連載「変わりゆく高等教育」第2回 悪魔か救世主か? その1:MOOC(ムーク)の出現

投稿者: | 2019年5月31日

連載「変わりゆく高等教育」第2回

悪魔か救世主か?
その1:MOOC(ムーク)の出現

a.k.a.ミンミン

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はじめに

市民研通信第50号に寄せた「米国のエリートオンライン・全寮制大学Minerva(ミネルヴァ)」の記事では、テクノロジーの進歩に必然的に影響され、高等教育変革の先駆けとなっている、しかし依然として米国でも例外的な存在であるひとつの小規模私立大学を紹介した。そのなかで、現在の高等教育は中世以来連綿と続いている教育の提供側の都合により伝統とされてきたモデルに呪縛され続けていることを説明した。その呪縛とは、大学(教師)側からすれば、(大学が)決めた時間に、(大学が)決めた場所に学生を物理的に集め、(大学が)決めた内容の勉強を、しばしば大教室で、受身で受講させ、(大学が)決めた時に試験を受けさせ、(大学が)単位を認めたり認めなかったり出来る、というものだ。この提供者側のいわばビジネスモデルに従って、国家や大学も教育提供環境を整えてきた。

 

Minervaの物理的な校舎から解放されて学びの場を世界的に展開しようとする動きとは対照的に、最近では少しでも学生に通い易くしようと、東京郊外の大学キャンパスが都心に回帰してきている。しかしこの事象は筆者には、商売に百戦錬磨の建設業者や教育コンサルタントが、都心回帰を可能にした工場等制限法の廃止に乗じて経営にウブな日本の大学人を巧く言いくるめ、金を使わせた例としか思えない。個々の大学の経営状況は詳しく見てはいないが、近い将来この都心回帰の為に行った新規投資への返済が重い負担となって、財務状況を急速に悪化させる私学が多く判明してくるだろう。そもそも、これからは学生となる子供がいないのだ。そしてそんなことは昭和時代から危機とされていたことなのに、当時書店に少数だが発見できたまっとうな予測本は、トンデモ本のように扱われていたことをいまでも記憶している。それ以来の場当たり的な対応。既に地方の大学で募集停止なんてニュースは珍しくもない。

 

大学が都心に帰ってきても、肝心の人口割合の圧倒的多数の大人を集められるだけの魅力ある教員や高品質のプログラムを提供できるのかは大いに疑問であると言えば良い方で、ほとんど絶望的である。それほど日本の大学や教師が、教えるということに関しては、子供相手の仕事しかしてこなかった、故に大人を扱えないからであるし(これは筆者の仕事の立場上、直接さんざん経験して痛感している)、企業も従業員の教育をアウトソース出来るなんて期待していないからである。すでにほとんどのMOTは失速、MBAも撤退した大学も何校もある。生き残っているMBAなどでは、学歴ロンダリングに利用できそうな有名校でも急速に学生の質が落ちてきている、という教員の生の声を聞くことも現実に出てきたのだ。諸々の事情で継続せねばならない大学院には、教育困難大学院というのも出てくるのかもしれない。そしてヤル気ある大人も学ぶ気を失い、そこで教える教員の質も下がっていくのだろう。

 

これだけでも多いに危機感を持たないといけないのに、面白いのは、文部科学省の、そして日本の多くの大学の、いまだに鎖国しているようなものの見方である。ほとんどの産業が海外の競合相手と普通に戦い、差別化してきているなかで、教育だけが安泰だなんて思ってはいけないのだ。実質義務教育化している高校までは、特に海外との競争は大きな脅威とはならないだろうが、今後大学教育産業は普通に海外の大学教育産業と連携し、競争し、差別化していかなければ生き残れない。例えば、きわめてドメスティックな体質であろう日本の酪農業でさえ、日欧EPAの発効で、欧州からの安いおいしいチーズとの競争にさらされ, 海外に打って出るか、国内で差別化しなければ生き残れない状況になってきている。これは政府間の取り決めの結果だが、大学教育なんて、チーズなんて物理的なもののやり取りがないので、実はそんな国家間の政治的規制をやすやすと乗り越えてしまえるのだ。まして(ここは老いた官僚や大学人には思いもよらないだろうが)、日本の学生は、日本の大学の学位を取らなきゃ就職できないだろう、などという昭和時代レベルで思考停止していてはいけないのだ。

 

前回紹介したMinervaの学生が、一年目はアメリカ、2年目以降は英国、ドイツ、アルゼンチン、インド、韓国、台湾、と移動しながら学んでいけることが売りのひとつであったことを思い出してほしい。そのカギとなるのはテクノロジー、この場合はインターネットを最大限に活用した学びであった。その性質上、当たり前だがインターネットには国境は(一部を除いて)ないので、学生や教師が物理的にどこにいようがあまり重要でなくなってきているのである。そのうち大学がどこの国にあるかなんて関係なくなって来るだろう。

 

この事実は世界にとって革命的なことなのである。本稿と次稿で紹介するMOOCによる変革は、日本の大学が少子高齢化の中でどう生き残るか、などというチャチなレベルの話ではなく、インターネットを最大限に活用して全世界にリーチを伸ばし、教育で世界を変えようという、鎖国日本とは全く次元の違うレベルの視点も内包する話なのである。

 

唐突だが、以下のセーブ・ザ・チルドレンの広告を目にしたことがあるだろうか?筆者は地下鉄で目にして、最近一番印象に残る広告として憶えている。

問題。サラさんは、起きている時間の半分で家の手伝いを、残りの時間の2/3で妹の世話をします。6時間寝たとき、勉強は何時間できますか? 学校へは、歩いて往復3時間かかるものとします。この問題は、本当に問題です。

どこかの学習塾の広告を思い出すが、世界の6歳から17歳の子供の6人に1人にあたる2億6,300万人が、貧困や紛争、女の子だからとか、学校が近くにないとか、教員の質に問題があるなどの理由で十分な学びが得られていない、とのことだ。しかし、学校に通えて教員にも問題がないとされる場合でも、(ネットさえあれば簡単に手に入るコモディティ化された)知識の(無意味な)暗記と、それを基本にした入学試験に向けた訓練を中心に仕込まれている子供の総数は、学校に通えない子供の総数よりも多いかもしれない。前回紹介したMinervaのように自分の頭で考えることを刺激されるような教育を受けられるのは、先進国でもまだごくごく一部だろう。

 

子供の教育では、高等教育に比べて学校という装置に物理的に集まる意義は依然としてあるだろうが、それでもいま学校に行くことが出来ない子供に教育を与えるため、さらにいま学校に通えている子供の教育の質をさらに良くするため、テクノロジーが寄与できる部分があることは明らかだ。まして対象者が大学生ならば、テクノロジーで代替できる部分は全く多くあるだろう(ちなみにAdult Educationという研究分野が欧米にはあるのだが、そこでは「大人」は、一般にある程度の経験を蓄積した30歳台以降とされ、日本の大学生くらいの年齢は決して大人とはされないのだが、ここでは深入りしない)。

 

ここで途上国、先進国を問わず広く教育を変革すると期待されている新しい取り組み、また前稿でも紹介したが、2013年にイノベーション学の泰斗でハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授に、「アメリカの大学の50%は10年から15年以内に潰れる。そこには州立大学も含まれる。それが起こると思うとワクワクする」、とまで言わしめた新しい取り組み、それがMOOCなのである。

 

MOOC(ムーク)とは何か?

MOOC(ムーク)とはMassive Open Online Course の単語の頭の文字をつなげたもので、インターネットを介した大規模な公開オンライン講座のことである。Online Courseはいいとして、Massive(マッシィヴ)は「大規模な」とか、「大量の」とか、「広く行き渡った」、くらいの意味、またOpenであるが一般には「公開」と訳されることが多いが、「無試験で入学できる」といった意味が重要である。無試験で入学できるというと、例えば日本では通信制の大学があるが、誰でも入学できるわけではなく、年齢による制限、例えば放送大学は全科履修生では大学入学資格が必要、選科・科目履修生では年度初めに満15歳以上などの制限がある。しかしMOOCでは年齢による制限は、学位の取得などに関連する以外には原則ない。4歳でも10歳でも問題ないのである。また「公開」と言っても日本の場合は、例えば放送大学のインターネット授業を「無料」で視聴できるわけではなく、先ずは学費を払わないと、クラスの内容すら良くわからないのであるが、MOOCでは単位なんて必要なければ、授業のビデオの視聴など無料が原則なのである。

 

ここが決定的に重要なのであるが、MOOCは原則的に無料か極めて廉価なのである。登録もgmailやyahooで十分だし、仮名で登録してもかまわない(しかしそうすると後で修了証をもらうときに困るが)。無料でも講義ビデオは見放題だし、他の参加者と掲示板で議論もできる。しかし、自分の取ったコースを大学の単位に組み込んだり、履歴書に書いて転職の役にでも立てたければ、50ドルとか100ドルの費用を払ってコースの修了証を「買う」仕組みなのだ。また修了証を積み重ねて学位を取ることも出来る。始める時は無料で、学ぶうちに面白くなって有料のバージョンにしてより手厚い指導を受けることもできる。ともかく、さまざまなバリエーションがあるが、伝統的形態の大学に大きなインパクトを与え始めているので、次回詳説する。

 

ちなみに筆者はMOOCの黎明期から多くのコースに参加してきたが(さらに登録しておきながら、ほとんど参加しなかったコースはその何倍にもなるが)、全て無料バージョンで済ませてきた。しかし、修了証など特に欲しくないだけで、実際の学びは、有料でも無料でも原則違いはない。自分にとっては、むしろ金を使わない方が、いろいろなコースをつまみ食いできるし、また一つのコースでも自分に興味がある部分だけ学ぶという気楽な態度でいるために都合がいいとさえ感じている。 講義ビデオはWIFIさえあればスマホやタブレットにダウンロードできるので、それらを電車の中で見たりと、本の替わりの気楽な暇つぶしにもなっている。MOOCは完修率が低い、故に効果的でない、などという議論は、全く大人の学びをわかっておらず、学校に閉じ込めた子供への理屈(つまり出席率とかテストの平均点とか)を大人にあてはめた、全く意味のないことで、自ら子供相手の仕事しかしてこなかったことを証明している。

 

ではMOOCとは具体的にはどんなものなのだろう。MOOCをよりよく把握するために、次の例を想像して欲しい。読者は北海道のチーズ工房である。自分で店舗も持っているが、より多くのお客に売るために、楽天にも出店している。ここでチーズがMOOCコース、チーズ工房はMOOCコースを作成する大学や研究機関, 楽天がMOOCコースのプラットフォームとなる。この稿ではプラットフォームをMOOCと呼んでいくことにする。 MOOC自体は最後のCが示すようにコースなのであるが、便宜的にコースを提供するプラットフォーム、つまり楽天のような「場」をMOOCと呼んでいくことにする(本当はコースは沢山あるので、最後のCはCoursesと複数形になり、MOOCsなのだが、それは議論の本質ではないどうでもいいことなので、ここではMOOC(ムーク)に統一していく)。

 

2012年がMOOC元年と言われているのであるが、実はそれ以前から北米や英国を中心に、特に大学での教材をネット上にアーカイブして公開し、無料で使ってもらおうという動きが起きていた。その中の一つを紹介してから、世界の主要なMOOCを見て行こう。

 

(以下、多くの外部サイトへのリンクを張ってあるが、読者はぜひ全てのリンク先サイトを訪れて欲しい。そうすることでどのようなコースが提供されているのか、またこれが社会にどの程度のインパクトを与えているのか、与えようとしているのかが実感できるだろう。また日本の大学生の総数が300万人弱であることも思い出されたい)。

 

MOOC誕生前夜

MOOCは突然変異で生まれたものではなく、萌芽はその群発より10年以上も前に発生していた。これも一つではないのだが、ここでは最も革新的だと当時捉えられたMITの例を挙げよう。

MIT OpenCourseWare (OCW)

言わずと知れたマサチューセッツ工科大学が、全ての授業をネット上に公開し、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのもとに利用できるようにする、と発表したのは2001年のことであった。それ以来、この大学は毎年授業のアーカイブを重ね、現在では2,500ものコースを公開し、世界中から累計3億人の利用者を記録している。公開する授業の内容も、初期の頃こそ限られた授業のハンドアウトとシラバス、簡単なノートだけだったのが、今や多くの授業のビデオまで撮って公開している。

MIT OCWのHPより

 

例えば最も人気のあるコースの一つとされるIntroduction to Computer Science and Programming in Python を見てみると、シラバスやテキスト、毎回の講義ビデオ、講義で使用したスライド、Pythonというこの授業で使用したプログラミング言語のコード、クラス内で出した問題とそのビデオ解説、宿題、と至れり尽くせりなのである。MITの正規の学生であれば、このコース一つあたりで何十万円もの授業料を払っているのだろうが、OCWであれば何の登録もする必要なく、4歳であっても10歳であっても、無料で、いつでも好きな時に学べ、また教員であれば自分の授業の参考にすることが出来るのである。さらにOCWには中国語、スペイン語、トルコ語 コリア語に翻訳されたコースまで見つけることが出来る。

 

世界の誰に見られても恥ずかしくない(というのは日本的な感覚かもしれないが)だけの授業を展開しているという自信、こんな自信にあふれたコースを何千も無料で公開し、好きなように使ってくれ、と自らイニシアティブをとったMIT 、そこには当然、世界の主要な研究教育機関の一つとしての威信や影響力をますます強めたいという大学の戦略もあるだろうが、それより教育の力で世界をより民主的にしたいというメッセージを発信していたのが強く印象に残っている。家の手伝いと妹の世話に明け暮れるサラさんのように生きなければならない数億人の人生を(その1%だって100万人単位だ)、ネットを介して変えられる可能性がある。そして、この精神こそMOOC発展の原動力につながっていくのである。

 

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