【連載】ノルウェーだより no. 2 ― 新たな世界への基線

投稿者: | 2019年8月21日

<連載> ノルウェーだより no. 2

新たな世界への基線

吉澤 剛(オスロ都市大学労働研究所)

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ノルウェーに越してから1年が過ぎました。その間、ずっと気になっていたことがあります。祖先にあたるヴァイキングと、現代の北欧の人々が持つ理知的で洗練されたイメージとのギャップについてです。でも、しばらく住んでいると、知り合いの日本人などからたびたびノルウェー人の《野蛮さ》を耳にすることがあり、びっくりします。それを自分でも目の当たりにしたのは、たとえば家の庭一面に咲いた白いカスミソウの花々が跡形もなく刈り取られ、立派に育った一本の庭木が間引かれてしまったときでした。また、子供が友達の家で作ったガラクタを、子供が帰るときに捨てる友達のお母さん。子供も友達ももう要らないのは確かでしょうが、目の前で躊躇なくゴミ箱に放り込むさまを見ると、判断の合理性と、その裏返しである野蛮さを同時に感じざるをえません。ヴァイキングがイングランドに上陸して教会や修道院を真っ先に襲ったのは反宗教的な理由ではなく、単にそこが多くの財を蓄えていたからだとも聞きます。結果として、経済的ならびに精神的に他の民族を征服するのに最も効率の良い手段になったようです。ヴァイキングとは襲撃者を意味し、対岸の人々からすると海賊といえるのかもしれませんが、彼らは交易を目的に荒波を乗り越えてきたと考えられており、資源の乏しい北の地においては極めて妥当な判断だったのでしょう。野蛮とはつまり、文化が異なり理解し難い相手を形容するのに都合のいい言葉に過ぎません。

劇作家イプセンが半年足らずで書き上げた『民衆の敵』は、前作『幽霊』に対する社会的非難への憤怒に駆られた作品とされています。主人公である医師のストックマンは地元の温泉の湯元の導管に汚物が混入していることを知り、改良工事を提案しますが、費用と時間が掛かり、温泉地としての名声に傷がつくことを嫌った町長と、それに同調した地元紙や住民らの反発に遭い、ついには郷土を追われます。真理と自由の最も危険な敵は堅実でぐうたらな多数だと喝破するストックマンは堅物の合理主義者であり、公共にとっての将来の利益のために現在の損失を厭いません。ですが、人間はどうしても将来の利益を割り引いて考えてしまうものです。たとえば人は、明日12ドルもらえるとわかっていても今日10ドルもらえるほうを選びます。その反面、30日後の10ドルよりも31日後の12ドルを選ぶ傾向にあり、近い将来ほど待てないという時間非整合性が様々な研究分野で示されています。朝三暮四という故事ではありませんが、サルと同じく、将来の約束が反故になるリスクを心配してできるだけ先に利益を確保しておこうというのは必ずしも非合理的で短絡的な考えとは言い切れないのです。

フログネル公園(ヴィーゲラン彫刻公園)内の石柱「モノリッテン」

しかし《今、ここで》に囚われず、できるだけ広い視点を持つことは大切です。夏休みに日本に一時帰国したとき、ノルウェー産のサバの塩焼きを堪能しました。オスロ界隈でサバなどはまず手に入らず、その他の魚も鮮度や味が落ちるものが少なくないことを考えると、多くのノルウェー産の魚が地球の裏側でないと美味しく食べられないというのはとても奇妙で残念な心持ちがします。ノルウェーでは決められた漁獲枠を守りつつも、一隻あたりの漁獲高は日本をはるかに上回ります。漁業も獲れる魚も高い品質を保っている現状はしかし、漁業管理が徹底された結果というよりも、他業種に人材を奪われて漁師が大きく減少し続けたからだという見方もあり、注意して考える必要がありそうです。さらに、漁業管理においてこの20年ほど問題として取り上げられているのは、果たして漁業資源のストックを適切に見積もることができるのかということです。水産科学者は自分のキャリア初期に見られたストック量をベースラインとして経年変化を評価しますが、次世代の科学者がキャリアを始めるときにはストック量が減っており、それが新たなベースラインとなります。これはシフティング・ベースライン・シンドローム(SBS)と呼ばれ、二つの健忘症が原因とされます。一つは、個人によるもの。個人は正常性の認知を更新し続けるため、様々な以前の状況を経験した人々でさえ、現在の状況は過去の状況と同じだと信じてしまいます。もう一つは、世代によるもの。個人は自分の経験から認知を設定しているため、自身の経験を将来世代にまで引き渡すことに失敗します。こうして正常性という人々の認知は更新され、過去の状況は忘れ去られます。

モアイ文明が滅亡したイースター島で、かつて最後の木を切り倒した島民は決して愚かだったわけではなく、何世代にもわたって風景が徐々に変わっていったため、ほぼ丸裸な島を当たり前だと感じていただけです。米国の雪崩専門家ジル・フレッドストンは、ノルウェーで放牧されている羊を見て、真に野生のものを認識するためのベースラインを失うことへの恐怖を吐露しています。ノルウェーでは社会や生活のリズムが意識的にゆったりと調整されているがために、そしてかつてのイースター島のように土地と文明の豊かさが多くの社会的課題を覆い隠しているがために、周囲の風景が少しずつ変わっていることに気づきにくいのでしょう。ノルウェーが北海油田を発見するつい半世紀ほど前までは貧しい農業国だったということも、今の私たちは想像することさえ難しくなっています。

『君の名は。』で名を馳せた新海誠監督の次作となるアニメ映画『天気の子』では、雨が止まずに水没した東京を前に自責の念に駆られる主人公に向かって「世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」というセリフを吐く大人が印象的でした。モチーフとしてこの映画に一瞬だけ登場したのは「アントロポセン」(人新世)という言葉です。これは人間の所業が地球に深く刻み込まれた新たな地質時代を指すもので、人間と自然とがもはや不可分であるということを意味しています。昨年夏、熊谷では41.1℃、オスロでは34.6℃と観測史上最高気温を記録しました。毎年のように《観測史上初》を更新し続ける異常気象に対し、私たちはすでにどこかで感覚が麻痺したのかもしれません。子供の頃からこんなもんだったと思ったり、これは人為的要因ではなく長期的な気候変動によるものだと思ったり。ベースラインを自分の体験に基づく直近の過去に寄せたり、逆に、数百万年単位の過去にまでスケールを飛ばしたりするということは、つまり私たちの間で共通の土台を見失っているのです。何に対して世界が狂ったのかという疑問や自分たちが狂わせたかもしれないという反省もなく大人たちが開き直る一方、若者たちが狂った世界のなかで小さな物語を紡いでいくことを「大丈夫」だと諦観するのは、人々が認識のベースラインを失ったまま近い将来の利益を優先してしまう時間非整合性だけが肥大化した結末といえるでしょう。

フィヨルド観光船から臨むソグネフィヨルド

人類史上初めて南極点に立ったアムンセンは、名誉を重んじ功を焦った英国のスコット隊が全滅したのとは対照的に、過酷な状況下で非常に冷静かつ的確に判断を下して遠征を成功に導きました。ノルウェーの偉大な冒険家はアムンセンばかりではありません。フラム号を離れて北極圏で越冬したナンセンや、筏船のコンティキ号で南太平洋を航海したヘイエルダールは、極夜行で知られる角幡唯介さんに言わせれば社会や時代のシステムから脱した真の冒険家です。彼らは単に無謀だったのではありません。科学者という一面もあり、冒険前や最中に様々なリスクを的確に見積もった上で、運も味方につけながら柔軟に意思決定をしていく能力と強い意志がありました。そして冒険の成功は、システムに対する社会的批判ももたらしたのです。

2018年にスウェーデンの女子高生グレタ・トゥーンベリが一人で議会前に座り込んで始めた気候変動への抗議は、今やノルウェーを含めて世界中に広がりを見せています。将来を割り引いて居直る大人たちを向こうに、狂っていく世界を正そうとする若者たちの言い分は非常に真っ当なものです。これに対し、政治的道具として利用されているに過ぎないとか、現実の経済や社会の複雑性を覆い隠しているだけだという穿った見方もなされます。フランスの黄色いベスト運動が「地球の終わりよりも月末が大切」だとして炭素税による燃料価格の高騰に反発したように、将来に対する真剣な憂慮は反エリート主義や反知性主義を招き、民衆の敵だと指弾されるおそれがあります。それでも、いや、それだからこそ、長期的な未来への理想を語ることはこの鬱屈した現代に必要なものでしょう。ただ、そうした理想が昔とはベースラインが異なっているという事実も十分にわきまえなければなりません。アントロポセンという新しい地質時代では、自然を対象化し、人間が自然保護を担い、環境と経済の持続可能性を両立させるというベースラインがもう成り立たなくなっているのです。現状の開き直りや拒否、諦観にとどまらず、若者も大人も新たな世界への基線を見つけるために踏み出してくれることを切に願っています。ヴァイキングや真の冒険家のように、既成のシステムから脱する力を携えて。

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