある(これには2018年から2020 年までに約300 億ユーロが投じられようとしている)。そこでは、「卓越した科学(Excellent Science)」「産業技術におけるリーダーシップ(Industrial Leadership)」「社会的な課題への取り組み (Social Challenges)」という政策目標が掲げられている。そのもとで実施される種々の取り組みの一つに市民科学が位置づけられており、年額でも1000 万ユーロを超える規模の予算があてられてきている。

これは、ICT(情報通信技術、ITに同じ) の急速な発展に伴い研究情報のオープン化とアクセス性が向上したことが背景にあります。ICT を活用して、研究者や研究機関と連携しながら、多くの一般市民がデータの収集や分析に参加する、新しい市民参加型の科学研究が、天文学、生態調査、環境調査などで、盛んになってきている現状があります。さらに言うとこの「市民科学」には、アカデミックな研究活動への貢献以外にも、科学それ自体への関心の喚起や科学コミュニケーションの促進、従来の学校教育の枠を超えた実践的な科学教育、そして社会的課題への対応などにおいても様々な役割や効果が期待できるとみなして、各国の政府機関などが「市民科学」を促進させるための基盤作りに乗り出しているわけです。

現時点では、「市民科学」をおおまかに、

オープン・サイエンス:科学情報のオープン化・アクセス性の向上を受けて、市民を含む多様な関係者の参入と協力のもとでなされる科学研究

クラウド(ソーシング)・サイエンス:専門的なデータの収集や分析に多くの市民が人海戦術的に関わって協働する科学研究

DIY サイエンス:DIY バイオにみられるような、大学や公的あるいは企業の研究機関に属さない市民が、小規模だが自前で行える科学研究

社会問題解決型の市民科学:批判的・対抗的な科学データを出し社会変革の契機を作るための調査研究活動

の四つに類型化できるでしょう。ここで考えてみたいのは、まさに高木学校が目指しているこの4 番目の市民科学が、もっと力が発揮できるようにしていくには何が必要か、ということです。それには私は、主に三つの要件があるのではないかと思っています。

第一は、何と言っても、調査力があることです。

これは言い換えるなら、問題発生の現場の声をすくいあげ、「いかに被害・危害を抑えるか」を目的とする調査をすばやく組織する機動力があるか、ということです。当然、そうした調査を担える能力を持った人たちをうまく組織化できるか、が問題になりますから、その基盤がもともとあるか、ないかでは、大きな違いが生まれてくることになります。高木学校は幸い、高木仁三郎さんによる長年の実績と創設の高い志に惹かれて、それに共感した若者たちがそれなりに多く集まり、また原子力資料情報室という世界的にも高い水準にある確固たる市民科学NPO の先達が身近にあって、恵まれたスタートを切ることができた、と言えるでしょう。ただ、高木さん亡き後、この20 年に及ぶ活動において、こうした活動にはどうしても欠かせないだろう、資金繰りを含めての全体を見通せる運営者・経営者的な人が現れたか、あるいは活動を続ける中で養っていけたか、というと、その実現には至っていない、と言えるのではないでしょうか。もちろんこうした「人集め」「人育て」には、研究会・勉強会を継続し、それの成果を公開する(『通信』やネットでの発信も含めて)という地道な作業が必須となります。問題関心のある人―素人であれ、専門家であれ―を引き込む何らかの窓口があり、引き込むだけの魅力を常に発散していなければならないわけですが、高木学校はこの点では発表会、(合宿なども含めた)交流の場を設け、『通信』その他でも恒常的な発信を欠かすことなく行ってきたと思います(ただ、ホームページでの情報更新はもっと速やかにかつ密度高く行う必要があると思いますが)。でも組織化や運営の面からすると、これらはあくまで「入口」なのです。その先に何を設け、どうやって調査力の実質的な向上を生み出していくかが、まだ十分に見えていない、という気がするのです。

第二は、ジャーナリズムへの訴求力です。

これは、自身の活動の成果をふまえて、行政、企業、アカデミズムの見解を問い対応を迫っていくこと、そしてそれをより広く世に知らしめること、を意味します。端的にいうと、調査の結果を出すだけではダメ、それを何らかの形で社会変革(の可能性)につなげられる、というところまで行ってはじめて「市民科学」と言えるのだ、ということです。現行の政策に対して対抗的・批判的立場をとると、得てして行政や企業と「距離をおく」「できるだけ関わらない」姿勢をとりがちになるわけですが―そうしたきっぱりとした姿勢を貫くことが必要な局面ももちろんありますが―、いやむしろ、議員、行政、企業、アカデミズムのなかで、同じ問題意識を持てる方たちといかに良質な関係を作れるか、ということが大切になってきます。危害を受ける(あるいは受ける可能性のある)側に関わりつつ調査をすすめる、つまり「現場」に赴いてそこに身を置いてものを考え調べていく、ということの大切さは、いくら強調しても足りない、と私は思っていますが、「逆の」現場、すなわち、問題を発生させたり、その問題に不当な、あるいは不適切な形で対処しようとしていたりする、企業、審議会・委員会、学会などの内実をしっかり把握することも、同様に大切です。

そのためには、普段から、取り組んでいるテーマに関連して、

・企業の「展示会」や「セミナー」へ参加したり取材したりする(技術開発の現場への接近の手がかりになる)

・学会へ参加する(扱いたい問題の最新の科学的知見を誰がどう提供しているのか、その知見がどこまで確からしいのか、といったことを直接に学べる)

・政策形成に関わる政府の委員会や審議会をウオッチし、その見解を分析し、批判する(そこでは、行政・企業・アカデミズムが政策にどう関与しているかが集約的に表現にされることになるので、これは批判のための最も基本的でかつ効果的な作業になる)

といったことを常にこなしていけるようすることが望ましいのです。いわば、素人である自分を、企業、アカデミズム、行政のそれぞれの「専門家」らに対峙させてみて、自身のその専門知に関する解読能力を鍛える場だと、それらを理解すべきなのです。このプロセスで、パブコメを出すだけではなく、それらの専門家たちに直接に質問状を送ったりすると、結果的に相談できるあるいは協力してもらえる専門家を得ることになったりするかもしれません。また、専門的知見が関わっての「対立」関係を自身で読み解き、そのことをふまえて、他の団体にはできない(そしてマスコミにもなかなかできない)、そうした対立する立場の専門家どうしをうまく対面させて、よい形で―公開であるいは半公開で―議論させることもできるかもしれません。

この最後に述べた点は、「テクノロジー・アセスメント」(専門家×専門家、を基本形とする)や「ミニ・パブリックス」(専門家×一般、一般×一般、を基本形とする)の手法にあたるものであり、まさしくこうした手法を活用してジャーナリズムへの訴求力を高めることができるはずなのです。取り上げる問題での異論・反論の内実とその意義、論拠となる科学的データ、といったことをジャーナリストに取材してもらうことを、促すこともできるでしょう。

ただ、基本的に記者・ジャーナリストというものは、フリーで活動しているのでない限り、一つの問題にじっくり腰を据えて取り組む、ということは望み難いのです。今日はこちら、明日はあちら、と飛び回っているのが常態です。ですので、ある特定の問題やテーマを深く理解するのに必要な専門知識を学んでいる余裕はまずない、とみなせます。それは逆に言うと、そうしたことを集中的に短期間でエッセンスだけを学べる機会を、彼らほど欲している人たちはいないかもしれない、とうことにもなります。そこで、私が提案したいのは、高木学校などが主催する形で、ジャーナリスト向けの連続的な「勉強会」を開く、ということです。これがうまく実施できれば、ジャーナリズムへの訴求力を生む、確実な基盤となることでしょう。

第三は、科学教育の改変と市民調査力の育成のシステムです。

今の日本社会の大きな特徴のひとつは、友人や仲間うちで、あるいはSNS などを通して、今の政治・現政権に対する不平不満は「つぶやく」けれども、市民として連帯してそれを「大きな声」にしていくことを、どうしてか多くの人たちが苦手とし、避けているらしい、ということです。それは民主主義の世の中と言われながら、その根幹となる政治参加への意思がきちんと形成されず(「選挙で投票すること」だけに終わっているか、それさえも行わない人も多い、という現状)、結果的に大きな無力感が社会を覆ってしまっています(実際は「何もやっていない」に近いのだが、「何をやっても変わらない」という気分だけが蔓延している)。

この状況に、小さいかもしれないけれど確実に風穴を開けることはできないものでしょうか。私は「できる」と思っていて、その一つは、科学技術が私たちの生活のありとあらゆるところに浸透している、という現状をうまく意識化し、問題設定に活かすことです。

私が考えているその活用方法は、教育現場とも連携して、科学的好奇心と(科学技術危害が絡んで生まれる)理不尽さへの反発(弱者への共感)をどう結びつけることができるか、をいろいろ試し、誰でもが使える形にしていくという実践です。結果的にこれが、社会的な問題への意識と、政治的意思決定への参画の意欲を、底上げしていくことにつながるのではないかと思うのです。

ちょっと厳しい言い方になりますが、これまでの理科教育は「社会的問題意識の真空地帯」でなされてきた、と言えます。これだけ科学技術が生活に浸透し、様々な問題を引き起こしているにもかかわらず、です。科学と技術の社会性を自覚するには、「科学をもっと知るために科学を学ぶ」ではなくて、「生活をよりよくするために今の科学を見直す、そのために科学を学ぶ」という方向付けの転換が不可欠です。市民科学研究室が取り組んできた例で言うと、「子ども料理科学教室」、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンとの共同ですすめてきた「放射能リテラシーワークショップ」、「防災パレット in かつしか」ほか、そしてこの4 月にオープンさせる「キッズ・ラジスタ」(子どもがラジオ番組作りを通して地域社会と関わるプログラム)など、すべてがそうした方向転換を組み込んだ内容になっています。

「身近な技術・科学」から好奇心を喚起し、「何をどう変えればよりよくなるか」を通して社会性に気づかせ、「自分で調べる手法」を身につけることで市民調査の基礎能力を養う、というプログラムの開発や実践は、もちろん、まだまだいくらでも未開拓領域がありますから、学校の教員をはじめ教育に関心のある方々に大いに活躍してもらいたいのです。

このような、主として小学生・中学生・高校生向けの活動を通して痛感するのは、潜在的な好奇心、知的探究心は誰もが持っているので、それを「社会をより良くすること」にうまくつなげていけるやり方を、私たちは見出さねばならない、ということです。高木学校のようなところが、子どもたちを引きつける教育的な事業を展開し、それが社会をより良くするために「自分で調べる」ことを支え合う場・システムとして機能している―それは、決して遠くない先に実現可能な目標にできる事柄ではないかと、私は思っているのです。

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