アーカイブ研究会 ~じぶんたちのために、つくる、しらべる~

投稿者: | 2022年5月13日
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アーカイブ研究会

~じぶんたちのために、つくる、しらべる~

 

瀬野豪志

(NPO法人市民科学研究室理事、市民研「アーカイブ研究会」世話人)

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いま、保存するか、消去するか じぶんたちはどうするのか

「デジタル化」と「大量のデータ」にもとづく「アーカイブ」の欲望が高まっている時代において、「じぶん」と「市民社会」はどうなっていくのか。この問題も、ひとつの「科学」になっていくのではないか。これまで、「科学と人間」、「科学と社会」、「技術と文化」と言われてきた問いは、映像や音声も含めた「デジタルアーカイブ」の構築によってどうなっていくだろうか。しかし実際には、新しい技術が絡みながら、政治やビジネスや他者との関係で、「アーカイブ」としての「保存」や「継承」はどこまでできるだろうか―と、わたしは「じぶん」勝手に考えながら、昨年から、市民科学研究室の動画を視聴するためのサイト「くらしとかがくのアーカイブ」の開設とともに、新しいメンバーで「アーカイブ研究会」の活動を始めています。Bending Science研究会で行ってきた、国内の産業による「日本の科学」の事例研究も、このアーカイブ研究会で継承することにしています。

市民科学研究室には、会員にはあまり知られていないようなものがたくさんあります。科学と社会に関する蔵書の他に、小冊子、論文、活動の記録、視聴覚資料などが保管されています。これらの資料群(アーカイブズ)を、市民科学研究室の「アーカイブ」として利用しやすいようにして、これをもとにした「市民科学」を生み出していくというのが「じぶん」たちの狙いです。

 

「制作する」と「研究する」 コミュニケーションができるか

市民科学研究室での「アーカイブ」の活動は、「制作」と「研究」を両方できるようにすることを目標として、「じぶんでつくる」、「じぶんでしらべる」を合言葉にしながら進めていきたいと考えています。数多くの動画を閲覧できるアーカイブサイトをつくることや、過去・現在・未来を貫いていく集合的な「アーカイブ」についての研究は、学問的な専門分野だけでなく、世の中のいろんな職業の分野にも関わりながら、「じぶん」たちのために進めていく必要があります。

それは、わたし自身が関わっている「音」「サウンド」の分野でも考えさせられてきたことです。制作するにしても、研究するにしても、そのためにつくられてきた環境は、他の分野よりも「デジタル化」しました。しかし、それ以前の制作の環境をもとにしていることが多く残っている面もあり、デジタル機器があるだけでは実際に使っていくための「コミュニケーション」がうまくいかないのです。結局のところ、動画などでの「ハウツー」のような伝え方で、具体的に起きることが知識として伝承されていくように見えます。

世の中には、音響技術の「マイクロフォン」と「スピーカ」が数多く存在しており、個人でも「レコーディング」をしながら膨大な数の音声ファイルを扱うことができるようになりつつあります。それによって、大規模な工場でなくとも、大人数のスタジオでなくとも、音を生産し、音を利用することはできるようになっています。しかし、その反面、手作業をする「じぶん」たちのレベルでは、かつてのような工程や分業の役割はあいまいになり、お互いに干渉したり役割を交換したりしながら「じぶん」の音声が生み出されます。この「コミュニケーション」の変化に戸惑いを覚える「じぶん」は少なくないのではないでしょうか。

「デジタル化」する以前から、少人数の録音制作のような現場ではよく起きていたことですが、たとえば、制作の作業が進んでいくにしたがって、「表現者・制作者」が「技術者・研究者」のような領域にも入っていくというような、具体的な作業の進め方の変化が起きます。音楽制作に限らず、「デジタル化」で言われているような「コミュニケーション」の変化のモデルは、デジタル化以前に起きていた具体的な活動に過ぎません。

現在では、ちょっとした「動画」を制作するのも技術的には簡単なことのようですが、その具体的な作業を進めるには、新旧問わずデータを取り込み、動画サイトに登録し、どのように整理して「公開する」のかを「じぶん」で操作するという活動になるはずです。おそらく、「撮影する」「録音する」という一連の行為が、どこまでのことなのか、「じぶん」はどういうことをしているのか、誰にどのように利用されるのか、よくわからないまま進められているはずです。

 

「統治」と「じぶん」だけの発想にはない、「じぶん」たちの持続性があるか

いま、なんでも音や映像にする必要はないのは当然のことです。ときには、「使わない」というのも「じぶん」の音や映像を操作するために判断する場合もあるでしょう。しかしながら、「じぶん」を隠すだけでは、「じぶん」たちの使い方にはならないのが悩ましいところです。「コミュニケーション」の技術を使うからには、「監視」と「プライヴァシー」の問題があり、その元々の電話技術が「盗聴」と「秘話」を同時に可能にしているように、デジタル化した「アーカイブ」にも同じ問題があります。個人的な「プライヴァシー」や意思を尊重した上で、将来の集合的な「じぶん」たちの持続性のために、という利用目的がより明確にされるべきなのかもしれません。

人間も含めて、生き物には「隠れ家」が必要です。また、それぞれの専門分野や役割があるのはいいのですが、アーカイブをつくることは、現時点では何のためにあるのかわからない状態で保存する活動とも言えるので、「わたしは関係ない」、「あっても便利なことはない」という声も、よく聞かれることがあります。人間同士の関係次第で手作業の仕事が生み出されるのは今も昔も変わらないはずですが、デジタルアーカイブを成り立たせている技術的なシステムは、いくら「コンテンツ」がたらふくあっても、快適な「オートメーション」化や「リモート」化を要求するだけのような隠れ家にもなります。「アーカイブ」をじぶんたちでつくることとして考えるならば、機械やシステムが介在するとしても、それぞれの持ち味を活かし合う「積極的自由」のようなことではないかと考えています。

 

じぶんでつくるように理解することができるか

わたしがこの「アーカイブ」研究会で、もうひとつ大事にしているのは、ある資料を具体的な事例として扱うとき、その「内容」だけでなく、その「技術」も理解するということです。つまり、それがどのようにして記録されたのか、どのような経緯で残されているのか、その「保存」や「アーカイブ」を可能にした具体的な「手仕事」や「技術」の側面も、じぶんもつくる立場であるかのように考えてみるということです。

たとえば、「音声」の録音資料では、何が録音されているのか(聴こえてくるのか)ということ以上に、どのように録音されたのかという手法や、その「サウンド」をもたらしている「技術と社会」の具体的な過程を考えることが重要です。そもそも「再生される音」の技術とは何なのか。なぜそれを録音するためにマイクは向けられたのか。それによってどのようなことが継承されるのか。実際には、古いレコードの再生音を「デジタル化」しただけでは、音を聴いてもわからないことが多いのです。何が録音されているのかを理解するには、「再生される音」なるものを、それを生み出す具体的な手仕事による制作の方法と、それを聴いていた人の聴き方を、科学・技術・社会・文化の絡み合う事情から理解することが大事だと思います。

これまでの研究会から、下記のようにいくつかのテーマが出てきていますが、サウンドアーカイブの例を使って、じぶんでつくるように理解する試みを具体的に紹介しましょう。

 

1. 映像や音声を扱うデジタルアーカイブ 「一次資料」から「コンテンツ」までの層について

2. 科学の映画、番組 「原爆番組」の源流と変遷について

3. 生態学を支えてきたもの 私的なレコーディング

4. サウンドアーカイブ 声を聴く

 

日本の「サウンドアーカイブ」の事例として、国会図書館の歴史的音源「れきおん」を取り上げました。インターネット公開されている山田耕筰の「芸術的楽曲の解剖と鑑賞」と「うたい方」を聴いて、研究の活用の一例として議論してみました。

作曲家の「アーカイブズ(史料群)」の研究をしている大学院生がメンバーにいるということもあって、この資料を選びましたが、わたしなりの研究(「サウンドスタディーズ」)として指摘したのは、次の二つの点です。

そのひとつは、「ミックス」の問題です。下記の「芸術的楽曲の解剖と鑑賞」では、楽曲の音が流れる上に、山田耕筰の声が重なってきます。蓄音器の前で一緒に「レコード」を聴きながら、楽曲の解説を聴いているような音声です。今の我々にとっては、山田耕筰の声であるということのほかに、特になんてことはない録音のように聴こえるのですが、「れきおん」の音声は、ヴィクターやコロムビアといった会社が発売していた「レコード(SP盤)」をデジタル化したものです。当時の「レコード」制作としての試みを聴き取ろうとするならば、現在の放送番組や多重録音に近い「ミックス」が施されているということに気付きます。どちらかというと、山田耕筰の声が「主」であるような音になっています。これが放送用に録音されたものか、放送番組が録音されたものか、そのあたりの録音制作の経緯はわかりませんが、いずれにしても「多重録音」のようにミックスされているということには、放送番組や音楽の再生の問題にとどまらない場合があるのです。たとえば、報道番組での印象操作の問題や、ポピュラーミュージックのレコードで裁判沙汰にまでなっている「サブリミナル」の問題も、「多重録音」のミックスという過程がなければ、そのような「危険な多重録音」という懸念もあり得ないでしょう。しかしながら、ミックスという観点から、時代を追って比較し、その技法がどのように作られたのか、その「ミックス」が聴き手に何をもたらしたのかということまでは、まだまだレコードの「アーカイブ化」が不十分であるために、調べることは難しいかもしれません。

もうひとつ聴き取ることができるのは、日本語の「うたい方」という歴史的な問題です。山田耕筰が「悪い例」も歌って聴かせているレコードがあります。山田耕作が自作曲を自演しているというと、面白いことをしている音声のようですが、これは、とても深刻な、とてもいい加減な、現在も続いている日本語の難しい問題に関わっています。日本語の「うたい方」は、なかなか標準化できず、山田耕筰の歌曲ですら統一できなかったために、作曲者がみずから歌っている、ということなのです。山田耕筰の楽譜を研究した声楽家の藍川由美によって書かれている『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書、1998年)は、レコードの録音で起きてしまっている「うたい方の揺れ」を豊富に紹介していますが、日本の歌曲の楽譜には揺れがあるのでレコードを参考にしようとしたら「うたい方」が歌手によってまちまちでさらに混乱してしまった、という経緯が書かれています。制作する表現者にとっては悩ましい混乱ではありますが、レコードを聴けば聴くほどわかってくる「揺れ」や「混乱」は、アーカイブを活用した研究としては、日本語の「うたい方」の歴史についての発見でもあると思うのです。同じ曲でも、歌い方や演奏が違うということは、ポピュラー・ミュージックでは当たり前なことのようになっていますが、実際の録音でどのようなことが起きているかは、いくつかのレコードを聴いただけではわかりません。「じぶん」はどのように歌うのか、つまり、日本語をどのように発音して歌えるようにするかということは、表現者も研究者も関わりながら、制作と研究の双方から考えられ続けている問題のようです。

 

芸術的楽曲の解剖と鑑賞:シンフォニー形式(一)(モーツアルト 交響曲第40番)

https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3571378/1

 

芸術的楽曲の解剖と鑑賞:ソナタ形式(一)(Beethoven Piano Sonata Op.13)

https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3571374/1

 

邦語歌曲による歌のうたい方:母音三種類(1930)

https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3572032/1

 

邦語歌曲による歌のうたい方:音階のうたい方(1930)

https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3572034/1

 

邦語歌曲による歌のうたい方:「からたちの花」と「この道の」善悪の例の比較(1930)

https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3572039/1

 

今後もそれぞれのテーマを深めていくとともに、その他にもアーカイブ研究会のメンバーの研究発表も行っています。科学映画についてのイベントや、市民活動の情報媒体として重要なミニコミ誌のアーカイブについての調査、著作権や「プライヴァシー」などの問題についても、近々、研究会で扱っていく予定です。

 

「隠される」と「公開する」 埋もれる、発見される、将来、新しい意味をもつ可能性

「アーカイブ」というものを、生態学的に考えれば、「じぶん」たちの活動のための意味と価値を支える「環境」のひとつとして考えることもできます。手を動かす「じぶん」たち次第で、「保存」や「継承」のありようは、資料のレベルでも組織のレベルでも、いつでもどうにでもなってしまうと同時に、その結果が「じぶん」たちに跳ね返ってくるでしょう。学術研究やミュージアムのために行われてきたように、「アーカイブ」で保存される資料は、将来、誰がどのように活用するかわからない潜在的な資源として考えられています。このような考えのもとで、「著作物」「番組」「コンテンツ」のような制作物も、私的な記録物も、制作した「じぶん」の意思があれば、公共的な活用のために提供されうるのです。

もちろん、どういうものがアーカイブにおいて資料として公開されるのか、どういうものが「じぶん」のために公開されないようにするのかは、通信技術を使って「アーカイブ」化する社会の重要な問題です。アーカイブ化するということには、「隠される」ことと「公開する」ことの両方の可能性が含まれています。

また、ジャック・デリダの『アーカイヴの病 フロイトの印象』のように、精神分析的な「記憶」や「無意識」の問題と「アーカイブ化する欲望」を重ねて考えることも、ますます「心理学化する」社会における重要な論点ではないかと思います。あまり語られることのなかった「じぶん」の問題は、偉人の「成功」談とは違った意味で、社会的な過程による問題でもあって、家庭生活やジェンダーにおいて社会的な要因によって隠されていることだけでなく、「科学」の現場に関わっていく過程の「じぶん」のことばにも、何が隠されているのかを問い返すことが社会的にも重要であろうと思います。これは、研究者にも見えづらい科学研究を推進していくシステムや制度の問い直しでもあります。

「アーカイブ」は、統治権力の「公文書」に基づく長い歴史の上にある概念であり、近代以降においては、政府と市民との法的な関係を維持するためになくてはならないものです。そして、現代では、「文書」だけでなく、「録音」と「映像」の記録、「デジタル」の膨大なデータの蓄積が始まっています。それらをどのように保存して活用するかは、「じぶん」たち次第であり、未来の「集団の持続可能性」と「個々の人生」に深く関わる、現在の政治的・社会的な問題であると、わたしは考えています。

 

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